ミゲルはまだ戻っていない。
その事実だけが、地下室の空気をさらに狭くする。アルマは何も言わず、外套の内ポケットを押さえたまま床を見ている。ドギョムは受信機から手を離さない。学校側も確認継続。その一文は、雨より冷たく壁の内側へ染み込む。
午後が遅くなるころ、ブラスヒルの音は一つずつ消えていく。郡庁舎周辺の非常無線だけが生き残り、携帯電話はただの黒い板になる。食料品店のカウンターでは、カード端末が青白い『OFFLINE』を点滅させ続ける。客は現金を探し、店主は札の端を数えながら、互いの顔を初めてまともに見る。
「いつ戻るんだ」
誰かがそう言う。店主は答えない。答えれば、戻らない可能性を認めることになる。
焼けたヘナズ・ダイナーの前を、住民たちが避けるように歩く。昨日まで扉だった場所は黒い骨組みだけになり、カウンターの形をしていた炭が雨に濡れて崩れている。誰も長く見ない。だが誰も見なかったふりもできない。プライスのポスターが雨で膨れ、白い歯だけがまだ笑っていた。
教会地下で、ヘナはその方角を見ないまま小型ラジオのつまみを回す。砂嵐の音しか戻らない。グラディスの古いノートパソコンは送信待機のまま固まり、ディナは封筒ノートの写しを救急キットの底に押し込む。アルマだけが階段の闇を見る。
「学校へ行く」
ドギョムが言うと、ヘナの手が止まる。
「ミゲルを迎えに?」
「今行けば、学校まで持たない。向こうもそれを見てる」
「じゃあどこへ」
ドギョムは坑道図面ではなく、外郭牧場の線を指で押さえる。
「穴を見に行く」
零時の一斉捜索まで待てば、道は向こうの形になる。暗くなる前なら、まだ配置が固まる途中だ。ラウクは広い罠を張った。広い罠には、必ず連絡をつなぐ支柱がいる。
ドギョムは拳銃を持たない。ダッフルバッグから布切れ、結束用の細いコード、古い作業手袋だけを出す。ヘナが焼けた手首を押さえながら近づく。
「殺さないんですね」
「使う」
短い答えに、ヘナはそれ以上聞かない。
ドギョムは教会裏の水路から出る。雨は弱まっていないが、空は少し明るい。表通りを避け、食料品店の裏手を抜ける。壁越しに端末の警告音がまだ鳴っている。店の中で誰かが硬貨を落とし、その音に三人分の肩が同時に跳ねる。
旧車両登録事務所の薄茶の壁は、雨の中で前よりも濃く見える。北壁の巡回はある。南側は見せかけの空白だ。ドギョムは正面へ近づかず、排水溝の縁をたどって建物を迂回する。前に外した換気口のネジは新しいものに替わっている。ラウクはここが通られたことを知っている。だから今夜は、ここを入口ではなく目印として使うはずだった。
ドギョムは壁に触れない。濡れた草の倒れ方、砂利に残るタイヤの角度、泥に沈んだ制式靴の間隔だけを見る。車両は二台。人員は最低四人。だが足跡の一つが、牧場側へ深く伸びている。大きな無線機を抱えた者の歩幅だ。
彼はその線へ入る。
外郭牧場は、昔の柵と錆びた給水槽だけが残る平地だ。雨に濡れた牧草の間に、廃畜舎が三つ並んでいる。壁板は半分抜け、屋根のトタンは風で低く鳴る。遠くの道路からは検問のエンジン音が聞こえるが、ここだけは妙に静かだった。
ドギョムは低く進む。泥に足を深く入れず、壊れた柵の影をつないでいく。廃畜舎の二棟目と三棟目の間で、細い金属音が一度鳴った。
人がいる。
カーキ色のシャツを着た保安官代理が、古い飼料棚の横に膝をついている。背中には雨合羽。足元にはバッテリー箱と折り畳み式のアンテナ。男は濡れた手で伸縮ポールを立て、郡庁舎側の非常無線網へつなぐ中継を作っている。携帯を殺して、無線の道だけを選ぶ。ドギョムの読みは外れていない。
男の腰には拳銃。右手の甲は濡れているが、ホルスターの留め具は外れている。急な移動のためか、警戒より作業を優先していた。
ドギョムは背後へ回る。板のきしみを、雨がトタンを叩く瞬間に重ねる。一歩、もう一歩。代理が無線機へ顔を寄せる。
「……外郭中継、仮設。感度確認」
返答は砂嵐の奥から来る。男は聞き取ろうとして肩を少し前へ出す。
その肩の後ろに、ドギョムの手が入る。
最初に拳銃を抜く。握るのではなく、男の腰から滑らせて落とし、足で泥へ押し込む。同時に左手で口を塞ぎ、右膝で相手の膝の外側、靭帯の横を斜めに蹴る。乾いた音は雨に沈む。代理の体が崩れる前に、ドギョムは肘を抱えて背中側へ折り、地面へ倒す。
男が悲鳴を出そうとする。布が先に口へ入る。ドギョムは肩を押さえ、呼吸だけを残す力で首を固める。
「動くな」
男の目が白く開く。抵抗は半秒で終わる。ドギョムは弾倉を抜き、薬室の弾を泥へ落とす。拳銃本体は畜舎の梁の上へ置く。見つけにくいが、なくなってはいない場所だ。
代理の両手を背中で縛り、柱へ固定する。膝は壊れているが、命には届かない。口の布を噛ませ直し、鼻で息ができる角度を確認する。殺す必要はない。今欲しいのは、声ではなく、声の通る道だった。
アンテナの基部にある無線機が鳴る。ドギョムは代理の肩越しに身を低くして、受信だけを開く。周波数は保安官事務所より低い。ブラスラインの古い周波数に近いが、符号の間隔が違う。
雨の向こうから、知らない男の声が入る。
「……牧場中継、立ったか。ラウクへ回せ。マローンさんが今夜からラウクの横につく」
ドギョムの指が、無線機の縁で止まる。
マローン。
ケイレブ、ロビー、サムが恐れていた名前。箱二つが消えたとき、内側の三人を疑わせた名前。ルーファスを山道の鉄線へ落とした側の、いちばん上にいる名前。これまでは端の声や命令の輪郭でしかなかった。今、声の中で、はっきり形を持つ。
ヴィンス・マローンが、ラウクの横につく。
保安官事務所の紙と、カルテルの手が、同じ机の上に並ぶという意味だ。町はもう、住民のための一時的措置という薄い言葉さえ捨て始めている。
ドギョムは縛られた代理を見る。男は涙と雨で顔を濡らし、首を横に振ろうとしている。知らない、言っていない、そういう顔だ。だが今さら誰が知っているかは重要ではない。無線が知っている。
彼は無線機を外し、バッテリーの残量を確認する。まだ使える。アンテナは倒さない。倒せば、向こうはここが壊れたと知る。ドギョムは通信を生かしたまま、聞く側だけを奪う。
「……学校側、確認は」
別の声が流れる。
ドギョムの体が、わずかに止まる。
「学校放送室、夜間補習の人員一名を確認。名前は呼ばずに行って引きずり出せ」
雨音が一瞬、遠くなる。
夜間補習。放送室。人員一名。
ミゲルだ。
ドギョムは無線機を握る手に力を入れる。返答すれば、こちらの位置が割れる。走れば、牧場の線を捨てる。だが向こうはもう名前を呼ばない。手続きの形を残さず、扉を開ける段階に入った。
無線機の黒い筐体が、雨で冷えているのか、彼の手が冷えているのか、もう区別がつかない。ドギョムは縛った代理の横で、初めて学校の方角へ顔を上げる。
そのとき、無線の向こうで誰かが短く笑った。
「急げ。マローンさんは子供から持ってこいと言ってる」
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
66話 雨ににじむ赤い尾灯
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