テオは携帯を耳に当てたまま、机の上の死亡診断書へ目を落とした。ソジンの声の向こうで波が砕け、同じ音が紙の端を震わせているように聞こえた。
「そこから離れずに見ていてください。無理に止めないで」
「分かりました。けど、満ちてきています。足元まで波が来ています」
通話を切ると、テオは記録綴りを抱えた。ミラが受話器を握ったまま立っている。
「家族には、浜へ来ないよう伝えてください。人が増えると動かせなくなります」
外へ出ると、グムレが保健支所の石段の下にいた。誰かから聞いたのか、作業上着の前を合わせる間もなく来たらしい。
「玉石浜へ行くなら、北の干物小屋を過ぎて左だ。車は途中までしか入らん」
「一緒に来ますか」
「来るなと言っても行くんだろう」
ちょうどソジンのトラックが坂を下りてきた。テオが助手席へ乗ると、グムレも後部の狭い座席へ体を押し込んだ。ドゥシクは戸口に残っていた。何か言いたげに唇を動かしたが、最後まで声にはならなかった。
トラックは北の道を上った。集落の屋根が背後へ沈み、畑の脇の水路が細く光った。車体が跳ねるたび、テオの膝の上で記録綴りの角が手帳に当たった。
赤く囲まれた日付。若い頃のヤン・ボクナムのカード。手の震え、発疹、高熱。同じ月。同じ間隔。
『認知症の徘徊だけなら、日付はそろわない』
北の干物小屋を過ぎると、道は石だらけになった。ソジンはトラックを止め、三人はそこから歩いた。玉石浜は名前のとおり、丸く削られた黒や灰色の石が広く敷かれた浜だった。砂ではなく石を踏む音が、足元で細かく鳴った。
水際に三人の老人が並んでいた。
ヤン・ボクナム、イム・ドンチョル、チョ・サムス。肩を寄せているわけではない。互いを見てもいない。ただ同じ距離をあけ、海へ顔を向けて立っていた。膝下まで波に濡れ、ズボンの裾が重く肌に貼りついている。
ソジンが低く言った。
「近づいたら、逃げるというより、もっと前へ行こうとします」
「声を荒げないでください」
テオはゆっくり近づいた。三人の口が動いている。波が引く一瞬だけ、低い声が拾えた。
「キム・ヨンス……旧暦三月十七日……」
「オ・ギョンスク……旧暦三月十七日……」
「パク・チャンホ……旧暦三月十七日……」
名前と日付は、三人の口で少しずつずれながら、同じ輪を回っていた。テオは腕をつかまなかった。ポケットから手帳を出し、濡れないよう胸に引き寄せて書いた。
キム・ヨンス。旧暦三月十七日。
オ・ギョンスク。旧暦三月十七日。
パク・チャンホ。旧暦三月十七日。
「ボクナムさん。聞こえますか」
老人の目は海を見たままだった。だが返事の代わりに、右手の指がわずかに動いた。震えは安静時にもあり、親指と人差し指が小さくこすれる。寒さだけではない。
テオは一歩横へ移り、ボクナムの斜め前に膝をついた。
「ここがどこか、分かりますか」
「……玉石」
「今日は何をしに来ましたか」
ボクナムの唇は乾いていた。目の焦点は遠く、けれど完全に途切れてはいない。
「呼ばれた」
「誰に」
返事はなかった。隣のイム・ドンチョルが同じ日付をつぶやいた。チョ・サムスは膝を震わせ、倒れないよう石を足の指でつかむように立っている。テオは三人の顔色、呼吸、汗の量を見た。熱によるせん妄の顔ではない。今すぐ意識を失う状態でもなかった。
グムレが後ろで苛立った息を吐いた。
「昔からだ。あの年寄りたちは、月が変わるとこうしてぼんやりする。耄碌しただけだ。濡れて風邪をひく前に戻すぞ」
「今、急に腕を引けば転びます」
「転んでも浜だ。海へ入るよりましだろう」
テオは答えず、ボクナムの左手をそっと取った。老人は抵抗しない。指先は冷え、爪の色は悪くない。握ってもらうと力は弱いが左右差は目立たなかった。次に目の前で指を動かす。視線は遅れて追った。問いに対する反応は遅い。だが単なる記憶の崩れだけでは説明できない、日付への執着があった。
「先生」
ソジンが横に寄り、波音に紛れるほど低く言った。
「チョさんの奥さんから聞きました。三人とも、毎月来るそうです。いつも旧暦の同じ日です。家族は、満月のせいだとか、昔の癖だとか言っていました」
テオは手帳の端に、毎月、と書いた。三月十七日が毎月あるはずはない。老人たちは日付そのものではなく、旧暦のある日を、過去の一日に重ねている。叔父が丸で囲んだ数字。死亡診断書で静かにされた死。ボクナムの古いカードに残った症状。
「それを、前に誰かに話しましたか」
「島では、年寄りのすることに理由を聞かないんです。面倒になるから」
ソジンの声には、自分自身への嫌悪のような硬さが混じっていた。
グムレが二人の会話を断つように近づいた。
「先生、もういい。名前を書いて何になる。死んだ人間の名前を浜で拾っても、薬にはならん」
「今、生きている人の症状になります」
「症状?」
「三人とも同じ刺激で、同じ記憶に戻っている。日付も名前も、偶然ではありません」
グムレの目が鋭くなった。十年前に娘を失った人間の目だった。だが彼女は怒鳴らなかった。ただ、三人の老人ではなく、テオの手帳をにらんだ。
そのとき、チョ・サムスが今までよりはっきりした声で言った。
「……パク・チャンホ、旧暦三月十七日」
イム・ドンチョルが続けた。
「キム・ヨンス、旧暦三月十七日」
ボクナムの唇が遅れて動いた。テオはペンを握り直した。次に来る名前を書き留めるためだった。
「……ユン」
音は波に切られた。ソジンの肩が小さく動いた。テオは顔を上げかけたが、ボクナムが続ける前に視線を手帳へ戻した。
「もう一度言ってください」
「ユン……ミン……」
そこまでで声が途切れた。老人の喉が上下し、顔がわずかに歪んだ。記憶の底から何かを引きずり上げるような表情だった。テオは手帳に、ユン、ミン、とだけ書いた。最後の一音を待つ。
グムレが息をのんだ気配が背中に刺さった。さっきまで早く戻ろうと急かしていた体が、石の上で固まっている。ソジンはもう老人を見ていなかった。浜辺の端、黒い岩が積もるほうへ体を向けていた。
ボクナムが、波音の合間に海へ向かってささやいた。
「五人じゃなかった」
その言葉は大きくなかった。けれど浜全体の石が一度に沈んだように、誰も動かなかった。
テオは手帳から目を離せなかった。四人でも、五人でもない。死亡診断書の数字も、叔父が残した注記も、いま老人の口からこぼれた否定の前で形を変え始めていた。
彼は震えそうになる手を押さえ、今聞いた言葉をもう一度書いた。
五人じゃなかった。
さらにその下へ、同じ言葉を二度目に書きつけた。
五人じゃなかった。
二行目の文字の横で、ソジンの靴音だけが、浜辺の端の黒い岩へ向かって動き出した。
その島では、雨が降る前に患者が増える
14話 消された五人目の処置記録
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