テオはその音を聞いたまま、しばらく動かなかった。
引き出しの奥で紙がずれた。ほんのそれだけの音が、診察室の空気を変えていた。窓の外では夕方の風が看板を鳴らし、待合室の椅子はすべて空になっている。だが叔父の机だけは、まだ誰かが座っているように重かった。
鍵は見つからなかった。上の引き出し、薬棚、処置室の古い白衣のポケット、受付台の小箱。テオは一つずつ確かめたが、真鍮の鍵穴に合いそうなものはどこにもなかった。夜が深くなるころ、彼は机の前の椅子に座ったまま、症状表と鍵穴を交互に見ていた。
『何を、ここまでして隠した』
叔父は几帳面な人間だった。処方量の端に小さな注意を書き、患者の家族構成まで古いカードに残している。その叔父が、理由だけを書かず、一番下の引き出しだけを閉じた。
眠ったつもりはなかった。けれど窓の外が白み、受付の戸を開ける音でテオは顔を上げた。パク・ミラが湯気の立つ紙コップを二つ持って立っていた。
「先生、ここで寝たんですか」
「寝てはいません」
声が自分でもひどく乾いていた。ミラは机の下へ目を落とし、鍵のかかった引き出しを見て、すぐに表情を変えた。
「そこ、開けようとしたんですか」
「鍵がありません。予備は」
「倉庫に古い鍵束がいくつかあります。でも、合うかは分かりません」
「見ます」
テオは紙コップを受け取らずに立ち上がった。廊下の先、湿った匂いのする倉庫には、壊れた血圧計、空の酸素ボンベ、期限切れの包帯箱、使わなくなった看板が押し込まれていた。ミラは壁の釘に掛かった札を一つずつ外し、テオは棚の奥まで腕を入れた。埃が舞い、古い消毒液の匂いが鼻を刺す。
「所長は、その引き出しだけはいつも自分で開けていました」
ミラが小さく言った。
「ほかの書類は、私に片づけろって普通に渡したんです。でもそこだけは、私が近づくと閉めたんです。怒鳴る人じゃなかったのに、あの時だけは……」
「何と言いましたか」
「触らなくていい、と。これは診療録じゃない、と」
診療録ではない。テオはその言葉を頭の中で繰り返した。では、何だったのか。診療録より他人に見せたくないもの。患者の名前より、薬の量より、もっと重いもの。
倉庫の奥の茶色い缶の中から、錆びた鍵束が出てきた。大小ばらばらの鍵が十数本、古い針金でまとめられている。いくつかは錆で歯が潰れ、いくつかは札の文字が消えていた。テオはそれを握ると、掌に冷たい金属の重みが沈んだ。
診察室へ戻る前に、もう患者が来始めていた。昨日のけいれんを見たせいか、待合室の空気は以前と違っていた。薬だけを求める目ではない。迷いながらも、自分の中にある不安を出しに来た目だった。
最初に来たのは、発疹のあった男児の母親だった。熱は下がったが夜中にまた汗をかいたという。テオは腕の線を写真に残し、飲んだ水、食べたもの、遊んだ場所を聞いた。
次の母親は、娘の腕を自分からまくった。
「前にも出たんです。去年の今ごろ。すぐ消えたから、言いませんでした」
「熱は」
「二日だけ。夜に高くなって、朝には下がって」
テオは赤い印を症状表に足した。去年。同じ月。同じような二日間。
午前の終わりには、老人たちも来た。ヤン・ボクナムの隣家の男は、紙コップを持つ手が小刻みに震えていた。本人は笑ってごまかそうとしたが、妻が先に口を開いた。
「前からなんです。年のせいだと思ってました。でも、昨日ここで子どもが倒れるのを見て……」
「いつからですか」
「正確には分かりません。春先になるとひどくなる気がします」
テオは黒い印を足した。手の震え。物忘れ。不眠。子どもの発疹とは違う顔をした症状が、同じ時期に紙の上へ並んでいく。
昼前、模造紙はもう空白を失いかけていた。赤、青、黒の印が、診察室の机を越えて壁にまで広がる。テオは一行ずつ増える名前を見ながら、これが昨日今日の異常ではないことを改めて思い知らされた。
十年前。七年前。去年。前月。五日前。
島はずっと発熱し、震え、忘れてきたのだ。誰かが一人ずつ診て、薬を出し、生活へ戻してきた。その陰で、原因だけが何度も置き去りにされた。
ミラが受付の横から低い声で言った。
「先生、所長も同じような表を作っていました」
テオの手が止まった。
「表?」
「夜に一人で。患者さんが帰ったあと、机の上いっぱいに紙を広げて。私が見ようとすると、すぐ片づけて、その引き出しに入れていました」
「いつごろからですか」
「ずいぶん前です。少なくとも、私がここで働き始めた時にはもう」
「その表に、何が書いてあったか覚えていますか」
ミラは首を振った。だがすぐに、何かを思い出したように眉を寄せた。
「日付が多かったです。名前より、日付を何度も丸で囲んでいました」
テオは壁の模造紙を見た。丸で囲んだ日付。老人のカード。子どもたちの発疹。叔父が何を見ていたのか、輪郭だけが霧の中から浮かぶ。まだ原因は見えない。だが叔父は、少なくとも同じ場所まで来ていた。
午後の診療を終えるころ、テオは鍵束を机の上に置いた。金属が触れ合う音に、待合室に残っていた数人が顔を上げた。彼は一番小さな鍵から試した。入らない。次も違う。三本目は途中でつかえ、四本目は鍵穴の中で空しく揺れた。
ミラは受付の内側で立ったまま、息を潜めていた。
「無理に回すと折れます」
「分かっています」
テオは短く答え、次の鍵を選んだ。錆が指に移り、爪の間が黒くなる。何本目かで、鍵は奥まで入った。だが回らない。彼は一度抜き、油の匂いが残る鍵穴を見つめた。
叔父が守ろうとしたのは、患者か。島か。それとも、自分自身の沈黙か。
次の鍵は細く、歯が片側だけ不自然に擦り減っていた。テオが差し込むと、金属の先が奥でかすかに噛んだ。手首に力を入れる。動かない。さらにほんの少し角度を変えると、錠の中で硬いものが沈む感触があった。
その時、待合室の入口から低い声が流れ込んだ。
「その引き出しは、開けないほうがいいでしょう」
テオは振り向かなかった。ミラが小さく息をのむ。声の主は、精米所のチェ・ドゥシクだった。背の高い男ではないが、戸口に立つだけで廊下の光を遮るように見えた。ゆっくりした口調は、忠告にも脅しにも聞こえた。
「チェさん。診察ですか」
「違います」
「では、あとにしてください」
「所長が閉じたものです。先生が開けていいものではない」
テオは鍵を握ったまま、ようやく顔を向けた。ドゥシクの目は机ではなく、鍵をつかむテオの指を見ていた。そこには怒りより先に、恐れがあった。
「叔父が閉じた理由を知っているんですか」
ドゥシクは答えなかった。ただ、唇の端だけがわずかに動いた。
「島には、触れないほうがいい病もあります」
「病なら、触れます」
「病だけで済まないから言っているんです」
待合室の空気が冷えた。ミラが二人の間を見比べる。テオは鍵から手を離さなかった。
「今朝、住民が自分から症状を話しに来ました。子どもの発疹も、老人の震えも、前から繰り返していた。誰かが知っていて黙っていたなら、もうそのままにはしません」
ドゥシクの顔がわずかに歪んだ。
「生きている人間まで傷つきます」
「今も傷ついています」
テオはそう言い、鍵を回した。
乾いた音がした。長く動かなかった錠が、喉に詰まったものを吐き出すように内側で外れた。ミラが一歩近づき、ドゥシクは戸口で固まった。
引き出しは最初、木が貼りついて抵抗した。テオは両手で取っ手を握り、ゆっくり引いた。奥で紙束がこすれ、乾いた埃が光の中へ舞い上がった。
中には、茶色く変色した封筒と、紐で縛られた古い紙の束がぎっしり詰まっていた。上に置かれた一枚の端には、叔父の筆跡で日付が並び、その下に赤い線が引かれている。さらにその紙の右上には、かすれた印字で「死亡診断書控」と読めた。
テオの指が止まった。ドゥシクの低い息だけが、待合室から聞こえていた。
束の一番上、叔父が赤で囲んだ名前の横に、小さな文字が添えられていた。
「処方記録と合わない」
その一行を見た瞬間、テオは自分が開けたのが単なる引き出しではなく、叔父が死ぬまで押さえ込んでいた島の傷口そのものだと知った。
その島では、雨が降る前に患者が増える
12話 食い違う死亡診断書
次の話