スピーカーの奥で吸い込まれた息は、すぐに途切れなかった。
ひゅ、と錆びた筒の中をこすり、入口のほうから森の湿気を押し込んでくる。ヘジュンは振り返りかけたが、ミンソの手が横から上がり、全員を制した。
「見ないで。進むか戻るか、ここで決めます」
「戻るんじゃないの」
ソユンの声は小さかった。
ドユンは胸に固定したカメラを叩き、赤い録画ランプを確かめた。
「今の撮れてます。電源落ちたスピーカーが鳴るとか、普通じゃないでしょ。ここで戻ったら本当に何も残らない」
「普通じゃないから戻るんです」
ミンソは短く言い、コンパスを開いた。針は一度北を指し、それから何かに迷うように震えた。彼女は唇を結び、最初の蛍光テープを巻いた木を見た。
そこには黄緑の帯がある。だが霧は、入口の三歩先まで白く厚くなっていた。
ヘジュンは喉を鳴らした。
「短時間だけだ。ドローンの座標まで行って、なければ戻る」
「また短時間」
ソユンの返事は乾いていた。
ミンソは責めず、木の幹にナイフで浅い横傷をつけた。テープだけでなく、木肌にも目印を残すためだった。
「私の足跡を踏んで。枝を折らない。声を上げない。誰かが離れたら、全員止まる」
五人は森へ入った。先頭のミンソは十歩ごとにコンパスを見て、太い木を選んでテープを結んだ。二本目、三本目。黄緑の帯は暗い幹に浮かび、まだ人間の手で戻れる道を作っているように見えた。
だが、四本目を結び終えた時、ドユンが後ろを振り返った。
「……三本目、見えます?」
全員が止まった。
来た方向には、白い壁しかなかった。さっき結んだばかりのテープの色はどこにもない。枝の形も足跡も、霧の中でほどけて消えていた。
「光の角度で見えないだけです」
ジェヒが言ったが、自分でも信じていない声だった。
ミンソは戻る方向へ二歩進み、ヘッドランプを左右へ振った。光は霧の粒を白く照らすだけで、三本目の木にも二本目の木にも届かない。
「全員、ここから動かないで」
彼女は四本目のテープの端を握り、幹の傷を確かめた。木は濡れていた。まだ切ったばかりのはずの傷口に、古い樹液のような黒ずんだ水がにじんでいる。
ヘジュンはスマートフォンを出した。圏外の表示は変わらない。それでも地図アプリだけは開いた。青い点はキャンプ場入口にあった。次の瞬間、稜線の空白へ跳び、また入口へ戻る。管理棟の屋根の上を指したかと思うと、ドローンが落ちたはずの方角へ吸い寄せられた。
「どうなってる……」
「見せてください」
ジェヒが画面をのぞいた。青い点は、入口と稜線のあいだを不自然な速さで往復していた。以前見た「最後の目的地」という灰色の表示を、ヘジュンは今さら思い出した。あの時から、この地図はここへ向かっていたのかもしれない。
ソユンが急に足を止め、口元を押さえた。
「何か、匂う」
「薬品ですか」
ジェヒが問うと、ソユンは首を横に振った。顔色が白くなっている。
「線香。濡れた線香みたいな匂い。母さんの葬式の日、雨が降ってて……土と煙が混ざった匂いがした」
ヘジュンは妹の肩に手を伸ばしかけ、止めた。触れれば、また守るふりになる気がした。
「ソユン、無理なら戻る」
「戻る道、見えてないでしょ」
刺すような返事だったが、声は震えていた。
その時、ジェヒが足元にしゃがんだ。濡れた土の道に、小さな水たまりがいくつもできていた。その一つの底で、墨を溶かしたような黒いものが広がっている。泥ではない。水面に油膜のような虹色が浮き、周囲の草の先が白く縮れていた。
「触らないでください」
ジェヒは手袋をはめ、サンプル容器を取り出した。折り畳みスコップの先で水と沈殿物を少しだけすくう。容器の中の黒い粒は、ライトを当てると金属の粉のように鈍く光った。
「ただの山土じゃありません。重金属か、処理剤の残りかもしれない」
「そんなの、あとで調べればいいでしょ」
ドユンはそう言いながらも、カメラを下へ向けた。録画ランプは点いている。だが表示を見た瞬間、表情が固まった。
「ちょっと待って」
「今度は何ですか」
ミンソが低く聞く。
ドユンは胸のカメラを外し、画面を見せた。録画時間の表示が、十四分三十二秒から三十一秒、三十秒へ減っていく。
「残り時間じゃないです。録画済みの長さです。さっきまで十五分近く回してたのに」
数字はさらに減った。十四分二十七秒。二十六秒。誰も触れていないのに、映像そのものが巻き戻されるように短くなっていく。
ヘジュンの胸に冷たいものが落ちた。記録が消える。道が消える。目印が消える。ここに入った事実だけが、少しずつ削られている。
ミンソがカメラを伏せさせた。
「撮影は続けて。でも画面を見すぎないでください。足元と周囲を優先します」
「そんな落ち着いて言う場面ですか」
「落ち着かないと死にます」
その一言で、ドユンは黙った。
霧の奥で、低い音が鳴った。
ぐうん、ぐうん。
全員が同時に顔を上げた。ヘジュンはそれを知っていた。保存していない管理番号からの電話で聞いた、二十七秒だけ続いた音。ドローンが小屋の軒下で拾った音。古い発電機のようで、実際にはもっと近く、人の胸の奥で回るような音だった。
「昨日の電話……」
思わず漏れた言葉に、ソユンが振り向いた。
「電話?」
ヘジュンはしまったと思った。だがもう遅い。彼女の目に、怒りより先に、傷ついた色が浮かんだ。
「戻ったらじゃなくて、今言うことだったんじゃないの」
「悪い。あとで必ず」
「また?」
ミンソが二人の間に割り込んだ。
「今は音の方向を確認します」
発電機音は規則的に続いていた。ぐうん、ぐうん。そのたびに霧がわずかに震え、木の間の奥で黄色い灯りが一つ浮かんだ。ぼんやりと滲み、消える。三拍置いて、また灯る。
ドユンの喉が鳴った。
「小屋の灯りだ。ドローンが落ちた方向です」
ジェヒは地図を開き直し、ドローン最後の座標と現在地を重ねようとした。青い点はまた跳ねた。入口、稜線、入口、稜線。まるで進んでいるのではなく、同じ二点のあいだに縫い止められている。
ミンソは紙の地形図を取り出した。湿気で端が反っている。彼女はコンパスを置き、灯りの見えた方角へ線を引いた。ドローン映像で推定した小屋の位置、キャンプ場の案内板、今いるはずの斜面。三つを合わせるほど、彼女の顔から血の気が引いていった。
「ミンソさん?」
ヘジュンが聞くと、彼女は答えず、もう一度コンパスを見た。針は震えながらも、黄色い灯りの方角を指しているように見えた。
発電機音が、少し近づいた。
ぐうん、ぐうん。
霧の向こうで灯りがまた明滅した。今度は目の高さではなく、足元より低い場所に見えた。まるで崖下から、誰かがランタンを持ち上げているようだった。
ミンソは地形図の一点を指で押さえた。そこには登山道も、作業道も、建物の記号もない。等高線だけが急に詰まり、黒い線で断ち切られている。
「進まないで」
その声は、今までで一番低かった。
ドユンが笑おうとして失敗した。
「でも音はあっちから——」
「だからです」
ミンソは顔を上げた。ヘッドランプの光の中で、彼女の目だけが硬く光っていた。
「その方角は道じゃありません。崖です」
言い終えた瞬間、四本目の蛍光テープが、目の前の木から音もなくほどけた。黄緑の帯は地面へ落ちず、霧の奥へまっすぐ引かれていく。誰かが見えない手でつかみ、崖のほうへ持っていくように。
そして発電機音の隙間から、ヘジュンの携帯に保存していない番号の着信表示が浮かんだ。画面には、たった一行だけが出ていた。
「最後の目印まで、あと二十七秒」
外から自分の声が聞こえても答えるな
8話 地図にない温かな小屋
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