ドギョムは鉱車を押す。古い車輪が最初の一回だけ軋み、すぐに湿ったレールの上を低く転がり始める。ジョアンは側板に結ばれた布の中で歯を食いしばり、声を出さない。闇の向こうでは、D-3の作業場がまだ赤い補助灯に刻まれている。無線は点呼を繰り返しているが、彼は振り返らない。
最初の分岐を戻らない。ジョアンが言ったとおり、レールは少し上へ反り、坑道の空気が熱から冷えへ変わる。薬品の甘い臭いが薄れ、代わりに古い水と錆びた鉄の匂いが濃くなる。壁に残る標識は落ち、Bの字は半分しかない。だが、その横に青黒いインクで三つ折れた線があった。
『図面の隅と同じだ』
ドギョムは鉱車を止め、耳を澄ます。後ろから追ってくる足音はまだない。D-3遮断の作業が先だ。閉じる側は、開いている穴を全部同じ速度で閉じられない。閉じる順番がある。その順番の外へ出る。
「……そこ」
ジョアンがかすれた声を出す。右手は動かない。左の肘だけが、坑道の右壁を示している。
ドギョムは彼女を寝かせた鉱車を枕木のくぼみに噛ませ、勝手に動かないよう鉄のくさびを差し込む。それから安全帽の明かりを片手で外し、口にくわえた。両手を空けるためだ。光は歯の間で揺れ、壁の影が細かく震える。
閉鎖された鉱夫休憩室は、鉄扉の上半分が腐って落ちていた。中にはひっくり返ったベンチ、割れた魔法瓶、古い靴底だけが残っている。天井の換気管は低く走り、二つ目の曲がりの内側だけ、錆の色が違っていた。
ドギョムはベンチを起こし、その上に片足を乗せる。金属がきしみ、腐った板が沈む。彼は体重を散らし、片手を天井の梁へかけた。換気管の縁には新しい傷がある。爪ではない。細い工具でこじった跡だ。ジョアンはここまで来た。ここまで来て、戻れなかった。
口にくわえた明かりの下、奥に紐が見えた。黒く油を吸った布紐だ。ドギョムは指先でつまみ、ゆっくり引く。最初は動かない。錆びた金属が換気管の内側に貼りついている。力を入れすぎれば音が出る。彼は布紐を一度ゆるめ、角度を変え、管の下側を拳で短く叩いた。
乾いた錆が落ちる。次の瞬間、古い弁当箱が天井の隙間からずるりと下りてきた。
鉱夫が使っていたものだ。角はへこみ、取っ手は半分ほど曲がっている。蓋の内側には、薄い釘で削ったような文字があった。
JR32。
ドギョムは一拍だけその文字を見る。食堂の掲示板、ノートパソコンのパスワード、資料室の壁、廃棄物トラックの紐、D-3の扉。ばらばらに落ちていた略字が、ようやく一つの箱の中へ戻る。
蓋を開ける。中は空に見えた。古い油紙と、錆びたスプーンの柄だけ。ジョアンの言葉を思い出し、彼はスプーンの曲がった先を底板の端へ差し込む。釘ではない。底の一辺が浅く浮く。音を殺して持ち上げると、二重底の下に黒い薄片があった。
メモリーカード。
その横に、雨でにじんだような紙片が一枚だけ入っている。ドギョムはそれをつまむ。そこに書かれているのは説明ではない。名前でもない。
JR32
一行だけだった。
「……あった?」
休憩室の外からジョアンが問う。声は遠い。意識を手放しかけている。
ドギョムは弁当箱を閉じ、カードをシャツの内側へ滑り込ませる。認識票の横、冷えた金属と肋骨の間に、爪より少し大きい黒い薄片が収まる。メイソンの報告書の写しは奪われた。ジョアンのノートパソコンは焼け跡をくぐった。だがこれは、いま彼の胸の上にある。
「取った」
ジョアンの目が少しだけ閉じる。安心ではない。次の痛みに耐える前の、ごく短い休止だ。
その時、無線機が割れた。
今度の声は、これまでの作業員でもマローンでもない。乾いていて、紙の上に命令を書く声。カール・ラウクだった。
「分岐D-3、本館裏口を閉鎖。尾根の換気塔格子に新しい人員を二人追加しろ。外へ抜けるならそこだ。格子を外から押さえろ」
ドギョムは休憩室の入口で止まる。
初めてだ。ラウクがD-3の内部無線へ直接乗ってきた。上で聞いているだけではない。マローンの作業場を、自分の保安官事務所の地図へ組み込んだ。町の法の声と、坑道の私設暴力の声が、同じ周波数で重なった。
「了解。尾根換気塔、増員二名」
別の声が応じる。
最初に入ってきた道は死んだ。南換気枝道も、尾根の格子も、上から押さえられる。鉱車を戻しても、ジョアンを抱えて上がる時間はない。
ドギョムは頭の中で一九五〇年代の坑道図面をなぞる。B-4から山道出口へ直接の線はない。だがD-3で見たレールの下り側がある。薬品箱を外へ出すための新しい道。マローンが急いで開けた、帳簿にない出口。
危険はある。出口は見張られている可能性が高い。だが閉じられていない可能性も、そこだけは残る。薬品を動かす道は、閉じる側にとっても必要だからだ。
ドギョムは鉱車へ戻り、くさびを抜く。
「揺れる」
ジョアンは返事をしない。彼は側板の布を締め直し、弁当箱を空箱の下へ押し込む。カードは胸。紙片はカードと同じ場所。二つのJR32が、認識票の冷たい金属に重なる。
無線ではラウクがさらに命じている。
「本館裏口の車両を下げるな。D-3の主扉が閉じたら、山道側の積み出し口を確認しろ。誰も単独で入るな」
単独で入るな。つまり、まだ入っていない。
ドギョムは鉱車を押し出す。B-4の細い枝道から、古いレールは少しずつ下りへ変わる。車輪の音が早くなる前に、彼は片手でブレーキを握る。錆びたレバーは重い。ジョアンの体が一度跳ね、彼はすぐ速度を殺す。
奥から風が来る。雨の匂いだ。坑道の空気ではない。外の山肌を洗う水の匂いが、細い隙間から流れ込んでいる。
角を二つ曲がると、レールの脇に新しいタイヤ跡が現れた。湿った土の上に深く、まだ縁が崩れていない。薬品箱を載せる台車と、ゴムタイヤの輸送車がここを通ったばかりだ。壁には白いチョークで矢印が引かれ、出口の方角だけが乱暴に示されている。
ジョアンが苦しげに息を吸う。ドギョムは鉱車を止め、彼女の口元へ水筒を近づける。水はもう少ない。彼女は一滴だけ含み、飲み込むのに時間をかける。
「……カード、外へ」
「外へ出す」
「私が」
「お前も出る」
ジョアンは目を開ける。光のない瞳に、まだ疑う力が残っている。
「あなた、誰」
ドギョムは答えない。答える時間も、必要もない。名前を書けば殺される場所で、名前を名乗ることには意味がない。いま必要なのは、胸にある薄片を外へ運ぶ足と、鉱車を押す腕だけだ。
前方で、金属の扉が半分開いたまま震えている。山道出口だ。外の雨が黒い斜線になって見える。扉の向こうにはコンクリートの積み出し場と、斜面へ下る細い道がある。電灯は二つ。ひとつは切れており、もうひとつだけが水たまりを照らしている。
ドギョムは鉱車を扉の手前で止め、先に身を低くして外を見る。
見張りはいない。
その代わり、積み出し場の端に輸送トラックが一台停まっている。荷台は空で、後部扉の錠は開いたまま揺れている。運転席に人影はない。だがエンジンだけがかかっていて、低い振動が雨と一緒に足元へ伝わってくる。
誰かが、すぐ積むつもりで置いた車だ。
ドギョムは一歩外へ出る。胸の内側で、メモリーカードと認識票が小さくぶつかる。無線機からラウクの声が最後に落ちた。
「山道出口を見ろ。そこにいるなら、車ごと止めろ」
その瞬間、空のトラックのヘッドライトが、自動ではなく、誰かの手で点いた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
79話 雨の教会地下への帰還
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