暗い通路の壁に、赤い雨の戦場が滲み始めた。
ユチャンは金属片を握ったまま、膝を石床へついた。逃げ道はない。灰色の壁は前後を塞ぎ、暗渠の低い天井はいつの間にか処刑場の空へ変わっていた。錆びた鉄の匂い。濡れた土。喉の奥で泡立つ血の味。
灰色の塔二階の床にいたはずの身体が、次の瞬間、牧場の処刑場へ投げ込まれた。
丸太を組んだ台の上に、黒い刃が吊られていた。足元には古い血が重なって乾き、雨が降るたび赤黒い泥に戻る。ユチャンはそこを知っていた。何度も通った。何度も縛られ、何度も首を落とされた場所だった。
「……戻ってきたのか」
声がした。
ユチャンは顔を上げた。処刑台の下に、人影が並んでいた。雪原で凍死した少年。砂漠で水を分けた女。城壁で最後まで門を押さえていた老人。名前を覚えている者も、忘れたはずの者もいた。みな、牧場へ連れてこられ、最後まで生き残れなかった者たちだった。
彼らの顔は責めていなかった。だからこそ、刃より深く刺さった。
「なぜ、おまえだけ戻った」
少年が言った。声は乾いていた。
「俺たちは、まだあそこにいるのか」
女が尋ねた。
「おまえは知っていたのに、置いていったのか」
老人の手には、城門を押さえ続けた時の折れた指が残っていた。
ユチャンの胸の奥で、熱いものが暴れた。怒りではなかった。最初に上がったのは、言い訳したい衝動だった。違う。俺も死んだ。戻れると知っていたわけじゃない。全員を連れて帰る力などなかった。
だが口を開けば、その言葉も収穫される。
処刑場の空に、別の声が重なった。
【復讐反応を検出】
【怒り類型:高密度】
【職業補正候補を提示可能】
ラケイア管理者の声だった。直接耳へ届くのではなく、脳の内側に命令文として刺さる。冷たく、滑らかで、人間の後悔を道具のように測る声。
【対象チョン・ユチャン】
【復讐心を顕在化せよ】
【敵対対象を明確化せよ】
【強化職業:処刑者、復讐騎士、記憶狩りを提示可能】
刃の下で、人影たちが一斉にユチャンを見た。
「殺せばいい」
「奪われた分、奪い返せ」
「おまえだけでも、あいつらを全部壊せ」
その言葉は、彼らのものではなかった。言わされている。死者の顔を被せ、怒りを流し込ませるための装置。三階の処刑場幻覚を先に呼び出し、二階で適性分類を書き換える。逸脱者用の非常手順だ。
ユチャンは奥歯を噛んだ。
『怒るな。怒れば、奴らの台本だ』
怒りはあった。十年分あった。今すぐこの幻覚ごと塔を裂き、管理者の喉へ歯を立てたいほどの怒りだった。けれどラケイアはそれを待っている。復讐を見せた人間には、より強い職業を与える。強くして、長く使い、最後に所有する。
ユチャンは息を浅くした。震える肩を止めず、恐怖も消さず、ただ怒りだけを底へ沈めた。
「……死にたくない」
彼はかすれた声で言った。
処刑台の下の人影がわずかに揺れた。
「強くなりたいわけじゃない。復讐したいわけでもない。ただ、生きて出たい。怖い。ここから逃げたい」
それは嘘ではなかった。薄く切り出した本当だった。怒りの奥には、もっと単純な欲求がある。死にたくない。もう刃の下へ戻りたくない。次の息を吸いたい。その平凡な生存欲求だけを表面へ流す。
【怒り類型:低下】
【復讐誘導適性:再計算】
【初級生存型との整合性を確認中】
管理者の声が、一瞬乱れた。
幻覚の雨が薄くなった。処刑台の縁が灰色の石床へ戻り、人影たちの輪郭が崩れる。少年が何かを言おうとした。女も、老人も。だが口から出たのは言葉ではなく、灰色の文字列だった。
ユチャンはその隙を待っていた。
彼は膝をついたまま、右手の金属片を床へ突き立てた。処刑場の泥に見えていた足元は、灰色の塔二階の収穫回路だった。幻覚を維持するため、床下の細管が彼の記憶と恐怖を吸い上げている。赤い雨の映像に紛れ、細い光が一定間隔で脈打っていた。
清掃奴隷の手順では、汚れた管は外側から外さない。詰まった部分を内側へ押し込み、流れを逆流させる。
「おまえらの道具は、いつも詰まりに弱い」
ユチャンは金属片をひねった。
乾いた破裂音が床下で連鎖した。灰色の光がひと筋ずつ途切れ、処刑場の空が割れた。人影たちが悲鳴ではなく、記録の剥がれる音を立てて崩れていく。胸の奥で痛みが跳ねた。彼らを二度殺したような気がした。
だがそれも誘導だった。
ユチャンは視線を逸らさなかった。崩れる顔を見届け、床へさらに深く金属片を押し込んだ。最後の管が切れると、世界が横へずれた。
彼は暗渠ではなく、低い石室の中央に膝をついていた。二階の管理区画。壁には割れた記録石が並び、その一つがまだ光を保っている。処刑場幻覚の維持に使われた主記録石だった。
【回路断絶】
【記録補助停止】
【参照資料破損】
警告が浮かんだが、ユチャンは無視した。時間は短い。監視が再接続する前に、読まなければならなかった。
彼は記録石へ直接触れなかった。床に落ちた破片を拾い、光の通る角度だけを右目で読む。文字ではない。数式だった。ラケイアの構文で刻まれた、予測と侵攻設計の式。
地球側シミュレーター入力値。人間の戦闘反応。恐怖波形。欲望選択。裏切り確率。ダンジョン内死亡時の精神崩壊率。
それらが一本の式にまとめられ、未来の侵攻ルートへ変換されていた。
ユチャンの指先が冷たくなった。
『やはり、ただ集めているだけじゃない』
ネオヘイルのシミュレーターは訓練装置ではない。娯楽でも、覚醒者を育てる苗床でもない。人間がどこで戦い、どこで逃げ、何を守るために判断を誤るか。それを侵攻前に予測するための装置だった。
さらに下の行を読んだ瞬間、喉の奥の欠片が低く震えた。
【地球モデル:不完全】
【現地人類の非合理選択を補正するため、感情収穫値を継続取得】
【チュートリアルデータは侵攻設計へ直接反映】
数字が示していた。正式リリース後の全プレイヤーの選択は、二年後の戦場配置へ使われる。どの都市へ先にゲートを開くか。どの職業群を孤立させるか。誰に力を与え、誰を嫉妬させ、どの集団に裏切りを植えるか。
一人のプレイログではない。人類全体の敗北予測だった。
ユチャンは破片を握り潰した。石の粉が掌に刺さる。怒りはまだ出さない。だが事実は刻む。ここで見た式は、後で必ず武器になる。
その時、塔全体が鳴った。
音ではなく、骨の内側を叩く警報だった。石室の壁の文字が赤く反転し、床下で切断した収穫回路の断面から黒い煙が噴き上がる。
【重大破損】
【感情収穫回路:二階系統断絶】
【逸脱個体の再分類に失敗】
【外部監視者を一体召喚】
ユチャンは立ち上がった。体はまだ若く、痛みが遅れてやってくる。袖は裂け、掌は血で濡れていた。だが呼吸は整っていた。
『早い』
予定より早かった。記録石を削れば警告は出る。回路を切れば監視が来る。それは想定していた。だがこの段階のチュートリアルには、まだ他のプレイヤーはいない。正式経路の初心者たちは一階の案内で職業説明を受けている頃だ。ここへ戦闘用の敵を呼ぶ理由はない。
石室の奥の壁が、内側から黒く染まった。
影が滲み出る。人型ではあった。だが門番のような測定用の外皮ではない。長い腕、細い指、顔の位置に目だけがある。灰色ではなく、光を飲む黒。壁から剥がれるたび、周囲の文字が消えていく。
ユチャンの右目が焼けるように痛んだ。
【黒い監視者:臨時接続】
【戦闘判定アルゴリズム:該当なし】
【追跡目的:異常記録臭識別】
黒い監視者の目が、まっすぐ彼の右目を見た。
それは門番ではなかった。試験官でもない。プレイヤーの強さを測る装置ですらなかった。
十年分の死を隠し、回帰者であることを押し殺し、コアの欠片を喉の奥へ沈めてきたユチャンの存在そのものを嗅ぎ分ける、狩人の視線だった。
黒い影が、初めて口を開いた。
「……戻った個体を確認」
ユチャンの背後で、核室へ続くはずの管理通路が音もなく開いた。同時に、黒い監視者の腕が石床を裂きながら伸びる。
逃げ込めば核室。遅れれば、回帰の匂いごと捕まる。
ユチャンは血に濡れた手で記録石の欠片をつかみ、低く笑った。
「取りに来い」
黒い監視者が、処刑台の刃より速く跳んだ。
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
7話 存在登録に刻む廃棄番号
次の話