開始時刻の「午前八時」を見た瞬間、ナギョンは椅子から立ち上がっていた。
窓の外はまだ朝と呼ぶには薄暗く、事務所の蛍光灯だけが机の上の死亡診断書と振込票を白く照らしていた。携帯の画面には、見覚えのない予定が消えずに残っている。『母の葬儀、ソンブク追悼館三号室』。作成者はイ・ナギョン。場所のリンクまで正確に登録されていた。
『私が、登録した』
十年前の自分が。母を喪ったばかりの二十三歳の自分が。
ナギョンは振込票と死亡診断書を封筒に戻し、鞄へ押し込んだ。旧郵便局へ走り、手紙を書きたい衝動がまだ胸を叩いていた。けれど今また感情だけで動けば、何を壊すかわからなかった。まず、この予定が何を意味するのか確かめなければならない。
タクシーの窓に映る自分の顔は、化粧も整えないまま青ざめていた。ソウルの早朝はまだ人が少なく、信号待ちのたび、携帯の通知画面だけが膝の上で冷たく光った。ソンブク追悼館へ近づくにつれ、ナギョンの頭の中には知らない道順が浮かんできた。左へ曲がれば駐車場、正面の自動ドアの奥に受付、三号室は右手の廊下の突き当たり。
来たことがないはずだった。
それなのに体が覚えていた。
追悼館の入口は、朝の清掃を終えたばかりの匂いがした。消毒液と花の水、線香の残り香が薄く混ざっている。受付にいた中年の職員が、早すぎる訪問者に少し驚いた顔をした。
「すみません。十年前の葬儀記録を確認したいんです」
ナギョンは弁護士証を出しながら言った。声は低く、硬かった。
「故人のお名前は」
「イ・スンヒ。二〇一四年二月十八日に亡くなっています。場所は……三号室だったはずです」
「ご遺族ですか」
「娘です。喪主は、イ・ナギョン」
自分で名乗った瞬間、喉の奥が細く締まった。喪主。母のそばで、誰かを迎える側に立った人間。二十三歳の自分には重すぎる言葉だった。
職員は端末に名前を打ち込み、しばらく画面を見ていた。古い記録なのだろう。別の画面を開き、紙の台帳番号らしきものを確認する。やがて表情が少し変わった。
「記録があります。二〇一四年二月十八日搬入、二十日出棺。三号室。喪主、イ・ナギョン様」
ナギョンの足元がかすかに揺れた。
画面の文字が現実になった。予定アプリの不気味な通知ではなく、追悼館の正式な記録として、母の葬儀がそこにあった。
「当時の……写真や名簿は残っていますか」
職員はためらった。
「十年経っていますので、電子化されたものは限られます。ただ、保管用の写真帳が倉庫に残っている場合があります。ご覧になりますか」
「お願いします」
即答したあとで、ナギョンは自分の指が震えていることに気づいた。
職員に案内され、受付裏の小さな相談室へ通された。壁には静かな風景画が掛けられ、丸いテーブルの上には造花の小さな籠が置かれている。数分後、職員は古びた灰色の箱を抱えて戻ってきた。
「こちらです。原本ですので、持ち出しはできません。ページをめくる時だけお気をつけください」
箱の中から出てきた写真帳は、角が擦り切れ、透明フィルムも少し黄ばんでいた。表紙のラベルには、細い字で『二〇一四年二月十八日 三号室 イ・スンヒ様』と書かれていた。
ナギョンは両手を膝の上で握り、一度だけ息を吸った。
それでも足りなかった。
表紙を開くと、最初のページに祭壇の写真があった。白い菊。黒いリボン。淡いブラウスを着た母の遺影。前々から知っていた母の顔が、知らない死の形式の中に収まっている。
次のページには、焼香台の前に立つ若いナギョンが写っていた。
二十三歳のイ・ナギョン。
黒い喪服は肩に合っておらず、袖が少し長かった。髪は低く結ばれていたが、後れ毛が頬に張りついている。顔は泣き腫らしたというより、泣き方を忘れた人間のように乾いていた。両手を体の前で固く重ね、誰かに支えられなければ倒れそうなほど危うい姿勢で立っていた。
背景は、空っぽだった。
受付台の後ろにも、廊下にも、人の影はほとんどなかった。祭壇の横に並ぶ椅子は整然と空席のまま、まるで誰も来なかった時間だけが写真に焼きついているようだった。
ナギョンは指先で透明フィルムの上を触れた。
『こんなところで、ひとりで立っていたの』
母を失って。ウジンを拒んで。最終合格の通知を喪服で見て。
誰にも寄りかからず、寄りかかる相手も残さず、意地だけで立っていた若い自分がそこにいた。弱く見えるのが怖くて、助けてと言えなかった。泣いている暇はないと自分を殴るように立ち上がり、勉強し、合格し、弁護士になった。
現在のナギョンが人の別れを冷静に整理できるようになったのは、強かったからではなかった。
失うことに慣れたふりをするしかなかったからだ。
「この時の弔問客名簿も、写真に残っています」
職員の声に、ナギョンは顔を上げた。
「名簿……」
「保存用に、最後のほうへ一緒に撮影しています」
ナギョンは急いでページをめくった。祭壇、受付台、香典封筒の整理箱、花輪の名札。花輪は少なかった。大学関係者の名前がいくつか、母の知人らしい女性の名前が一つ。親族の欄も寂しかった。
最後のページに、弔問客名簿の写真が挟まっていた。
古いノートを上から撮っただけの、少し斜めの写真だった。日付、故人名、弔問者氏名、関係、香典額。罫線の中に、細いペン字がぽつぽつと並んでいる。ナギョンは息を止めて、上から順に名前を追った。
大学の同期。病院の職員。母の遠い親戚。隣室の患者の家族。
チョン・ウジンの名前はなかった。
もう一度、最初から読んだ。写真を顔に近づけ、薄い文字をなぞるように確認する。チョンでも、ジョンでも、ウでも、似た音さえない。弔問客の欄は半分以上が空白だった。空欄が続くほど、若いナギョンの葬儀がどれほど静かで、どれほど孤独だったのかが突きつけられた。
「来てない……」
口にすると、痛みは予想と違う形で胸に刺さった。
裏切られた痛みではなかった。来られなかったのかもしれないという恐怖だった。彼は三日後にも金を払った。母を心配していた。病室へ上がらず、名前を残さず、それでも会計に立った。
それなのに、葬儀にはいない。
ナギョンは名簿の空欄に指を置いた。透明フィルム越しの罫線は、指先の下で冷たかった。そこに名前がないことが、誰かの不在を証明していた。彼が本当に知らなかったのか。来られないほど追い詰められていたのか。それとも自分が、最後の最後まで彼を遠ざけたのか。
頭の奥で記憶が開いた。
追悼館の控室。喪服の袖で合格通知の画面を隠す二十三歳の自分。誰にも見せられず、誰にも祝われず、母の遺影の前でロースクール合格を知る。『よくやった』と言ってくれる声はない。ウジンからの連絡もない。窓口でもらった振込票のコピーを何度も見つめ、それでも電話できない。もう来るなと言ったのは自分だから。
その夜から、ナギョンは泣く代わりに勝つことを選んだ。誰にも頼らず、誰にも期待せず、負けなければ失った意味があると信じた。母の死も、ウジンの不在も、全部踏み台にして上へ行けば、少しは報われると思い込んだ。
だが現在の自分の成功は、凛とした努力の結晶などではなかった。
母を失った空白の上に、恨みを固めて積み上げたものだった。
「……こんなの、成功じゃない」
声が落ちた。
職員が何か言いかけたが、ナギョンは聞こえなかった。胸の中心が空洞になり、息を吸っても入ってこない。写真帳の中の若い自分は、今にも倒れそうなのに倒れていない。その姿が、現在のナギョンを責めているようだった。
あなたは私を守ったつもりだったの。
それとも、私に全部背負わせただけなの。
ナギョンは写真帳を閉じようとした。これ以上見ていれば、相談室の椅子に座ったまま崩れてしまう。母の遺影も、喪服の自分も、空っぽの名簿も、もう十分だった。
その時、指先の下で、何かが滲んだ。
最初は、古い写真の汚れだと思った。けれど違った。弔問客名簿の空いた行に、黒い点が一つ生まれていた。インクが紙の繊維へ染み込むように、点はゆっくり横へ広がっていく。
ナギョンは息を止めた。
「これは……」
職員も目を見開いた。古い写真帳の中で、写っているだけのはずの名簿に、文字が増えていた。
黒い線が震えながらつながり、姓を作った。続いて名が刻まれる。遅れて来た誰かが、十年分の空白を押し広げるように、いちばん下の行へ名前を残していく。
チョン・ウジン。
その四文字が完全に現れた瞬間、写真帳のページの奥から、重い消印の音が一度だけ響いた。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
16話 遅れて届いた彼の弔意
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