若い代理は、取調室の机から手錠を外すと、ドギョムの肩を押す。
廊下は奥へ行くほど狭くなる。白い蛍光灯は一本おきに切れ、床のリノリウムには古い雨水と靴底の泥が黒く伸びている。壁の向こうで無線が鳴り、誰かが紙を破る音がする。町の声はここまで来ない。ここから先は、町が人を置き忘れる場所だ。
鉄扉が二枚ある。手前は書類保管庫。奥が留置場。若い代理は腰の鍵束を右手で探り、三本目を使う。ドギョムはその手ではなく、鍵束の揺れ幅を見る。ベルトの右側。無線機の後ろ。留め具は古いスナップ式。
扉が開くと、湿ったコンクリートと消毒液、吐瀉物を薄めたような臭いが押し出される。
「入れ」
ドギョムは中へ入る。
部屋は広くない。横に鉄の寝台が二つ、床に薄いマットが一つ。天井の隅には換気口。格子は六本、うち一本だけ錆が浅い。廊下側の壁の上には古い監視カメラが一台。もう一台は鉄扉の外、廊下の端にある。角度を合わせれば、出入口から正面へ二歩入ったところに一坪ほどの盲点ができる。
先客は二人いる。
一人は老人だ。白い髭にスープの染みをつけ、壁にもたれて座っている。酒の臭いが皮膚から滲み、目だけが水を張ったように濁っている。靴紐は抜かれ、両手は震えている。
もう一人は二十代の青年だ。痩せた首、落ち窪んだ目、手の甲から肘の手前まで、古い注射針の跡が長く残っている。新しい痕もある。治療の跡ではない。誰かが使い、使い終えてここへ投げ込んだ跡だ。
青年はドギョムを見るなり、乾いた笑いを喉の奥で潰す。
「ラウクと話したんだろ。運がいいのか悪いのか、わからないな」
ドギョムは答えない。
若い代理が鉄扉を閉める。鍵が回る。足音が離れる。老人は少しだけ顔を上げ、また膝へ落とす。
青年は寝台の端に座ったまま、ドギョムの軍用外套を見る。
「取引を出されたか」
返事はない。
「出されたんだな。出される奴は、まだ使い道がある奴だ。俺みたいなのは取引もない。紙の上で終わりだ」
ドギョムは壁際に立ったまま、部屋をもう一度測る。床から換気口まで二メートル七十。寝台を立てれば届く。だが格子を外すには時間がかかる。廊下のカメラは回転式ではない。死角は固定。鉄扉の蝶番は外側。内側から壊せない。呼び出しボタンはない。
廊下の奥で、当直者の声がする。二人。歩幅は違う。一人は左足を少し引きずる。もう一人は鍵束を大きく鳴らす癖がある。点呼は二時間おき。九時、十一時、一時。だが四時前の一回だけ、廊下の無線が長く鳴り、足音が六分遅れる。
ドギョムはその遅れを頭に入れる。
老人が突然、笑う。
「兄ちゃん、出る気か」
ドギョムは老人を見る。
「出ねえほうがいい。出てもまたここだ。町の出口も、道路も、ベッドの下も、全部ラウクのもんだ」
青年が舌打ちする。
「黙れ、ウォルト」
「本当だろうが。ここじゃドアの外も檻だ」
ドギョムは何も言わない。老人の名がウォルトであることだけを拾う。青年の名はまだない。名前を出すかどうかで、相手がまだ自分を人間と思っているかがわかる。
午前が過ぎる。留置場には時計がない。だが廊下の電話、タイプ音、無線の定時報告、コーヒーメーカーの蒸気で時刻は読める。十一時五十七分、奥の扉が開く。昼食のワゴンが来る。
トレイは三つ。灰色のプラスチック。豆のスープ、乾いたパン、薄いリンゴ。配るのは当直者二人だ。左足を引きずる男が扉を開け、鍵束の男がトレイを差し入れる。鍵束はやはり右側。拳銃は左の腰。非常口は廊下の突き当たり。赤い表示灯は点いているが、蝶番の上側だけ新しい。
ドギョムは動かない。
最初のトレイが老人の前へ滑る。老人の震える手がスープへ伸びる。二つ目が青年の足元へ置かれる。三つ目を鍵束の男が持った瞬間、ドギョムは半歩踏み出す。
老人の肩を突き飛ばす。
力は殺してある。骨は折れない。だが老人の体はトレイへ倒れ込み、スープが宙に跳ねる。灰色の豆と油が床へ広がり、鉄扉の下を抜けて廊下まで飛ぶ。
「何しやがる!」
青年が立ち上がる。老人が喉を鳴らして咳き込む。当直者二人が同時に怒鳴る。鉄扉が開く。左足の男が先、鍵束の男が後ろ。二人とも拳銃へは触れない。留置場の中では銃より手が早いと知っている。
ドギョムは抵抗する姿勢を見せるだけにする。
左足の男が腹へ拳を入れる。息が少し落ちる。鍵束の男が後ろから首を押さえ、額を壁へ叩きつける。コンクリートが近づき、鈍い音が頭の内側で鳴る。視界の端に白い火花が散る。
「床に伏せろ!」
ドギョムは膝をつく。だが視線は下がらない。鍵束の男のベルト。右側のスナップ。鍵の本数。非常口までの距離。左足の男の靴底の減り。廊下の端のカメラの角度。鉄扉が開いた時の蝶番の遊び。開いてから閉まるまで、二人が腕を伸ばし切る時間。
もう一度、頭を壁へ打たれる。唇の内側が切れ、血の味が広がる。
老人は床で咳を続けている。青年は寝台の端に戻り、顔を背ける。助けない。助けられない。助けようとすれば、次は自分の番だと知っている。
当直者はドギョムの腕を背中へねじり、手錠をきつく締め直す。
「調子に乗るな、よそ者」
鍵束の男が耳元で言う。
ドギョムは返事をしない。壁の血痕の高さだけを覚える。自分の額の位置。次に誰かがここで倒された時、それが自分かどうかを見分けるために。
廊下の奥、監視室では別の男がそれを見ている。
ラウクはモニターの前で腕を組んでいる。画面は四分割だ。留置場。廊下。取調室。裏口の駐車場。白黒の粗い映像の中で、ドギョムは頭を下げ、血を床へ落としている。
若い代理が横に立つ。
「反抗ですか」
「いいや」
ラウクは画面から目を離さない。
「測っている」
若い代理は意味を取れず、黙る。
ラウクは留置場の映像を巻き戻すように頭の中でなぞる。ドギョムが老人を押した角度。扉が開いた瞬間の目の動き。殴られながらベルトを見た顔。非常口の蝶番へ視線が落ちた一拍。
「明日の朝、裁判所へ移送。車両二台、武装四人」
ラウクの声は低い。
「奴がどこを見るか記録しろ。手首、扉、車輪、運転席、無線。全部だ」
「留置場で何かする気なら」
「ここではやらない」
ラウクは小さく笑う。
「この男は、狭い箱では暴れない。箱が動く時を待つ」
留置場の中で、ドギョムは床へ押さえられたまま息を整える。頭痛は鈍い。唇の血は熱い。左の肋骨に残る古い痛みが、拳の衝撃で少し起きる。
当直者が去り、鉄扉が閉まる。老人はスープまみれの袖を抱えて壁際へ戻る。青年は低く言う。
「死にたいのか」
ドギョムは袖口で唇を拭う。血が布へ細く伸びる。
「まだだ」
それだけ言う。
彼は頭を下げる。負けた男の姿に見えるように。カメラにも、廊下にも、老人にも、青年にも、そう見える角度を選ぶ。
だが目だけは閉じない。
彼が本当に測っているのは、この留置場ではない。明日の朝、二台の車両の間にできる距離。手錠の輪がエンジンの振動で鳴る音。前の護送車が曲がり角の向こうへ消える、たった一拍の空白。
そしてその空白の先には、峡谷へ下る道がある。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
14話 峡谷入口の手錠の軋み
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