柳建は返事をしようとして、唇だけを動かした。声にならない。俊瑞は戦況板を郭進に渡し、しゃがみ込んで袴の裾をめくった。
包帯は幾重にも巻かれていた。古い血は黒く固まり、その上から新しい布が汗で湿っている。結び目は雑ではない。隠すために、何度も締め直した跡だった。
「いつからだ」
「……三日前です」
「対練か」
柳建はうなずいた。
「右へ踏み込んだ時、木剣が膝下に入りました。痛みはありました。でも、歩けたので」
「歩けた、ではない」
俊瑞が腫れの端に触れると、柳建の肩が跳ねた。骨の芯から痛む反応だった。折れてはいなくても、ひびは入っている。そう判断するには十分だった。
「医薬堂へ運ぶ。今すぐだ」
「い、いえ、俺は」
身を起こそうとした柳建の顔色が紙のように白くなる。都賢九が無言で脇へ腕を入れた。北門に残っていた歓声は、そこで完全に消えた。勝ったはずの朝に、別の敗北が座り込んでいた。
医薬堂で、柳建は敷布の上に寝かされた。小平が水を汲み、郭進が処置表を広げる。俊瑞は柳建の手首を取った。脈だけですべてが分かるわけではない。それでも熱、震え、汗、呼吸の浅さは見える。
脈は速く、弱かった。痛みをこらえた身体が、戦の間ずっと細い糸でつながっていた。
「三日前の対練の相手は」
「同じ組です。相手は悪くありません。俺が足を出すのが遅くて」
「責めるためではない。記録を合わせるためだ」
柳建は目を伏せた。
「記録には……書いてません」
「なぜ」
「二日の負傷なしが、申請の条件だからです」
医薬堂の空気が重く落ちた。
高級招式の申請には、三日の出席、二日の負傷なし、対練相手の確認印。俊瑞自身が混乱をなくすために掲げた項目だった。誰が順番を奪われ、誰が無理な絶技に押し込まれたかを見えるようにするはずの線だった。
柳建は敷布をつかんだ。
「休むと、出席が切れます。対練も抜けます。夜間交代も欠けると、次の申請が遠くなります。俺、まだ一度も上の招式を見せてもらってません。ここで抜けたら、また雑用だけに戻されると思って」
小平が「馬鹿」と言いかけて、口を閉じた。叱る言葉の先に、同じ表があると気づいたのだ。
俊瑞は郭進の処置表を受け取り、今朝までの記録をめくった。柳建の名はあった。出席欄は三日連続で黒丸。基礎歩法は合格印。対練参加は二回。夜間交代は北門一回、医薬堂後送補助一回。
どの数字も、勤勉な弟子を示していた。
負傷報告の欄だけが、白かった。
俊瑞の頭の中で、項目が冷たく噛み合った。出席率、招式成功率、交代参加回数。すべて点数として残る。だが、痛むと申告したこと、回復を求めたこと、悪化を防ぐために引いたことは、どこにも功績として残らない。
むしろ、隠したほうが得になる。
その構造に気づいた瞬間、医薬堂の白い壁が前世の工場に変わった。不良資材が出ても停止時間の評価を恐れ、報告を翌朝へ送った班長。異音を聞いても「まだ動く」と言った作業者。止めれば怒られ、回せば点がつく。だから皆、ラインが煙を吐くまで手を挙げなかった。
誰も死にたいわけではなかった。ただ、止めた者が損をする仕組みの中で、少しずつ黙ることに慣れていた。
柳建の青白い顔に、何人もの顔が重なった。
「俊瑞」
韓白林の声が戸口から落ちた。捕虜の尋問を終えたばかりなのか、袖には夜露と泥が付いている。
「具合は」
「右脚の骨にひびが入っている可能性があります。三日前からです」
「報告がなかった」
「報告しないほうが、本人にとって得でした」
俊瑞は表を差し出した。韓白林は黒丸の並ぶ柳建の名を見た。表情は変わらない。だが、紙を持つ指の力だけが強くなった。
趙傑も戸口の外にいた。いつものように罵るかと思われたが、柳建の包帯を見て、舌打ちすらしなかった。自分もまた、出席と根性で弟子を測ってきた側だと分かっている顔だった。
医薬堂の卓には、商団や村から届いた礼状が積まれていた。東林の渡し場の隊主、清水村の村役、夜道を使う小商人たち。黑雲館の夜襲を潰した流河門へ、礼と次の依頼の確認が次々に届いている。
昨日なら、それは取り返した信頼の証だった。
今の俊瑞には、厚い紙束が冷たく見えた。外から感謝が積み上がる間、内側の少年は右脚を縛り、笑顔の輪の外で痛みを噛んでいた。
「小平、冷水布。郭進、三日分の対練表と夜間交代表を持ってこい。世琳、柳建と同じ組で足をかばっていた者がいないか確認する。都賢九、医薬堂の前に人を集めるな」
命令を出すと、全員が動いた。いつもなら動き出す音に、俊瑞は少しだけ安心できた。今は違った。人が動くほど、欠けた欄がはっきり見えた。
柳建は横になったまま、天井を見ていた。
「俺、交代を抜けたら、誰かに迷惑がかかると思いました」
「かかる」
俊瑞は否定しなかった。
「ですが、隠して立てばもっとかかる。お前が倒れれば、隣の者は敵を見る目を足元へ取られる。医薬堂は戦の最中に骨を診ることになる。防御組は一人分の穴を埋めるために、別の肩を壊す」
言いながら、俊瑞は自分の声が硬すぎることに気づいた。これは柳建を責める言葉ではない。だが、責めているように聞こえた。
「お前だけの過ちではない。そう動けば損をしない表を、俺たちが作った」
柳建はゆっくり顔を向けた。
「でも、表ができてから、俺たちにも順番が来るようになりました。俺は、それを逃したくなかったんです」
その言葉は、刃より深く入った。
俊瑞は処置表の余白を見た。負傷と書けば柳建の点は落ちる。回復と書けば練武場から離れる。何も書かなければ、今朝と同じことがまた起きる。
前世で彼は最後に「ラインを止めろ」と叫んだ。止めなかった構造が人を焼くと知っていたからだ。ならばこの世界で、表が人を立たせ続けるなら、それも同じ火だった。
「今日は休ませます。交代記録からは消しません。負傷報告として残します」
俊瑞が顔を上げて言うと、韓白林が静かに問い返した。
「それだけで足りるか」
俊瑞は答えられなかった。一人を救う処置と、次に隠させない構造は別だった。いま応急処置をしても、明日の練武場に同じ空気が残れば、別の柳建が包帯を巻く。
戸口の外で、礼状を運んできた弟子が立ち尽くしていた。紙束の一番上には商団の太い印が押されている。流河門は外から見れば勝っていた。だが俊瑞の目には、評価表の白い欄だけが黒い穴のように見えた。
「俺は、帳簿を直します」
そう言って医薬堂を出ようとした時、柳建が苦しげに目を開けた。
「俊瑞兄」
細い声だった。医薬堂にいる全員の動きが止まった。
「俺が……休みたいって言ったら」
柳建は唇を噛み、言葉を絞り出した。
「俺は、役に立たない弟子になりますか」
俊瑞は足を止めた。
その問いは、負傷した少年の弱音ではなかった。流河門の新しい帳簿が、まだ誰にも答えていない空欄そのものだった。答えを間違えれば、次に血を隠すのは柳建だけではない。
医薬堂の戸の外で、勝利を知らせる礼状の束が風にめくれた。黒丸の並ぶ評価表の余白が、俊瑞の手の中で白く光っていた。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
28話 血の朝に作り直す評価表
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