扉が開ききる前に、ドギョムはカートの取っ手を押し込む。地下一階の非常灯は赤く、通路の床を血のように細く照らしている。
エレベーターは完全には止まらない。古いワイヤがまだ箱を揺らし、天井の蛍光灯が一度だけ白く瞬く。カートの廃棄物箱の中で、アルマの息がかすかに詰まった。
ドギョムは片手を箱の上に置く。もう一方の人差し指を、自分の口元ではなく、箱の隙間へ向ける。
音を出すな。
言葉にはしない。言葉は壁に当たり、通路へ落ちる。ここでは落ちた音まで誰かの記録になる。
アルマの呼吸が細く整う。ミゲルの姉は、痛みを飲み込む方法を知っている。知りたくて覚えたものではない。覚えさせられたものだ。
ドギョムはカートを資料室側へ押す。エレベーターから搬入口へ直行すれば早い。だが早すぎる動きは、地下一階にいる誰かの目に刺さる。清掃員なら、こぼした漂白剤の後始末と、止めたカートの不具合を気にする。逃げる男なら出口だけを見る。
彼は逃げる男に見えない速度で進む。
通路の奥から、換気区画閉鎖の警告音がまだ鳴っている。班長の声は聞こえない。地下二階で怒鳴っているか、端末の前で位置表示を見ている。どちらにしても、数十秒しかない。
資料室のキャビネット列が見える。灰色の鉄。郡有財産の看板。黒い番号錠。湿ったコンクリートの壁。そこに刻まれたJR。
ドギョムはカートを止める。
箱の中で、布がわずかに擦れる。
彼はすぐに箱の蓋へ指を当てる。今度ははっきり、アルマの口元の位置を押さえる。
息の音が漏れれば終わりだ。
通路のスピーカーが割れる。
「地下一階、汚染区画確認者、応答。清掃員全員、指定位置で待機」
声は管理端末の女だ。まだ状況を理解していない。まだ清掃員を逃げた労働者として見ていない。そこが唯一の隙だ。
ドギョムは膝をつく。昨日と同じ場所。キャビネット脇の床。前日は手の甲で錠前を探りながら通り過ぎた。あのとき、壁のJRだけを見た。だがジョアン・リバースがここで何かを残そうとしたなら、壁だけではない。
彼はモップの柄を床に倒し、拾うふりで体を低くする。赤い非常灯が床と壁の隙間を斜めに照らす。埃、水垢、古い塗装片。その奥に、黒赤く固まった細いものが挟まっている。
紐だ。
指ではつかまない。手袋の端で、壁と床の隙間を押し広げる。固まった血がコンクリートへ貼りついている。無理に引けば切れる。ドギョムはロックピンを抜き、先端を薄い金属片として使う。ゆっくり差し込み、紐の下へ滑らせる。
スピーカーがまた鳴る。
「ブレスレット一基、地下二階から地下一階へ移動反応なし。警備班、確認に向かえ」
遅い。まだ地下一階とは読めていない。
ドギョムは紐を引き出す。長さは親指ほど。黒い布に、赤黒い血が固まり、端は力任せに引き千切られている。印字が半分だけ残っている。
REUTERS-FREELANCE。
ジョアン・リバースのカメラストラップだった。
ドギョムの目が一度だけ細くなる。怒りではない。怒りに見えるものを、彼は今ここで使わない。使う場所はまだ先だ。
彼は紐を二つ折りにし、清掃服の内ポケットへ入れる。胸の内側で、布片が湿った重みを持つ。ミゲルの母の写真裏の番号と同じ場所へは入れない。証拠は一か所に集めない。昔、それで一度、全部消された。
壁のJRを見る。
昨日よりはっきり見える。非常灯の赤が、傷の端を濃くする。Jの下側には、爪が半分ほど折れながら引っかいた跡が残っている。最後の線は乱れ、横へ流れている。連れていかれる瞬間、なお壁へ指を押しつけた動きだ。
ジョアンはここまで来た。自分の足か、誰かの手かはまだわからない。だがこのキャビネットの前で止められ、名前の代わりにイニシャルを刻み、カメラストラップを残そうとした。そのあと、別の場所へ移された。
資料室の向こうではない。
もっと深い場所だ。
ドギョムは立つ。カートの前輪をわざと小さく鳴らす。清掃員が慌てて動き出したように聞かせるためだ。
廃棄物箱の内側から、アルマの目が隙間越しに見える。暗く、乾いている。彼女は今の布片を見ていない。だがドギョムの手の動きは見ている。
「誰かの?」
声ではない。唇だけが動く。
ドギョムは首をわずかに振る。今は答えない。ジョアンの名は希望にも恐怖にもなる。アルマを歩かせるには軽いものだけでいい。
通路の角で靴音が鳴る。
一人。重くない。警備員ではない。清掃班の誰かが、班長に言われて吸引材を取りに来た可能性が高い。
ドギョムはカートを押す。車輪の緩いピンがかたかた鳴る。彼はモップを拾い、バケツを引っかけ、清掃員の手順から外れない形で資料室を離れる。
角を曲がる直前、背の曲がった作業員が現れる。昨夜、更衣室で扉の音に肩を跳ねさせた男だ。手には吸引材の袋を抱えている。彼の目がカートへ落ち、廃棄物箱の高さで止まる。
ドギョムは歩を止めない。
男の喉が動く。何かを言うか、言わないか。その一拍で、彼の人生の残りが決まる。
ドギョムは低く言う。
「班長が呼んでる」
男の顔から血の気が引く。班長という名は、命令より強い。彼はすぐに視線を下げ、道を譲る。
「俺は、見てない」
小さく漏れる。
ドギョムは返事をしない。返事は約束になる。約束できるほど、この通路は安全ではない。
搬入口側への扉が見える。外気の湿った匂いが、地下の消毒臭に混じり始める。廃棄物搬出用の小さな通路は、夜間だけ鍵が開く。午前二時の回収車。感染廃棄物と厨房廃棄をまとめて裏口へ出す時間だ。
ドギョムはカードをかざす。エリック・ホールの仮入館カードが緑に光る。扉が開く。外の雨音が一瞬で大きくなる。
裏口には、廃棄物トラックがバックでついている。白い施設ロゴは泥で汚れ、荷台の扉は半分開いている。運転席は空だ。運転手は搬入口の詰所で署名をしているか、煙草を吸っている。ミゲルの記録どおりなら、戻るまで九十秒。
ドギョムはカートを荷台へ寄せる。箱を持ち上げる前に、周囲を見る。監視カメラは庇の下に一つ。水滴でレンズが曇っている。門の脇に警備員の影はない。だが本館の窓のいくつかに白い光が増え始めている。
猶予が尽きる。
彼は廃棄物箱を荷台の奥へ滑らせる。中でアルマの体が揺れるが、声はない。荷台には黒い袋、破れた段ボール、消毒液の空容器が積まれている。彼はアルマの箱をその下へ押し込み、空気の道だけを残す。外から見れば、ただの廃棄物の山だ。
そのとき、館内の警報が一斉に鳴った。
午前二時四分。
保安ブレスレットの離脱警報が、ようやく施設全体へ上がる。赤い回転灯が搬入口の壁を回り、本館の夜間照明が一斉に点く。白い建物が、雨の中で骨ではなく獣のように起き上がる。
「全出口封鎖。地下二階、搬入口、廃棄物回収車を止めろ」
スピーカーの声が、裏口まで割れて届く。
ドギョムは荷台の扉を閉めない。閉めれば中から空気が細る。半分だけ引き寄せ、留め金をかけずに重ねる。外からは閉まって見える角度だ。
詰所の扉が開く。運転手が煙草を口にくわえたまま顔を出す。
「何だ、警報か?」
ドギョムは清掃服の上から、搬入口横に掛けてあった古い作業シャツを羽織る。運転手へ歩み寄る。相手が状況を見る前に、首の下へ二本指を入れ、気道を潰さない角度で押す。男の膝が崩れる。ドギョムは頭をコンクリートへ打たせず支え、詰所の椅子へ座らせる。眠っているように見える姿勢にする。
鍵は運転席に刺さったままだ。
ドギョムは乗り込む。清掃服の上に濡れたシャツ。手にはまだ漂白剤の匂い。内ポケットには血のカメラストラップ。
ゲートの向こうで警備員が走る。門のランプが赤に変わりかける。閉まり始めるまで五秒。トラックのディーゼルエンジンは重く、すぐには応えない。
ドギョムはアクセルを踏む。
車体が一度沈み、荷台の中で廃棄物が鈍く鳴る。アルマの箱も揺れる。彼はハンドルを切り、裏口の黄色い縁石をかすめる。警備員が懐中電灯を振り上げるが、光はフロントガラスの雨に砕ける。
「止まれ!」
声が背後へ流れる。
トラックは門を抜ける。閉まりかけた鉄柵が荷台の角をこすり、火花が短く散る。すぐ後ろで、ゲートが重い音を立てて閉じた。
峡谷外縁の道路へ出る。雨は細く、道は黒い。右は古い銅山へ続く低い尾根。左は町へ戻る回り道。正面には、ヘナが言った廃ガソリンスタンドへ続く迂回路がある。
ドギョムは正面へ向ける。速度は上げすぎない。逃げる車の速度は、追う者に形を与える。廃棄物トラックなら、重く、鈍く、夜明け前の仕事を終えて戻るだけでいい。
荷台の奥で、かすかな音がした。
ドギョムはルームミラーを見る。アルマではない。荷台の扉の隙間から、黒赤く濡れた布片が一瞬だけ覗いた。彼の内ポケットに入れたはずのカメラストラップではない。廃棄物の山の奥、別の黒い紐が雨を吸って揺れていた。
その端にも、白い文字が残っている。
JR。
ドギョムの手がハンドルの上で止まりかける。ジョアンは、資料室に一つだけ残したのではなかった。荷台のどこかに、彼女が最後に運ばれた先を示す次の欠片がある。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
29話 アルマ、屋根裏へ逃れる
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