円が完成するまで、あと数呼吸しかなかった。
俊瑞は落ちてくる岩の音を聞きながら、前の二台の車輪だけを見ていた。御者が迷えば終わる。左へ切れと言われても、馬は悲鳴と矢の気配に怯えて首を振る。そこへ小平が薬包を抱えたまま、荷台の陰から声を張った。
「左だって言ってるだろ! 右へ逃げたら俺の薬箱ごと潰れる!」
怯えた声だった。だが人夫には届いた。前の御者が歯を食いしばって綱を引き、馬の首が左へ折れる。車輪が岩屑を噛み、ぎしりと悲鳴を上げて回った。
「後ろ、こっちへ! 外へ出るな、内側へ入れ!」
郭進の声が土煙の向こうから続いた。吊った左腕を胸に押しつけ、右手だけで人夫の背を押す。山賊の矢が足元へ刺さっても、彼は後ろを向かなかった。三台目と四台目の間にいた人夫たちが外へ逃げようとするたび、郭進は名を呼んで押し戻した。
俊瑞はその声を聞き、次の指示へ移った。
「都賢九、二台目と三台目の間!」
「お、俺が?」
「そこが開きます。肩で塞いでください」
都賢九は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに走った。大柄な身体が馬車の角へぶつかるように入り、浮きかけた側板を両手で押さえる。矢が肩の横の木に突き立ち、木片が頬をかすめた。彼は首をすくめたが、退かなかった。
その隙に、趙傑が陣の外へ踏み出した。
「ちまちま壁を作って何になる! 頭を斬れば終わると言っただろう!」
崖の中腹、採石跡の段に、毛皮の肩掛けをまとった男がいた。山賊たちへ手を振り、次の岩を転がす場所を指している。趙傑の目には、その男しか映っていなかった。
「戻ってください!」
俊瑞の声は届いた。だが趙傑は聞かなかったふりをした。岩壁の突起を蹴り、身軽に上へ跳ぶ。剣が抜かれ、薄い光が走った。
小平が青ざめた。
「穴、開いたぞ!」
円の前側、趙傑が守るはずだった隙間が、馬一頭分ぽっかり空いた。そこへ山賊三人が歓声を上げて斜面から滑り降りてくる。
俊瑞は怒鳴らなかった。怒鳴る時間が惜しかった。
「都賢九、半歩前。側板から手を離さず、身体だけ出す」
「え、でも……」
「趙傑の穴です。あなたしか届きません」
都賢九の喉が鳴った。彼は片手で馬車を押さえ、もう片方の腕を横へ広げた。太い腕と肩が、隙間を埋める門扉になった。斜面から飛び込んだ山賊の短刀が、その腕を越えられず止まる。
「う、うわああ!」
都賢九は悲鳴に近い声を上げながら押し返した。山賊の一人が足を滑らせ、後ろの者を巻き込んで転がる。円は閉じた。
崖下の細い足場を、世琳が走っていた。岩壁から突き出た幅一尺ほどの縁を、彼女はリスのように軽く踏み、時に手をつき、時に身体を低くして矢を避ける。
「左上、弓五! 岩の後ろに二! 右の段、槍三、弓二!」
報告は短く、位置が明確だった。
「頭目は中腹! 趙傑が向かった先、その後ろに伏せてるのが四!」
「聞いたな!」
俊瑞は円の内側へ声を通した。雲星商団の護衛と人夫が、恐怖で矢筒を抱えている。
「矢を全部撃つな。三束に分けます。第一束、左上の弓。第二束、右の段。第三束は手元に残す。小平、使える矢だけ渡してください」
「矢まで俺かよ!」
「赤い糸の矢は捨てる。羽のそろったものだけです」
小平は文句を言いながらも、荷台の陰で矢を選び始めた。手は震えていたが、赤い糸を巻いた不良矢を混ぜなかった。彼は同時に、腿を切った人夫を中央へ引きずり込む。
「座れ! 立つな! 布を押さえろ、外を見るな!」
負傷者が泣き声を漏らす。小平は薬包を歯で裂き、血に触れないよう布を重ねた。以前の彼なら、誰の許可を待つかで固まっていたはずだった。今は違った。中央の内側という位置が、彼の迷いを減らしていた。
第一束の矢が放たれた。数は多くない。だが左上の弓手たちは、逃げる商団を狙って身を乗り出していた。矢が岩に当たり、ひとりの腕をかすめる。弓手たちが反射的に身を引いた。
「今、第二束!」
俊瑞の声で、右の段へ矢が飛ぶ。山賊の槍持ちが降りる足を止めた。華やかな剣気はない。山を裂く絶技もない。ただ、相手が突っ込む瞬間に矢を置き、空いた隙間を人と馬車で塞ぐだけだった。
それでも、突撃は鈍った。
円の内側で張文虎が息を荒げていた。さっきまで出口へ走れと叫んでいた男が、今は自分の人夫たちへ怒鳴る。
「車輪の外へ出るな! 荷箱を盾にしろ! 絹を破った奴は給金どころか命もないぞ!」
その商人らしい脅しが、かえって人夫を落ち着かせた。彼らは箱を押し、縄を引き、馬の首を内側へ向ける。荷馬車の円は完全ではないが、山賊が一息で入り込める穴は消えていった。
中腹では趙傑が頭目らしき男へ迫っていた。剣筋は確かに速い。斜面で足場が悪くとも、二人を続けて斬り伏せる腕はあった。山賊たちの視線が一瞬そちらへ吸われる。
小平が思わず声を上げた。
「本当に頭を斬れるんじゃないか?」
「斬れても、円は崩しません」
俊瑞は短く答えた。頭目が倒れれば終わる、という考えが一番危ない。倒れなかった時、全員が外を向き、内側が空になる。
「第三束はまだ撃つな。世琳の報告を待つ」
崖下から世琳の声が返った。
「左上、下がった! 右の弓、一人移動! 後ろへ回る!」
「後ろ?」
俊瑞は眉を寄せた。後方は岩で塞がれたはずだ。だが峡谷の記録には、古い採石水路が一本あった。狭く、馬車は通れない。人なら通れる。地図の端に薄く書かれていた脇道が、頭の中で赤く浮かんだ。
その時、趙傑の剣が中腹の毛皮男へ届いた。男の肩掛けが裂け、血が飛ぶ。商団の中から小さな歓声が上がりかけた。
だが世琳の叫びが、それを切り裂いた。
「違う! それは囮! 頭目は後ろの脇道へ抜けた!」
俊瑞の背筋が冷えた。
「数は」
「四、いや五! 馬の匂いがする方へ走ってる。後方の予備馬を狙ってる!」
円の内側で、疲れた二頭の馬が怯えて鼻を鳴らした。あれを奪われれば、塞がれた後方の岩を越えて敵が荷を引き出す足になる。商団は円の中に閉じ込められたまま、退路と馬を同時に失う。
張文虎の顔色が変わった。
「馬を取られたら終わりだぞ!」
俊瑞は崖上で囮を斬りつけている趙傑を見た。戻すには遅い。円を解けば本隊が崩れる。だが脇道を放置すれば、山賊の頭目は商団の足を奪ってしまう。
世琳が細い足場の先で振り返った。彼女の目は、次の命令を待っていた。
俊瑞は頭の中で地形表を一気にめくった。水路、岩棚、後方の予備馬、塞がった落石。その交差点は一つしかない。
「世琳」
彼が名を呼んだ瞬間、脇道の奥から馬の悲鳴が上がった。
まだ頭目の姿は見えない。だが予備馬の綱が、闇の中で激しく鳴っていた。俊瑞は第三束の矢を握る護衛たちへ振り返り、低く命じた。
「円は崩さない。だが脇道も塞ぐ。今から二つ同時に守ります」
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
9話 脇道の水路を塞ぐ一手
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