シャッターを半分下ろした店内で、カン・ヘジュンは携帯電話を耳から離し、通話終了の赤い表示を見つめていた。
取引先の男は、もう怒鳴りもしなかった。未払いの部品代、延期した支払日、次に遅れた場合の取引停止。それらを淡々と読み上げる声のほうが、怒声よりもずっと重く胸に刺さった。
「……はい。今週中には、必ず」
そう答えた自分の声だけが、薄暗い天井にまだ残っている気がした。電話は切れている。けれど約束だけが、店の空気にぶら下がっていた。
キャンプ用品修理店「ヘジュンアウトドア」は、駅裏の古い商店街の端にあった。入口脇には折りたたみチェアの修理品が三つ、カウンターの上には分解途中のガスランタン、奥の棚には客から預かったテントポールが番号札つきで並んでいる。どれも直せば金になる。だが、部品を仕入れる金がなければ修理は止まる。修理が止まれば、家賃も部品代もさらに積み上がる。
ヘジュンは机の引き出しから家主の督促状を取り出した。赤い文字で印刷された滞納額を見た瞬間、指先が少し冷えた。
『あと一か月、いや二週間でもいい。客を呼べる材料があれば』
古いノートパソコンを開き、検索窓に「閉鎖 キャンプ場 予約 格安」と打ち込んだ。きれいな人気キャンプ場では意味がない。小さな店が貸し出す古い道具でも、きちんと使えると見せたい。安く泊まれて、背景に少し話題性があればいい。
数ページ目で、ヘジュンの指が止まった。
静寂稜線キャンプ場、閉鎖前最後の予約受付。
小さな告知ページだった。写真は霧の濃い山道と、木製の入口案内板。施設紹介の文章は素っ気なく、電源サイト、炊事場、管理棟あり、と古いテンプレートのように並んでいる。画面の下には、今月末をもって営業終了、最終週の予約のみ受付、と書かれていた。
宿泊料は信じられないほど安かった。レンタル品持ち込み可、撮影可、商用利用は事前申請。ヘジュンは思わず身を乗り出した。
「ここなら……」
修理したバーナー、縫い直したタープ、補強した大型テント。閉鎖前の山奥キャンプ場でそれらを実際に使って見せる。動画を店のページに上げ、短い広告も回す。うまくいけば、レンタル予約が少しは入るかもしれない。部品代を全額払うには足りなくても、取引停止だけは避けられる。
彼はメモ帳に数字を書いた。予約金、ガソリン代、食材、広告費。どれも最低限に削った。最後に、同行者、と書いてペンが止まる。
一人で撮影するには限界があった。テントを張る手元、道具を使う人、話し相手。何より、店の広告に一人で必死な顔を映すのは、見る側にも痛々しい。
ヘジュンは携帯の連絡先から妹の名前を探した。カン・ソユン。最後にまともに話したのは三か月前だった。母の命日に短いメッセージを交わしただけ。それも、互いに必要な言葉を避けたまま終わった。
通話ボタンに指を置いたまま、彼は一度だけ深く息を吐いた。それから押した。
呼び出し音は長かった。切ろうとした瞬間、向こうが出た。
「何」
挨拶より先に、乾いた声が届いた。
「ソユン、今少し話せるか」
「話せないって言ったら、切ってくれるの?」
「急ぎなんだ。今度、山のキャンプ場に行く。店の宣伝動画を撮りたい。手伝ってくれないか。週末だけでいい」
短い沈黙があった。交通費は出す。無理はさせない。久しぶりに一緒に。どの言葉も、口に出す前から薄っぺらかった。
「お兄ちゃん」
ソユンの声は低くなった。
「また、お金のことで困ってるの?」
ヘジュンは答えられなかった。
「違う。宣伝のためだ。店を立て直すには、ちゃんと見せるものが必要で」
「そういう時だけ私に連絡してくるよね」
胸の奥を、細い針で刺されたようだった。
「ソユン」
「家賃? 部品代? それともまた誰かに頭下げる前に、私を使えそうだと思った?」
「使うなんて言い方はやめろ」
「じゃあ何? 家族だから助けてほしいって言うの? 家族って言葉、都合がいい時だけ出てくるんだね」
ヘジュンはカウンターの端を強く握った。言い返せることはいくつも浮かんだ。自分も必死だった。店を潰したくなかった。母が残したものを守りたかった。けれど、そのどれもソユンの声をやわらげる理由にはならない。
「今回は、本当に必要なんだ」
「私には必要じゃない」
通話はそこで切れた。
画面に表示された通話時間は二分に満たなかった。ヘジュンは携帯を置き、しばらく動かなかった。店の冷蔵庫が奥で低く唸っている。外を通るバイクの音が遠ざかり、また静かになった。
『当然だ』
心の中でそうつぶやいた。頼られるだけの兄でいられなかった。母が死んでから、ソユンに説明すべきことを何度も後回しにした。金の話になると、彼女の顔を見ることすら避けた。その結果が今の声だった。
それでも、予約ページの残り枠は一つだけだった。
ヘジュンは椅子に座り直し、申込フォームを開いた。氏名、連絡先、宿泊人数。人数の欄で手が止まったが、彼は二、と入力した。あとでソユンをもう一度説得する。だめなら、誰か知り合いに頼む。画面の下には、キャンセル不可、予約金返金不可、という小さな注意書きがあった。
「返金不可か……こっちも似たようなもんだ」
乾いた笑いは、すぐ消えた。
振込画面に進む。残高の数字は目をそらしたくなるほど心細かった。予約金を送れば、今週の部品代はさらに足りなくなる。だが、何もしなければ終わるだけだった。
ヘジュンは確認ボタンを押した。
処理中の円が回り、やがて振込完了の文字が表示された。画面の白い光が、店内の暗さの中で妙に冷たく見えた。予約ページに戻ると、最後の空き枠は消えていた。受付終了。たった四文字が、彼の逃げ道を閉じたように見えた。
ノートパソコンは閉じなかった。マウスに手を置いたまま、予約番号が表示された画面を見つめ続けた。胸の奥では、少しだけ安堵があった。少なくとも動いた。何かを変えようとした。けれど、その安堵の下には、もっと大きな不安が沈んでいた。
そのとき、携帯電話が震えた。
ソユンかと思い、ヘジュンは反射的に手を伸ばした。だが画面に出ていたのは、名前のない番号だった。市外局番も見覚えがない。先ほど見たキャンプ場の管理番号に似ている気がしたが、保存した覚えはなかった。
彼は迷った末に通話を受けた。
「はい、ヘジュンアウトドアです」
返事はなかった。
「もしもし?」
沈黙。いや、完全な無音ではなかった。受話器の奥で、低く規則的な音が回っていた。ぐうん、ぐうん、と古い発電機が山小屋の裏で息をするような音。電話回線のノイズにしては太く、近すぎた。
「静寂稜線キャンプ場の方ですか。予約の件で……」
ぐうん、ぐうん。
音は少しだけ大きくなった。店内の冷蔵庫の唸りが消えたように感じるほど、その機械音だけが耳の中へ入り込んできた。誰かが向こうで受話器を握り、発電機のすぐそばに立っている。そんな光景が頭に浮かんだ。
「聞こえていますか」
答えはなかった。
次の瞬間、音がぷつりと切れた。通話も同時に終了していた。
ヘジュンは携帯を耳から離した。画面には通話時間、二十七秒。相手の番号をもう一度見たが、やはり登録はない。キャンプ場のページへ戻って管理棟の連絡先を確認する。下四桁が一致していた。
「自動確認か?」
自分でそう言いながら、声に納得はなかった。自動確認なら、無音で発電機の音だけを聞かせる理由がない。
携帯が再び震えた。今度はメッセージだった。
送信者は、静寂稜線キャンプ場管理事務所。
ヘジュンは親指で画面を開いた。
ご予約を確認しました。
宿泊日、人数、代表者名。さきほど入力した内容が整然と並んでいる。予約番号も一致していた。そこまでは問題なかった。
だが、最後の一行を読んだ瞬間、ヘジュンの喉が音もなく詰まった。
備考欄。
そこには、彼が入力した覚えのない文章が追加されていた。
「最後のお客様です」
外から自分の声が聞こえても答えるな
2話 それぞれの思惑と謎の屋根
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