「伏せろ」と言い終えるより早く、ウジンはナギョンの手首をつかんだ。
濡れた坂道を横へ滑るように引かれ、ナギョンの靴底が泥を踏んだ。橋の下へ下りる階段の脇、ソンブクチョンの散策路を支えるコンクリートの擁壁が、川沿いの暗がりに低く伸びている。ウジンはそこへ彼女を押し込むようにして身を伏せた。
「声、出すな」
耳元で落ちた声は、さっきまでの拒絶よりずっと切迫していた。
ナギョンは息を止めた。濡れたコンクリートの冷たさが背中へ伝わる。頭上ではワゴン車のエンジン音がゆっくり近づき、ヘッドライトの白い帯が橋脚の端をなめた。水たまりが光を受け、二人の隠れた足元まで薄く照らす。
ウジンはナギョンの前に半身を入れた。自分の背で光を遮るような姿勢だった。封筒を抱えた腕は硬く、もう片方の手は彼女の手首を離さない。痛いほどではない。ただ、少しでも動けば、そのまま引き戻すつもりの強さだった。
ワゴン車は橋の下の空き地まで降りてこなかった。道路の端で速度を落とし、しばらく止まったように感じられた。フロントガラスの奥に人影があるかどうか、ナギョンには見えない。見えないことがかえって怖かった。
携帯の向こうで、ソヒの声がかすかに漏れた。
「ナギョン? ナギョン、聞こえてる?」
ナギョンは反射的に携帯を胸へ押し当てた。音が外へ漏れないように。ウジンの視線が一瞬だけ携帯へ落ちる。誰かとつながっていると気づいたはずなのに、彼は何も言わなかった。責める余裕さえ、今はなかった。
ヘッドライトがまた動いた。
光は橋脚をかすめ、川面に細く割れ、やがて遠ざかっていった。タイヤが雨水を踏む音が坂の上へ戻っていく。けれどウジンはすぐには動かなかった。エンジン音が完全に消え、さらに数秒、濡れた夜の沈黙だけになってから、ようやく息を吐いた。
「……見られたかもな」
「今の、ファン・マンシクの車?」
「たぶん違う。あいつは自分で運転しない」
「じゃあ、誰」
「知らないほうがいい」
またそれだった。
ナギョンは濡れた袖を握りしめた。恐怖で指先は冷えていたが、胸の奥には別の熱があった。彼が何かを隠すたびに、その先に彼自身を切り捨てる結論が待っていると、もうわかってしまったからだ。
「知らないほうがいいって、誰にとって?」
ウジンは答えなかった。
擁壁の裏は狭かった。二人が並んでしゃがむだけで肩が触れる。川から上がる湿った匂いと、ウジンの服に染み込んだ雨の匂いが混じっている。彼の横顔は暗く、頬の線だけが街灯の反射で細く浮かんだ。
「ナギョン」
彼は低く言った。
「さっき話したこと、忘れろとは言わない。もう聞いたんだから。でも、ここから先は俺がやる」
「何を」
「印刷所へ行く。封筒を置く。そのあと、しばらくソウルを離れる」
ナギョンは目を細めた。
「地方へ行くってこと?」
「ああ。釜山でも、大邱でも、どこでもいい。日雇いならある。携帯も捨てる。あいつらが俺を追うなら、それでいい」
「それで私たちは安全になるって?」
「お前とお母さんの周りから、俺が消えればな」
言葉は静かだった。あまりにも慣れた言い方だった。まるで何度も頭の中で練習し、泣きも怒りもしない声だけを残したように。
ナギョンはその瞬間、十年後の自分を思い出した。旧郵便局で夜明けまで待ち、連絡の途絶えた携帯を握り、捨てられたという言葉だけで自分を支えてきた三十三歳の自分。あの長い空白が、今この狭い擁壁の裏で、また始まろうとしていた。
「嘘ね」
ウジンが眉を動かした。
「何が」
「地方へ行くっていうのは、逃げる場所の話じゃない。私を遠ざけるための言い訳」
「違う」
「違わない。あなたは今も、私に選ばせないで終わらせようとしてる」
「選ばせたら、お前は危ないほうを選ぶだろ」
「それをあなたが決めるの?」
ウジンの喉が小さく動いた。
「俺が巻き込んだ」
「私はもう巻き込まれてる。お母さんの病室番号まで知られてる。あなたが話さなかったせいで、私は何が危ないのかも知らなかった」
「だから今、離れろって言ってる」
「ひとりで消えるやり方で、私を守ろうとしないで」
声は大きくなかった。
けれど、その一文を口にした瞬間、ナギョンの体の奥で、知らない時間がきしんだ。十年後、旧郵便局の前で夜明けを迎える冷たさ。弁護士になってからも、誰かに理由を求める依頼人を切り捨てるように諭してきた声。捨てられたと決めつけることでしか保てなかった自分の顔。
全部が、その短い言葉の中に沈んでいた。
ウジンは動けなくなったように、ナギョンを見た。
雨粒が彼の前髪から落ち、顎の線を伝った。彼は何かを言い返そうとして、口を開いた。だが声は出なかった。怒ることも、突き放すことも、さっきまでのように「帰れ」と言うこともできない顔だった。
「……お前は」
ようやく出た声は、かすれていた。
「どうしてそんなふうに言えるんだ」
「わからない」
正直な答えだった。未来の手紙の秘密を、今ここで話すことはできない。けれど、言葉だけは十年後から来たように重かった。
「でも、あなたが消えたら、私はたぶんずっと理由を間違える。あなたが怖がってたことも、守ろうとしたものも知らないまま、あなたを恨む」
ウジンの目が揺れた。
「恨めばいい」
「嫌よ」
「そのほうが楽だ」
「楽じゃなかったら?」
ウジンは息を止めた。
ナギョンはさらに言った。
「あなたがいなくなって、私が楽になるって、どうしてあなたが決めるの」
川沿いの暗がりに、遠い車の音だけが流れていた。さっきのワゴン車が戻ってくる気配はない。だが安全になったわけではなかった。ただ、二人がようやく同じ危険の名前を見始めたにすぎない。
ウジンは封筒を見下ろした。
「帳簿の原本がある」
「印刷所に?」
「たぶん。俺が運ばされてるのは写しや差し替え用の紙ばかりだ。でもファン・マンシクが一度、酔って言った。原本を持ってるやつは上にいる、下っ端は複写だけ触れって」
「上って、テフンの上?」
「テフンだけじゃない。金がどこへ流れてるか、誰の借金を誰の名前に変えたか、誰を保証人に仕立てたか。全部の帳簿があるはずだ。父さんの名前が出るたびに、あいつらは俺を黙らせた。なら、父さんの件もそこにある」
ナギョンは息をのんだ。
彼が初めて、自分だけの罰ではなく、証拠という言葉に近いものを見ていた。
「原本を見つければ、あなたのお父さんのこともわかるかもしれない」
「でも、見つけたやつから消される」
「だから一人で行くのはだめ」
「一緒に来ても、危険は増えるだけだ」
「一人で行けば、証言する人も、見ている人もいない」
ウジンは黙った。
ナギョンは携帯を握り直した。ソヒとの通話はまだ切れていない。向こうでかすかな息遣いが聞こえる。たった一人の友人がつながっている。それだけでも、さっきよりは違う。
「ソヒに病院を見てもらう。お母さんの病室の前から離れないように頼む。私たちは印刷所へ行く。でも封筒を置くだけじゃない。何があるか見る。記録する。誰かに渡す前に、証拠を残す」
「そんな簡単な話じゃない」
「簡単じゃないから、一人で決めないでって言ってるの」
ウジンの手が、ナギョンの手首から少しだけ緩んだ。
その緩みは、諦めではなかった。初めて、握り潰すように守るのではなく、相手の手がそこにあることを確かめるだけの力になった。
「……もし、俺が怖くなったら」
「怖いって言って」
「言えなかったら」
「私が聞く」
「お前が怖くなったら」
「私も言う」
ウジンは小さく目を伏せた。濡れた睫毛の影が落ちる。笑ったわけではない。けれど、ずっと閉じていた何かに、ほんの細い隙間が開いたように見えた。
現在のナギョンの胸にも、その瞬間が流れ込んできた。
十年前の夜が、またわずかに形を変える。旧郵便局で待ち続けた女と、来なかった男の記憶だけではない。擁壁の裏で息を潜め、脅しの車が通り過ぎるのを待ったあと、二人が初めて同じ方向を向いた記憶が、現在の彼女の中に生まれていた。
ウジンが低く言った。
「明け方まで、あと少ししかない」
「わかってる」
「一度でも失敗したら、病院に行かれる」
「だから先にソヒへ言う。病室の前にいてって」
ナギョンは携帯を耳に当てようとした。
その時、ウジンのポケットの中で、古い携帯電話が震えた。
短い振動だった。けれど二人の間の空気を、一瞬で凍らせるには十分だった。ウジンの顔から血の気が引く。彼はすぐに取り出そうとせず、ポケットの上から握りしめた。
「誰」
ナギョンが尋ねると、ウジンは答えず、携帯を開いた。
液晶の小さな画面に、差出人の名が表示されていた。
ファン・マンシク。
続いて、本文がゆっくり現れた。
『女の子も一緒にいるな。ハンビッ医院から寄ろうか?』
ナギョンの喉が、音もなく閉じた。
見られていた。さっきのワゴン車か、それとも別の誰かか。どちらでも同じだった。ファン・マンシクは、彼女がウジンと一緒にいることを知り、母の病院を今この瞬間の刃に変えてきた。
ウジンの手が、再びナギョンの手首を強く握った。
さっきまでとは違う。守るための力ではなく、今にも飛び出しそうな自分を押しとどめるための力だった。彼の目は携帯の画面に釘づけになったまま、低く、ほとんど声にならない息で言った。
「……病院へ行く」
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
25話 試し刷りと三番ロッカー
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