二回目の笛が岩壁に跳ね返った。
俊瑞は上げかけた右手を、その場で止めた。止まれの合図を出せば、隊列は峡谷の手前で乱れる。だが何もしなければ、敵が選んだ場所へそのまま入る。
「同じ合図だと?」
小平の声が裏返った。郭進は後方の人夫たちを見て、口を開きかけたまま固まっている。都賢九の太い手が馬車の側板をつかみ、木が軋んだ。
俊瑞は世琳へ目を向けた。
「足跡は峡谷の上だけですか」
「上。左右どちらにもある。先に進んでる。こっちを見ながら待ってる足跡じゃない。先回りしてる」
短く、必要なことだけが返ってきた。俊瑞の頭の中で、昨夜引いた線が重なった。入口。中ほどの狭窄。出口前の広がり。荷馬車が詰まる位置。疲れた馬が止まる角度。
「隊主に伝えます」
趙傑が鼻で笑った。
「山賊がいるなら斬ればいい。商団に臆病風を吹かせる気か」
俊瑞は答えず、前方へ歩いた。雲星商団の隊主、張文虎(チャン・ムノ)は先頭近くの馬車横で、護衛の少なさにまだ苛立ちを残していた。厚い顎ひげの下で口がへの字に曲がっている。
「隊主。隊列の速度を落としてください。荷馬車の間隔を詰めます」
張文虎は俊瑞を上から下まで見た。
「流河門の下級武人が、うちの馬車の動かし方まで決めるのか」
「決めるのではありません。詰まる前に、詰まる形を変えます」
「何を言っている。遅くすれば、それだけ峡谷にいる時間が長くなる」
「速く入れば、先頭だけが出口へ出ます」
俊瑞は道端の小石を拾い、地面に三つ置いた。先頭、中央、後方。さらに指で峡谷の線を引く。
「ここが入口です。中ほどは荷馬車一台でいっぱいになります。先頭が出口へ抜けた瞬間、後方を岩で塞がれたら、前の馬車は戻れません。後ろは助けに行けません。商団は二つに割れます」
張文虎の眉が動いた。
「山賊がそこまで考えると?」
「笛を真似ています。こちらの高所合図を聞いています。何も考えない相手ではありません」
俊瑞はさらに出口側を指した。
「最悪なのは、先頭が孤立して、荷と護衛が別々になることです。絹を守るなら、まず馬車同士を離さないでください。半車身まで詰めます。前後の声が届く距離にします」
張文虎は不快そうに舌打ちした。商団の人夫たちも顔を見合わせている。下級武人一人の言葉で、長い隊列を動かすのは面白くないのだろう。
だが隊主は商人だった。面子より荷を失う損のほうを、早く計算できる目をしていた。
「……半車身だな」
「はい。速度は落とす。止まりはしない。先頭と後方の声が切れないように」
張文虎は馬車の御者たちへ振り向いた。
「聞いたな! 急がせるな。前へ詰めろ。車輪をぶつけるなよ、絹箱を割ったら給金から引く!」
怒鳴り声が隊列を走った。人夫たちは不満げに綱を握り直し、荷馬車の距離が少しずつ縮まっていく。馬の鼻息が近くなり、車輪の音も重なった。
俊瑞は中央へ戻りながら、郭進を呼んだ。
「後方へ下がってください。三台目と四台目の間です」
郭進は吊った左腕を見下ろした。
「俺、本当に後ろでいいのか。何か起きても、剣は振れない」
「剣を振る位置ではありません」
「でも、後ろで声だけなら……」
「道を一番覚えているのはお前です」
郭進が顔を上げた。
俊瑞は峡谷の方を見ながら続けた。
「倉庫で地名に丸を付けたのも、昨日、石を置いた時に何度も後方を見たのもお前です。後ろが詰まった時、どの馬車を止めるか、どの人夫を内側へ入れるか、最初に言える位置です」
郭進の唇が少し震えた。
「腕じゃなくて、道か」
「そうです。今はそれが一番重要です。走れなくても、声は届きます」
郭進は一度だけ深く息を吸い、後方へ向かった。吊った腕は痛々しかったが、足取りは逃げるものではなかった。
小平が薬包の紐を締め直す。
「俺は中央の内側だよな」
「はい。負傷者が出たら、馬車の内側へ入れて処置。外へ出ないでください」
「外へ出たくもない」
「それでいいです」
都賢九には最後尾の馬車ではなく、中央寄りへ移るよう合図した。彼の巨体は、馬車と人の隙間を塞ぐ壁になる。世琳はすでに低い岩棚へ上り、左右の崖を交互に見ていた。
趙傑だけが、面白くなさそうに剣の柄を鳴らした。
「こそこそ馬車を寄せて何になる。山賊が降りてきたら、結局斬るしかない」
「斬る場所を決めます」
「俺に指図するな」
俊瑞はそこで初めて、趙傑を正面から見た。
「指図ではありません。商団護衛の条件です。隊列を離れる時は、張隊主か私に声を通してください」
趙傑の目が険しくなった。だが張文虎が横から怒鳴った。
「今は黙って進め! 門派の喧嘩なら荷を通してからやれ!」
趙傑は舌打ちし、剣から手を離さなかった。
隊列は峡谷へ入った。左右の岩壁が近づき、空が細く削られていく。風の音が変わった。広い丘陵では散っていた車輪の音が、ここでは岩にぶつかって戻ってくる。
俊瑞は歩幅を落とし、馬車の角、馬の耳、人夫の肩を順に見た。間隔は詰まっている。後方の郭進が二度、短く声を出し、人夫が綱を緩めすぎるのを止めた。小平は中央の馬車の荷台に薬包を置き、すぐ手が届く位置を確かめている。
『まだだ』
俊瑞は峡谷の中ほどを見た。ここが一番狭い。右の岩壁は垂直に近く、左には古い採石の段がある。上から何かを落とすなら、そこだ。
その瞬間、世琳が岩棚の上から鋭く叫んだ。
「左上、岩! 右も!」
言葉が終わる前に、轟音が落ちた。
頭上から黒い塊が転がり、岩壁を削りながら道へ跳ねた。先頭の馬が嘶き、御者が綱を引く。別の岩が後方で砕け、土煙が一気に上がった。悲鳴が峡谷を満たす。
「後ろ、塞がった!」
郭進の声が飛んだ。細いが、聞こえた。後方の人夫たちが反射的に逃げようとしたのを、彼が必死に止めている。
右の崖からも岩が落ちた。荷馬車のすぐ脇にぶつかり、車輪が浮いた。都賢九が唸りながら側板を押さえ、馬車の傾きを戻す。木箱の縄が軋み、絹箱の角がぶつかり合った。
張文虎の顔から血の気が引いた。
「出口へ走れ! 先頭、抜けろ!」
「駄目です!」
俊瑞の声に、隊主が振り返った。
「前だけ出れば割れます! 後方を捨てることになる!」
だが混乱は速かった。人夫は叫び、馬は暴れ、前の護衛は剣を抜いて山賊の姿を探している。崖上から男たちの笑い声が降ってきた。弓を構えた影が数え切れないほど見えた。
趙傑が待っていたように剣を抜いた。
「やっと出たな!」
彼の顔には恐怖よりも昂ぶりがあった。隊列の乱れも、後方の塞がりも見ていない。ただ崖の途中に見えた山賊の一人へ、一直線に踏み出そうとしている。
「趙傑、待て!」
俊瑞が呼んだが、趙傑は笑った。
「頭を斬れば終わる。そこをどけ!」
その瞬間、俊瑞の掌に、前世の感触が戻った。
赤い非常停止ボタン。熱に歪む工場の空気。誰も止めたがらないライン。押せば責任を問われると分かっていて、それでも押さなければ人が死ぬ、あの一瞬。
今も同じだった。峡谷は工場ではない。馬車はラインではない。だが流れが止まらず、誰も全体を見ないまま、最悪の形へ進んでいる。
俊瑞は腹の底から息を引き上げた。
「全員、止まれ!」
声が岩壁を打った。人夫の悲鳴も、馬の嘶きも、その一瞬だけ押し返された。
俊瑞は右手を高く上げ、昨日、石と桶で繰り返した合図を叩きつけるように振った。
「荷馬車を円形に並べろ! 前の二台は左へ切れ、後ろは内側へ押し込め! 人夫は円の中! 小平、処置位置を中央! 郭進、後方を入れろ! 都賢九、空いた隙間を塞げ!」
趙傑が目を剥いた。
「この状況で馬車を回すだと!」
「今しかありません!」
俊瑞は叫び返した。
「出口へ走れば半分が死にます。円を作れ。馬車を壁にする!」
崖上の笑いが止まった。山賊たちは、逃げ惑う商団を待っていたのだろう。だが峡谷の底で、荷馬車が逃げるのではなく向きを変え始めた。
次の岩が落ちる音がした。弓手たちが一斉に弦を引くのが見えた。
円が完成するまで、あと数呼吸しかなかった。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
8話 崩れぬ円と脇道の危機
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