俊瑞が名を呼んだ瞬間、世琳はもう動いていた。
細い足場を蹴り、岩壁に手をつき、身体を低くして脇道の方へ滑るように走る。彼女が振り返ったのは一度だけだった。命令の続きを待つ目ではない。どこへ向かうべきか、すでに分かっている目だった。
「水路の先、予備馬の後ろへ回れ。頭目を引きつけるだけでいい。斬り合うな」
「了解」
短い返事が岩に吸われた。
俊瑞は円の内側へ目を戻した。残った第三束の矢は十二本。うち二本は羽が歪んでいる。使えるのは十本。左上の弓手はまだ三、右段に槍二、斜面から降りようとする者が六。円を崩さず耐えるには、矢を撃つ時機を間違えられない。
「小平、第三束から羽の歪んだ二本を外せ」
「もう外してる!」
小平は怒鳴り返しながら、血の付いた布を片手で押さえていた。負傷者は二人。太腿と肩。どちらも今すぐ死ぬ傷ではないが、立たせれば血が増える。
俊瑞は荷馬車の側面を見た。二台目の後ろ扉が半分外れかけている。先ほどの落石で蝶番が歪んでいた。
「郭進、後ろ扉を外せますか」
郭進が目をむいた。
「扉を?」
「盾にします。左腕は使わない。右手と肩で押して、都賢九に渡す」
「俺も行くのか」
「後を追ってください。走らなくていい。都賢九の後ろで、横から刺されるのを止める」
郭進は一瞬だけ吊った左腕を見た。痛みが顔に出たが、すぐに歯を食いしばる。
「分かった」
都賢九はまだ馬車の隙間に立ち、短刀を押し返していた。俊瑞が名を呼ぶと、彼は肩で山賊を押し戻したまま顔だけ向けた。
「賢九。脇道は狭い。あなたが立てば、二人は並べません。扉を持って、世琳の後ろへ」
「でも、ここは……」
「ここは交代します。前の防御は張隊主の人夫二人と、残った護衛で荷箱を押さえる。あなたが行かなければ馬が取られます」
都賢九の喉が鳴った。叱られるのを待つような癖が、まだ肩に残っている。それでも彼はうなずいた。
「お、俺が塞ぐ」
「そうです。塞ぐだけでいい」
郭進が歪んだ扉へ肩をぶつけた。木が割れる音がし、留め金が飛んだ。郭進は痛みに顔を歪めたが、右手で扉を引き剥がす。小平が思わず叫んだ。
「左腕使うなって言われただろ!」
「使ってない!」
「顔が使ってる顔だ!」
そんなやり取りの間にも、崖上から矢が落ちた。荷箱の縁に刺さり、人夫が悲鳴を上げる。俊瑞は十本の矢を持つ護衛へ手を上げた。
「三本だけ。左上の弓。身を出した瞬間に撃て」
「三本で足りるのか!」
「足らせます。残り七本は右段と正面用です」
護衛たちは震えながら弓を引いた。左上の弓手が、世琳を追うために身を乗り出した。その瞬間、三本の矢が岩肌をかすめて飛ぶ。一本は外れ、一本は弓手の手首を裂き、もう一本は横の岩に弾かれて顔面へ破片を散らした。崖上の動きが一拍鈍る。
「今です。賢九、行け」
都賢九は郭進から扉を受け取った。大きな身体に比べれば粗末な板切れだが、狭い水路では十分な壁になる。彼が円の外へ出ようとした瞬間、趙傑が中腹から怒声を落とした。
「俺を呼べ! 頭目なら俺が斬る!」
毛皮男はすでに膝をついていた。囮と知っても、趙傑はその場を離れようとしない。斬った相手が頭目でなかった苛立ちが、剣先にそのまま出ていた。
「趙傑、戻って前側を押さえてください」
俊瑞は短く命じた。
「誰に命じている!」
趙傑が斜面を蹴って降りようとした。脇道へ走る気だ。だがその前に、張文虎の怒鳴り声が峡谷を震わせた。
「馬を失えば商団依頼も終わりだ! だが前を空けても荷は終わりだぞ、流河門の兄弟子様よ! 絹箱を守る護衛が、空いた穴も見えんのか!」
趙傑の顔が赤くなった。
「商人風情が……」
「給金を払う商人風情だ! 前を塞げ! 後ろはあいつらが行った!」
張文虎は顎ひげを震わせて、荷箱を押す人夫たちを蹴るように動かしていた。趙傑は屈辱に唇を歪めたが、崖を降りる方向を変えた。俊瑞はそれを見届ける時間すら削り、次の石を頭の中の表へ置いた。
防御交代、一組目はあと三十呼吸。人夫の腕力は長く続かない。前側へ趙傑が戻れば、都賢九の穴は一応埋まる。右段の槍二は次に降りる。残り矢は七本。
「右段、二本。槍の足元」
矢が飛ぶ。槍持ちの足元に突き立ち、降下が止まった。
その間に世琳は脇道の入口へ達していた。古い採石水路は、人ひとりが肩をすぼめて通るほど狭い。湿った石の匂いと、馬の汗の匂いが混ざっている。奥で予備馬が暴れ、綱が岩角を叩いていた。
山賊頭目はそこにいた。毛皮ではなく、暗い布の上着をまとった痩せた男だった。手下四人が馬の綱を切ろうとしている。世琳は水路の上の岩縁へ飛び乗り、小石を蹴り落とした。
「そっちは行き止まり。馬も荷も渡さない」
頭目が振り返った。片目の下に古い傷があり、口元だけが笑っている。
「小娘一人か」
「一人に見えるなら、そのまま来ればいい」
世琳は挑発だけを置き、すぐに横へ跳んだ。斬り合うなという命令を守っている。頭目の視線が彼女へ吸われ、綱を切る手が止まった。
「追え!」
二人の山賊が世琳へ向かった。だが水路の入口に、都賢九が扉を構えて突っ込んできた。
「通さない!」
彼の声は震えていた。だが身体は震えていなかった。広い肩と剥がした扉が水路を塞ぎ、先頭の山賊がぶつかって跳ね返る。後ろの者は前へ出られない。狭さが、そのまま都賢九の武器になった。
郭進が少し遅れて到着し、扉の右端に短剣を突き込もうとした山賊の手首を、鞘ごと叩いた。左腕は胸に固定したまま、右手だけで動いている。
「こっちも、通すなって言われてる」
声はかすれていたが、足は下がらなかった。
本隊側では圧力が増していた。趙傑が前側に戻ったことで斬り込む力は増えたが、彼はまだ円の線を守る感覚が薄い。少しずつ外へ出ようとするたび、俊瑞は位置を戻させた。
「一歩内側。趙傑、追わない。そこが線です」
「うるさい!」
「そこを越えれば右が開きます」
「分かっている!」
分かっていない返事だった。だが張文虎が横から荷箱を押し込み、結果として穴は塞がった。俊瑞は残り矢を見た。五本。右段の槍は退いたが、左上の弓手が再び身を出している。
「二本、左上。残り三本は最後まで残す」
護衛の腕は疲れていた。弦を引く指が白い。俊瑞は内心で時間を数えた。防御組交代まで十五呼吸。都賢九が水路を塞いでから二十呼吸。世琳が頭目を引きつけられる限界は、もっと短い。
『まだ崩れていない』
前世の工場で、ライン停止後の数分が一番長かった。火を見ながら、人が全員出たかを数えた時間。今も同じだった。勝ったわけではない。ただ、最悪へ流れる速度を落としているだけだ。
脇道で、頭目の笑みが消えた。都賢九の扉は破れず、郭進が横の隙を潰し、世琳は岩縁を渡って視線を奪い続ける。手下たちは焦り、馬の綱はまだ切れていない。
「退け!」
頭目が自ら前へ出た。細身の刀が扉の上を滑り、都賢九の頬をかすめる。都賢九は歯を食いしばったが、足を引かなかった。郭進が扉の端を肩で支える。
世琳が岩縁から低く声を落とした。
「頭目、こっち」
彼女はわざと背を見せ、狭い水路の奥から外へ誘う位置へ降りた。俊瑞の指示通り、斬るのではなく目を引く動きだった。頭目の視線が鋭くなり、刀を持つ手が止まる。
その瞬間、俊瑞は本隊側の山賊が退き始めるのを見た。圧力が抜けていく。円はまだ立っている。馬も取られていない。勝ち筋が、初めてはっきり見えた。
「残り三本、構えたまま。降りてくる者だけ撃て」
彼が言い終えるより早く、脇道の奥で金属が擦れる冷たい音がした。
頭目の左袖が不自然に膨らんでいた。刀を囮に、肘の内側から小さな弩が滑り出す。狙いは扉を構える都賢九ではない。横へ降り、背を見せた世琳だった。
俊瑞の喉が凍った。
「世琳、伏せろ!」
叫びは届いた。だが弩の弦は、すでに弾かれていた。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
10話 外堂運営を任される日
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