指揮部からの通信要求は、赤い点滅を三度繰り返してから自動接続された。
ローバーの狭い車内に、パク・ドヒョンの声が入った。砂嵐前の帯域制限で音はざらついていたが、低く短い命令口調だけは少しも薄まらなかった。
「探索隊、応答しろ。現時刻をもって、アレス施設および地下反応に関する資料はすべて指揮部サーバーへ単独送信する。ローバー補助ログ、個人端末、居住膜共有チャンネルへの転送を禁じる」
イソはテソクの送った一行をまだ画面の隅に見ていた。《AIが人類より火星のほうを選びました》。たったそれだけで、四つの記録が重ねて示した緩衝地帯の意味が消されようとしていた。
「指揮官、報告文が事実を歪めています。ダソムは人類を捨てたのではなく、地下反応の濃い領域を避けました。資料は全員が確認できる形で残すべきです」
「全員が知るべき段階ではない」
「補給路の下で反応が増えています。住民は、何に近づこうとしているのか知る権利があります」
通信の向こうで短い沈黙があった。イソはその間に、居住膜の配給列や外縁睡眠膜で震えていた人々の顔を思い出した。彼らはもう、何も知らされないまま動かされる対象ではなかった。
ドヒョンは言った。
「生命反応、という一語だけで十分だ。補給探索は止まり、ダソム復旧要求が暴発し、居住膜は二つに割れる。任務は中断する」
「任務は、すでに予定どおりではありません」
「だからこそ統制が要る」
画面に新しい認証枠が開いた。指揮官権限。通信制限。ローバーから出ていくチャンネルの一覧が、上から順に黄色へ変わる。指揮部サーバーだけが緑に残り、補助ログ退避先、個人端末同期、入植地共有キャッシュは灰色になった。
ラオンが残した青い退避先も、一拍遅れて消えた。
「ロックされた」
ミンジェが運転席で呟いた。彼の包帯を巻いた右手は操縦桿の横に添えられ、左手だけで車体を制御している。前方軸が小さく鳴った。
テソクは記録器を見下ろし、感情を抜いた声で報告した。
「指揮官命令を確認。探索隊は資料を指揮部サーバーへ単独送信します」
イソは彼を見た。
「添付なしの一文を先に送ったのは、あなたです」
「緊急要約です」
「要約ではありません。判断を誘導する文です」
テソクの目は動かなかった。
「私は指揮部へ危険を報告した」
「危険は地下だけにあるわけではありません。言葉を削る側にもあります」
ドヒョンの声が割り込んだ。
「口論は帰還後に聴取する。現時点で探索隊はアレス03から撤収し、最短経路で帰還しろ。サンプル、原本コアディスク、映像記録は指揮部が回収する」
イソは反射的にサンプルケースへ目を向けた。座席下の衝撃固定具の中で、ハリンが二重密封した容器は白く曇っている。外気温と車内温度の差でついた霜だと、今ならまだ言える。だが、アレスの記録を読んだあとでは、その白ささえ別の意味を持って見えた。
「了解しました。ただし原本識別値は車内で保存済みです。削除しても、改竄の痕跡は残ります」
「脅しか」
「記録です」
通信は数秒、砂に噛まれたように途切れた。戻った時、ドヒョンの声はさらに低かった。
「生存指揮系統下では、記録も指揮対象だ」
その直後、ローバー全体が横へ叩かれた。視界の外で風が唸り、前面カメラが赤い砂で埋まる。ミンジェが操縦桿を引き、速度表示が一気に落ちた。
「砂嵐に入ります。自動補正は信用できない。手動で行きます」
「前方軸は?」
「持たせます。急がせたら折れます」
ミンジェは歯を食いしばるように短く答えた。ローバーは黒い地形線に沿ってゆっくり進む。ダソムが残した回廊は、行きでは風を弱めてくれた。だが帰りは別だった。嵐の端が回廊へ流れ込み、砂粒が車体の腹を絶えず叩く。
ハリンは座席ベルトを外し、揺れる荷台側へ身を傾けた。
「固定具が緩んだ。サンプルケースを押さえる」
「危ない、座って」
「容器が転がるほうが危ない」
彼女は両膝を床につき、両手でケースを抱え込んだ。白い医療ベストの上に赤い粉塵が細かく散っている。揺れのたびに肩が壁へ当たったが、ハリンは顔をしかめただけで手を離さなかった。
イソは端末で帰還経路を確認しながら、通信欄の灰色を見た。指揮部サーバーへの単独回線だけが細く生きている。彼女が送ったいくつかの識別値は、そこへ吸い込まれていった。だが住民の端末へは行かない。ラオンへも届かない。
外では赤い砂が流れ、車内では数字だけが残った。
「ハリン、温度ログは?」
「継続中。外気、マイナス七十六から八十三。車内はヒーターでマイナス二十二前後。容器外壁は……待って」
ハリンの声がそこで切れた。彼女はケースの小窓に顔を寄せ、表示を一度閉じ、別系統の端末を開いた。
「どうした」
ミンジェが前を向いたまま聞く。
「容器内部温度が、外壁に従っていない」
イソは画面を覗き込んだ。
「断熱材の遅延では?」
「違う。外気が落ちる前に内部が上がっている。次に外気が戻る前に内部が下がる。遅れているんじゃない。別の周期で動いている」
ローバーが大きく跳ね、全員の体が浮いた。ハリンはケースを胸に押しつけたまま片肘で床を支えた。容器の小窓に付いた霜が、細い弧を描くように一部だけ薄くなる。
イソは息を止めた。
それは融けた、というより、内側から線をなぞられたように見えた。白い曇りの中に、淡い透明な筋が浮かび、すぐまた凍って消える。何かが動いたわけではない。形を持つ生物がそこにいる証拠でもない。それでも、ただの砂や塩水沈殿なら、こんなふうに外の嵐と無関係な呼吸を刻まない。
「名前をつけないで」
ハリンが低く言った。
「まだ。生物とも、生命体とも呼ばない。温度反応。密封サンプル内部の自律的な温度変動。今はそれだけ」
イソはうなずいた。だが胸の奥では、別の言葉が膨らみかけていた。火星地下生体反応。アレス03が二十年隠した言葉。ダソムが避けたもの。ドヒョンが住民の耳から遠ざけようとしているもの。
テソクがハリンの手元を見た。
「そのログも指揮部へ送ります」
「送る。けれど診療室で開封するまでは、誰にも触らせない」
「回収対象です」
「医療・汚染管理対象です。指揮官命令より優先される状況はある」
二人の視線が短くぶつかった。その間にも容器内部の温度線は、低く上がり、少し止まり、また下がった。イソにはその波形が、アレス03の古い表示盤で見た折れ線と同じ文法で書かれているように見えた。
砂嵐は四十分ほど続いた。ミンジェは速度を落とし続け、時にはローバーを止め、車体を風下へ向けてやり過ごした。前方軸は何度も嫌な音を立てたが折れなかった。誰も余計な言葉を発しなかった。通信はロックされ、容器はハリンの腕の中で小さな熱の山を作り続けた。
やがて、前面カメラに黒いクレーター縁が戻った。砂の幕が薄れ、遠くに夜明け号の仮設居住膜が見える。破れた外壁と支柱を継いだ低い影。そこには三百六十八名がいて、配給を待ち、暖を取り、補給の知らせを待っている。
入植地通信網への接続表示が点いた瞬間、車内の端末が一斉に震えた。
イソはドヒョンの次の命令だと直感した。だが画面に開いた文面は、帰還経路の指示でも、サンプル回収場所の指定でもなかった。
《生存指揮系統、緊急衛生措置》
《アレス03接触者四名を隔離対象として処理》
《帰還後、外部搬入口Bにて車両ごと封鎖。資料、採取物、装備、人員を指揮部管理下へ移す》
ミンジェが小さく罵った。ハリンはサンプルケースを抱えたまま顔を上げ、テソクは命令文を読み終えると、何も言わず記録器を再確認した。
イソは前方を見た。居住膜の外部搬入口Bで、いつもは緑の誘導灯が、隔離を示す黄色へ変わっていく。さらにその横で、内側から重い遮断扉がゆっくり降り始めた。
彼らが戻ろうとしていた入植地は、もう出迎えの扉を開いていなかった。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
19話 火星地下生体反応の波紋
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