歓声の残り火は、ケララへ向かう機内でも道潤の耳にこびりついていた。
メキシコの廃闘牛場で見た最後の文字列が、まぶたの裏に残る。観客非依存環境へ移行。呼吸・爪先軌道、照合準備完了。ラファエルに勝った時の短い歩幅も、右膝を沈ませた誘導も、すでに次の罠の材料になっている。
恩彩は隣の席で、タブレットに保存した数秒分の画面を何度も拡大していた。接続ログはほとんど切られている。残っているのは、ケララの内陸へ伸びる座標と、アーラヴという名だけだった。
「観客を消したのは、あなたの勝ち筋を消すためね」
彼女は画面から目を離さず言った。
道潤は左手首の革環へ視線を落とした。硬い内側は沈黙している。メキシコでは、歓声の始まりを借りた。今度は借りる声がない。
「なら、別の始まりがある」
「ある。けれど、向こうはそれを先に教えない」
飛行機の窓の外で雲が切れた。湿った緑の土地と、赤く乾いた道が細い血管のように走っていた。
空港から車で二時間、道潤たちはヤシの影が濃い村の外れに着いた。黒手袋の迎えは一人だけだった。案内の男は英語で必要なことだけを告げ、門の前で立ち止まる。門といっても高い鉄柵ではない。低い土壁と古い木の柱、その奥に、地面を掘り下げた長方形の道場があった。
カラリ道場。
赤土の床は周囲より一段低く、四隅に小さな灯が置かれていた。天井は低く、外の湿気を含んだ空気がゆっくり降りてくる。観客席はない。賭け客のざわめきも、集音マイクの列も、派手な照明もなかった。
その静けさの中央に、アーラヴがいた。
ラファエルとは違った。ラファエルは視線を集めるためにそこに立っていた。身体の周囲に観客の期待を巻きつけ、声を床にして跳んだ。だがアーラヴは、誰にも見せようとしていなかった。細いわけではない。大きいわけでもない。裸足の足首は土の色に近く、膝を深く緩め、両腕を低く開いている。
彼は道潤が入ってきても、顔を上げなかった。
低い姿勢のまま、道場の内側を円く歩いていた。右足の爪先が土を撫で、続いて左足の爪先が同じ軌道の少し外を通る。踏みしめる音はほとんどない。だが赤土の表面には、爪先が通った細い線が残っていった。
一周。
二周。
軌跡の幅は変わらなかった。息の長さも変わらない。吸う音は聞こえず、吐く音だけが、低い笛のように床を這った。その呼吸に合わせて、道場の灯が揺れた気がした。
道潤は無意識に、観客席を探した。
誰もいない。壁の上には古い木棚と、油の染みた棍や曲刀が並ぶだけだった。外の土壁の向こうに黒手袋のスタッフが数人、記録端末を持って立っている。だが彼らは客ではない。歓声を作らない。期待を叫ばない。ただ、静けさごと測っている。
噛み合わない。
その感覚が、右膝の痛みより先に来た。ラファエル戦で掴んだものは、相手の身体ではなく、周囲の視線がどこへ集まるかだった。集まる場所があれば、そこを餌にできる。だがこの道場には、集める目そのものがなかった。
アーラヴの爪先がまた土を切った。
円はゆっくり道潤へ近づいているようにも、離れているようにも見えた。距離は変わらない。なのに、胸の内側だけが圧迫される。道潤は息を短く整えようとしたが、相手の吐息が長すぎて、自分の呼吸が途中で切られているように感じた。
「韓道潤」
進行係の声が土壁の上から落ちた。
「第五路。試合前確認。接触制限なし。武器使用なし。降参、失神、制圧判定、または継続不能で終了」
道潤は聞き流さなかった。武器使用なし、と言いながら、壁の武具は見せるように置かれている。手に取らなくても、この場所では武器の記憶が床に染みているのだろう。アーラヴの手は空だった。だが空の手ほど、どこから来るか分からない。
恩彩は道場の外、低い土壁の向こうで立ち止まっていた。入ることは許されていない。彼女の目はアーラヴの腕ではなく、足元の赤い線を追っていた。
「膝は?」
道潤が短く訊くと、恩彩は首を横に振った。
「今は膝じゃない」
その返事で、道潤の背中が冷えた。
アーラヴが円を閉じた。最後の一歩だけ、爪先が土に深く入った。線の終わりが濃くなる。彼はそこで初めて顔を上げた。黒い瞳は道潤を睨んでいない。測ってもいない。ただ、道潤がもうそこにいるものとして、呼吸の中へ入れていた。
鐘は鳴らなかった。
代わりに、進行係が片手を下げた。
アーラヴは礼のようにさらに低く沈み、左手を床すれすれに置いた。道潤は距離を測る。左足の親指、右膝を主役にしない骨盤、短い歩幅。メキシコで作った死角への入りは、観客がいなくても使えるはずだった。
相手の視線をこちらの膝へ集める。たとえ観客がいなくても、アーラヴ自身の目が動けば十分だ。
道潤は右膝をわずかに沈ませた。
アーラヴの瞳は動かなかった。
だが右足の爪先が、赤土の中で半寸だけ角度を変えた。道潤の目はそれを見た。見たのに、意味が遅れて届く。膝を餌にするつもりだった。相手の視線を縫い止めるつもりだった。けれど、アーラヴは目ではなく足で答えていた。
道潤は一拍早く踏み込んだ。
ラファエルの時と同じ、短い歩幅。左踵を沈め、骨盤を反対側へ滑らせる。視線のない場所へ入るための一歩だった。
その瞬間、外から恩彩の声が低く飛んだ。
「手じゃない。爪先から始まる!」
言葉を飲み込むより先に、赤土の線が閉じていた。
アーラヴの右足の爪先は、道潤が逃げるはずだった外側にすでに置かれていた。踏み込んだ道潤の左足は、その線を越えられない。戻ろうとすれば右膝が遅れる。前へ押せば、アーラヴの低い肩が喉元へ上がる。
道潤は手首を取りに行った。合気道の中心移動で肘の逃げ口をふさぐ。だが、そこに手首はなかった。アーラヴの腕は、爪先の線より後から来た。遅れているのではない。先に置かれた足の軌道が、腕の通る道をもう決めていた。
空気が喉の前で切れた。
手刀が止まっていた。
刃ではない。指をそろえただけの手だ。それでも道潤の喉元から数センチ手前で、皮膚が冷えた。アーラヴの息は乱れていない。低い姿勢のまま、爪先で赤土を押さえ、道潤の退路と前進を同時に消している。
道潤の左手は宙に残った。取るべき手首が、まだ届かない場所にある。なのに攻撃はもう終わっていた。
土壁の向こうで、黒手袋の端末が小さく光った。
アーラヴは手刀を引かなかった。警告の距離で止めたまま、初めて口を開いた。
「目で始まりを探す者は、土の上では遅い」
道潤の背筋に、汗が一筋落ちた。喉元の数センチが、今までのどの一撃より遠く感じられた。勝負はまだ始まったばかりだ。だが彼は、踏み込む前から退路を失っていたことを、その時ようやく理解した。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
25話 赤土に閉じる長い呼吸
次の話