ドギョムは無線機を踏みつぶさない。まだ声の流れが要る。マローンの命令は、閉じた部屋の中まで冷たく届いている。
「三十秒待つな。開けろ。中にいるなら、その場で撃て」
外側の足音が近づく。D-3の床は古い枕木と新しいコンクリートが混じっていて、踏む場所で音が違う。いま聞こえるのは二人。ひとりは作業場の奥から、もうひとりはキャビネット列の反対側から回ってくる。
ドギョムはジョアンの肩を支え、部屋の奥から引き寄せる。彼女の体は軽すぎる。骨と濡れた布だけを抱えているようだ。薄いマットレスの端を裂き、汚れていない裏地を引き抜く。爪を剥がされた指先へ巻くと、ジョアンの喉から短い音が漏れる。
「噛め」
ドギョムは布の端を彼女の口元へ持っていく。ジョアンは首を横へ振ろうとするが、力が足りない。代わりに目だけで拒む。まだ話すつもりだ。
「話すなら、短く」
彼女はうなずかない。ただ、ドギョムの軍用ブーツの横へ体をもたせかける。座るというより、落ちるのを止められているだけだ。右手は包帯に沈み、左手の二本ない爪の跡も、赤黒く固まっている。
外で鍵の束が鳴る。
ドギョムは黒い錠を扉の内側へ戻し、完全には閉めない。隙間を一センチだけ残す。向こうから見ればまだ閉じている。蹴れば開く。開けば、先に入った男だけが狭い入口で止まる。
ジョアンが息を吸う。肺の奥が錆びたような音を立てる。
「最後に……話したのは、フィントン」
「保健局長か」
「ええ。失踪する前……郡病院の裏の記録室。あの人、怖がってた。自分の署名じゃないって、最初は言った。でも……医師の署名欄を、誰かに渡してた」
ドギョムは扉の隙間から外を見る。赤い補助灯が一秒ごとに作業場を切り刻む。縛った班長は坑木の根元で身じろぎしている。口の布はまだ外れていない。だが首を振れば、そこにいることくらいは知らせられる。
「誰に渡した」
「マローンの運び屋。名前は聞いてない。でも……フィントンは写しを渡した。更生命令書の写し。判事の印がある紙」
ジョアンの声は細い。だが言葉の芯は折れていない。記者の声だ。閉じ込められても、爪を剥がされても、何を見たかを並べる声。
「死亡診断書の医師署名を偽造したのもフィントンか」
「手は、あの人。頭じゃない。町長が金を作る。マートンが命令を書く。コンウェイが借金を締める。ラウクが外へ出さない。マローンが運ぶ」
五つの名前が、湿った坑道の中で一つずつ落ちる。
エヴァン・プライス。
判事マートン。
郡銀行頭取コンウェイ。
保安官カール・ラウク。
ヴィンス・マローン。
ドギョムはその名を頭の中で星形に戻す。町長公邸、裁判所、銀行、保安官事務所、銅山。ジョアンのノートパソコンで見た線は、まだ円になっていなかった。円にする輪が、B-4にある。
ジョアンは包帯で巻かれた右手を胸元へ寄せようとする。動かない。ドギョムが支えると、彼女はそこへ額を少し近づけるようにして言う。
「カード一枚。小さい。爪より少し大きい。会計サーバーの写し。入出金、日付、送金先、全部。五人が同じ日に同じ金額で……別の名目を使って、回してる」
「マローンはそれを持っていない」
「持ってない。だから……殺せなかった。殺したら、場所がわからない」
外の男が近づき、扉の前で止まる。
「JR、開けるぞ」
声は若い。命令を怖がっている。怖がっている男は、命令を急ぐ。
ドギョムはジョアンの肩から手を離し、扉の横へ立つ。安全帽の明かりは消したままだ。左手で錠を押さえ、右手で床に落ちていた短い鉄棒を拾う。もともとは棚の支柱だったものだ。
扉が蹴られる。一度目は錠の重さを確かめる音。二度目で隙間が開く。若い男が銃口を先に差し込む。
ドギョムは銃身を下から払う。弾は床を削って火花を散らす。同時に鉄棒を男の手首へ入れる。骨が折れる音は補助灯の間で短く消える。男が叫ぶ前に、ドギョムは襟をつかんで部屋の内側へ引き倒し、銃を奪い、弾倉を抜く。薬室の弾も抜き、銃本体は男の腹の下へ蹴り込む。
二人目が角を曲がる。銃声を聞いたのだ。
ドギョムは倒れた男の安全帽を扉の外へ転がす。赤い灯の下で帽子が跳ねる。二人目の視線がそこへ落ちた一拍、ドギョムは扉から出て膝を打つ。男の体が横へ折れ、壁へぶつかる。口へ肘を入れ、無線機を引き抜き、コードで両手を後ろへ縛る。
「眠っていろ」
声は低い。聞かせる相手はもう意識を失いかけている。
無線機がまた鳴る。今度はマローンではない。D-3の内側で中継している男の声だ。
「キャビネット列、応答しろ。JR、状況を言え」
ドギョムは答えない。代わりにジョアンのそばへ戻り、倒した男から剥いだ上着を彼女の肩へかける。彼女はその間も意識を手放さない。まぶたが閉じかけるたび、自分で引き戻している。
「B-4の場所をもう一度」
ジョアンは歯を鳴らす。寒さではなく痛みだ。
「D-3から……最初の分岐を戻らない。反対。古いレールの上側。Bの標識は落ちてる。壁に青黒い印……三つ折れた線」
ドギョムの中で、一九五〇年代の坑道図面が開く。旧車両登録事務所から盗み出した図面。隅に元の製図と違う青黒いインクで追記されていた座標。閉鎖採掘場から分岐を三つ折れた奥の末端。あの印はD-3ではなく、B-4の休憩室へ向いていた。
「換気管の二つ目の曲がり」
「奥に……錆びた弁当箱。鉱夫の。蓋の内側に、JR32」
「カードは箱の中か」
「底の……二重。釘じゃない。曲げたスプーンで開く。私、戻れなかった」
そこまで言って、ジョアンは息を止める。悔しさが顔を歪める。恐怖ではない。自分がそこまでたどり着き、持ち出せなかったことへの怒りだ。
ドギョムは短く言う。
「十分だ」
「だめ。足りない。カードがなければ……五人をつなぐ鎖は切れない。フィントンだけを押さえても、手が切れるだけ。鎖は残る」
「わかっている」
「名前を……残して」
ドギョムは一瞬だけ黙る。
メイソンの報告書。消えた茶封筒。問題将校名簿に変えられた自分の名前。ブラスヒルで五桁の数字にされた者たち。名前は紙の上で殺される。だが紙の上で戻すこともできる。
彼はジョアンの脇に腕を入れ、立たせる。彼女の足は床を踏まない。踏もうとしても膝が落ちる。ドギョムは力を入れすぎないよう支え、彼女を作業場側へ運ぶ。
赤い補助灯が一秒ごとに二人の影を切る。縛られた班長の目がこちらへ向く。布の奥で何かを叫ぶ。ドギョムは視線だけを落とす。班長は黙る。何を見たかを理解したのだ。ここには証人がいる。死んだはずの記者が、まだ息をしている。
鉱車は分岐の手前に一両残っている。さっきミゲルたちを送った列とは別の、薬品箱を積むための浅い車体だ。ドギョムは空箱を二つ投げ下ろし、上着とマットレスの端を敷く。ジョアンを横たえると、彼女は痛みに体を丸める。
「カードを取ったら……私を置いていってもいい」
「置かない」
「歩けない」
「鉱車は歩かない」
ジョアンの口元が少しだけ動く。笑いにならない笑いだ。
ドギョムは鉱車のブレーキを足で確かめる。レールは二方向へ伸びている。ひとつは自分が入ってきた南換気枝道。そこはもうラウクが上で聞いている。もうひとつは古い闇へ沈む反対側。空気が少し冷たい。B-4へ向かう枝道なら、そこだ。
無線機が坑木の脇で新しい声を吐く。
「キャビネット列の端、もう一度点呼しろ。応答がなければ全部閉じろ」
続けて別の男が秒を読む。「D-3遮断まで七分。主扉、山道出口、換気枝道、順に閉鎖」
七分もない。
ドギョムは無線機を拾い、送信ボタンへ親指を置く。偽の応答を返せば十数秒は稼げる。だが声紋まで聞かれていれば終わる。沈黙のほうがまだましだ。相手は点呼を繰り返す。繰り返す間だけ、扉は完全には閉じない。
彼はジョアンの包帯をもう一度締め、鉱車の側板へ短く結びつける。転がった時に落ちないようにするためだ。彼女は痛みで息を詰めるが、声は出さない。
「B-4まで持つか」
「カードまでなら」
「そこから先も持て」
ジョアンは返事をしない。目だけが、闇の奥を見ている。彼女も知っている。カードを取っても出口は開いていない。マローンは閉じる。ラウクは上で聞く。プライスは外で別の言葉を用意する。
ドギョムは鉱車の取っ手を握る。最初に入ってきた道とは反対側の闇へ、レールが細く光っている。古い鉱山の息が、そこから冷たく流れてくる。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
78話 B-4の錆びた弁当箱
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