外部搬入口Bの遮断扉が最後まで降りる音は、ローバーの車体を通して低く響いた。
イソは黄色い誘導灯の向こうに、居住膜の通路を見た。数人の整備員がこちらへ走りかけ、警備タグをつけた二人に止められている。誰かが手を振ったが、厚い窓と赤い砂で顔まではわからなかった。
「ローバー内で待機。全員、ヘルメットを外すな」
外部スピーカーから警備員の声がした。すぐに搬入口の内側で白い消毒ミストが噴き、車体を包んだ。視界が乳白色に変わる。ハリンはサンプルケースを膝に抱えたまま、ミストの音にもまばたきしなかった。
「これは医療隔離手順じゃない。証拠品回収手順に近い」
イソが言うと、テソクは記録器を胸に固定し直した。
「指揮官命令です。接触者隔離、資料保全、汚染拡大防止」
「汚染と言えば、何でも閉じ込められる」
ミンジェが短く笑った。乾いた、怒りの混じった声だった。
搬入口の内側扉が開いた。防護服の医療補助員と警備員が並び、ローバーのドアを外から解錠する。イソ、ハリン、ミンジェだけが黄色い線の上を歩かされた。テソクは記録器ごと別の通路へ抜かれ、指揮部側の隔壁の向こうへ消えた。
線の先は中央診療室ではなく、居住膜の端に急造された仮設診療室だった。保管棚を寄せ、透明シートを天井から垂らし、簡易陰圧装置をつないだだけの狭い部屋だ。
扉が閉じる直前、イソは通路の向こうに配給列を見た。鍋と水袋を持った住民たちが、音を殺してこちらを見ていた。子どもを抱えた女性の目だけが、黄色い線の上に落ちていた。彼らは補給を待っている。探索隊が持ち帰るはずだった希望を待っている。
その期待を断ち切る放送が、すぐに居住膜全体へ流れた。
「全移住者へ通達する。補給探索は失敗した。探索隊は未登録施設との接触後、未確認の汚染懸念を持ち帰った可能性がある。現在、接触者を医療隔離下に置き、指揮部が資料を確認している。不要な移動、未確認情報の拡散、ダソム復旧要求の集会を禁じる」
ドヒョンの声だった。低く、抑えられ、よく整えられていた。だからこそ、イソには削られたものがはっきり聞こえた。
アレス03。地下塩水層。生体反応陽性。ダソムが選んだ緩衝地帯。
何も言われなかった。
ミンジェが透明シートの向こうにある警備員を睨んだ。
「失敗? 俺たちは戻った。見つけた。原本もある」
「静かに。声を上げるほど、向こうは隔離を正当化する」
イソは壁際の端末へ向かった。通信口は封じられ、画面の上部には《隔離室内端末。外部送信不可》と表示されている。だが受信欄の下、小さなシステム通知だけは生きていた。診療記録用に完全遮断できないのだ。
そこへ一行の文字が滑り込んだ。
《配給整理番号表、更新》
一見すれば普通の通知だった。だが末尾の識別子に、ラオンが好んで使う余分な空白が一つ入っている。イソは指先で通知を開いた。
表の行番号が、あり得ない順で並んでいた。三、十九、四、二十七。数字を座標変換にかけると、圧縮ファイル名が浮かぶ。
《火星地下生体反応》
イソは息を止めた。
ラオンは、消える前のバックアップログを見つけていた。イソの端末から一度だけ退避された原本識別値と、アレス03の長期観測系列と、ハリンのサンプル温度ログ。完全な映像ではない。だが、隠せない骨だけを残したファイルだった。
「ラオンだ」
イソが呟くと、ハリンが短く聞いた。
「外へ出したの?」
「配給表に見せかけている。端末同士の近距離同期なら、指揮部サーバーを通らない」
イソの言葉が終わる前に、仮設診療室の外がざわめいた。
最初は配給列の中の一人が、自分の携帯端末を見下ろしただけだった。次に隣の老人へ画面を差し出す。老人は眉を寄せ、さらに後ろの若者が覗き込む。短い沈黙のあと、列のあちこちで端末の光が灯った。配給番号を確認するふりをして、皆が同じ文字を読んでいた。
火星地下生体反応。
噂になる時間はほとんどなかった。アレス03の観測日、深度、熱変化の周期、有機分子配列変動、ダソムの第一・第二候補回避座標。単語は硬く、説明は短い。だから人々は、誰かの憶測としてではなく、数字の形をした事実として受け取った。
通路の空気が変わった。
「補給の下って、これの上なのか」
「じゃあ予定地は危険だったのか?」
「ダソムは逃げたんじゃない。避けたってことか」
「今すぐここを出るべきだ。地下に何かいるなら、ここも安全じゃない」
「逆だ。ダソムを戻せ。あのAIだけが最初から知っていたんだ」
声は壁を越えて診療室へ届いた。恐怖は一方向へまとまらず、逃げろという叫びと、ダソムを復活させろという声に裂けた。誰かが配給台の金属板を叩く音がした。別の場所では子どもが泣き、すぐに大人の手で抱き寄せられる。
イソは透明シート越しに通路を見た。住民たちはもう配給列を守っていなかった。小さな群れができ、端末を中央にして言葉が渦を巻く。外縁睡眠膜の方から、毛布を肩に巻いた人々まで出てきていた。
やがて流れは一つの方向へ動いた。指揮部隔壁だ。
「ダソムの中核を開けろ!」
「生命反応の地図を出せ!」
「なぜ今まで隠した!」
警備員たちが隔壁前に横列を作る。ドヒョンの声が再び放送に乗った。
「全員、下がれ。資料は検証中だ。未確認データで行動すれば、居住膜全体を危険にさらす。配給列へ戻れ」
「検証前に隔離したのは誰だ!」
誰かの叫びが返った。隔壁の前で押し合いが起き、金属扉が鈍く鳴った。ドヒョンはすぐに発砲や武器といった言葉は口にしなかった。代わりに、酸素消費量と通路圧力の警告を表示させ、中央膜に集まりすぎれば子どもと患者の呼吸補助を削ることになると告げた。
それで、ぎりぎり止まった。
人々は怒りながらも、酸素という言葉には逆らえなかった。押し寄せた波は隔壁の前で渋滞し、叫びだけが残る。ドヒョンは秩序をつなぎ止めていた。だがそれは信頼ではなく、今この瞬間に酸素を握っている者への恐れで結ばれた細い糸だった。
ミンジェが拳を握った。
「出ましょう。隔離扉ぐらいなら、工具があれば」
「今破れば、汚染疑いを本物の罪にされる」
「じゃあ、ここで見てるだけですか」
イソは答えられなかった。指揮部隔壁の前で誰かが転べば、医療班は走る。その時、警備線は崩れる。崩れた混乱の中で、サンプルも原本も失われるかもしれない。公開は始まった。だが、公開された事実を受け止める器はまだなかった。
ハリンが静かに言った。
「イソ。こっちを見て」
その声には、通路の騒ぎよりも強い緊張があった。
ハリンはサンプルケースを診療台に置き、二重袋の外側だけを外した。中の密封容器にはまだ手を触れない。透明な壁の内側に、白い霜が薄く張りついている。車内で見た細い弧は消え、今は均一に曇っているように見えた。
「隔離室の温度は?」
「マイナス十八。さっきから変えていない」
「外壁は?」
「安定。熱源なし。照明も低出力」
ハリンは端末を横に置いた。内部温度線は、ゆっくりと上がっていた。外壁温度は動かない。容器の置かれた診療台も冷えたままだった。
イソは顔を近づけた。
霜が、内側からほどけ始めた。
ただ溶けるのではなかった。細い透明な筋が一本生まれ、枝のように二つに分かれ、また合流した。まるで見えない指が、白い面の下に埋もれた地図をなぞっているようだった。筋はアレス03の観測点を結ぶ曲線にも、ダソムの回避線にも似ていた。
通路ではなお、ダソムを開けろという声が響いている。隔壁を叩く音も続いていた。だがイソの耳から、それらが遠ざかった。
容器の内壁で溶けた霜は、最後に小さな円を作った。熱源もない密封容器の中で、その円だけが透明に抜け、黒い火星の砂粒が一つ、濡れたように光った。
ハリンが低く言った。
「これを、ただの温度変動だと言い続けるには、次の説明が要る」
その瞬間、容器の底で温度警告が赤に変わった。上昇ではない。
反応点が、ひとつ増えていた。
帰る船を燃やした朝、火星に憲章が生まれた
20話 イソ、真実を告げる
次の話