ソウル中央記憶矯正庁の朝は、消毒液の匂いと低い冷却音で始まる。地上の窓には薄い五月の光が差しているはずだが、地下執行区画まで届くのは、青白い照明と認証ゲートの電子音だけだ。
白道允(ペク・ドユン)は虹彩認証に顔を近づける。ゲートの内側で赤い点が走り、続けて右手首の生体署名が読み取られる。
『執行官、白道允。第三区画入室承認』
無機質な案内音が響く。道允は短く息を吐き、首から下げた身分証を胸ポケットへ戻す。今日も同じ手順だ。コーヒーの苦味がまだ舌に残っているうちに、誰かの記憶を別の誰かの脳へ移す一日が始まる。
この国では、記憶は資格であり、刑罰であり、時には免罪符でもある。外科医は名医の手術記憶を受け取り、初めて認定医としてメスを握る。旅客機の操縦士は、墜落事故から生還した者の恐怖記憶を植えつけられ、緊急時に震えない神経を作る。警察官、救急隊員、原子力技師。危険と判断が求められる職業ほど、他人の経験が脳の奥へ組み込まれている。
犯罪者も例外ではない。殴った者には殴られた痛みを、奪った者には奪われた恐怖を、殺した者には失われる側の最後の感覚を。記憶矯正刑は、死刑より文明的で、禁錮より実効性があると説明される。人は自分が与えた苦痛を知れば変わる。社会はそう信じることを選んだ。
道允も、その信念の中で働いている。
「白執行官、第七執行室、準備完了です」
廊下の端で補助技師が端末を抱えて頭を下げる。道允は頷き、透明な観察窓の前へ立つ。室内には一人の男が座っている。二十代後半、凶器傷害の再犯者。酒場の口論で相手の腹を割き、被害者は一命を取り留めたが、十二センチの傷と夜ごとの幻痛を抱えている。
男の手首と足首は記憶椅子に固定され、額には感覚皮質接続用の細い針が並んでいる。汗がこめかみを伝い、顎の先で震えていた。
「対象者、朴俊基(パク・ジュンギ)。本人確認」
道允がマイクに向かって言うと、男は乾いた唇を動かす。
「……朴俊基」
「裁判所命令第SCMC二七一一号に基づき、被害者感覚記憶の注入と再犯反応検査を実施する。拒否権はない。異議申し立ては執行後に代理人を通じて行える」
「やめてくれよ。俺、もう二度とやらないって言っただろ」
声は震えている。けれど道允は表情を変えない。何度も聞いた言葉だ。執行前の後悔は、恐怖とほとんど区別がつかない。
「開始」
補助技師が注入率を上げる。モニターの上で青い線が伸び、被害者の記憶束が対象者の感覚皮質へ入っていく。最初に再生されるのは視覚ではなく、圧迫感だ。腹部の皮膚が裂ける直前の、鋭く冷たい予感。次に金属が肉へ滑り込む感覚。呼吸が止まり、体温が急速に抜けていく恐怖。
椅子の男が、喉の奥から濁った声を漏らす。
「あ、ああ……っ、違う、こんな、こんなじゃ……」
彼の背中が弓なりに反る。拘束具がきしみ、爪が肘掛けを引っかく。嘔吐受けが自動で口元へせり上がるより早く、男は胃液を吐き出した。酸っぱい音が執行室の床に響く。
道允は視線を数値から離さない。心拍上昇、発汗、痛覚同期率、攻撃衝動抑制値。すべて許容範囲内だ。注入されているのは、復讐ではない。制度上は、あくまで矯正だ。
「対象者、質問に答えろ。あなたの前に同じ被害者が立ち、刃物が手の届く位置にある。使用するか」
「し、しない……しない、しないから止めろ!」
「理由は」
「痛いんだよ! 腹が、腹が裂けて……息が、できない……」
「それはあなたの痛みではない」
道允は淡々と告げる。
「あなたが相手に与えた痛みだ」
男は嘔吐受けに顔を埋めたまま泣き崩れる。検査用の仮想刺激が走り、画面の中で刃物の映像がちらつく。対象者の運動野は反応しない。攻撃衝動値は基準以下。再犯反応検査、一次通過。
補助技師が安堵したように息を吐く。道允は終了承認に指を置き、生体署名を送る。
『矯正執行、完了』
記録が封印される。男はまだ吐き気に喉を鳴らしながら、何かに許しを乞うように床を見つめている。道允は観察窓に映った自分の顔を見る。疲れてはいるが、揺らいではいない。そう見える。
人間は変わる。少なくとも、変わる可能性はある。
道允がそれを信じる理由は、法律の教科書や政府広報ではない。父、白昌浩(ペク・チャンホ)だ。
かつての父は、酒の匂いと怒鳴り声で家の空気を満たす男だった。皿が割れる音、母が息を潜める沈黙、幼い自分が寝室の扉の隙間から見ていた大きな背中。道允の記憶に残る父は、拳を握っている姿のほうが多い。
その父が、記憶矯正を受けて変わった。
暴力前科者の再社会化プログラム。白昌浩には、長年穏やかに家族を支えてきた匿名提供者の平穏な生活記憶が移植された、と道允は聞かされている。朝、何も壊さずに茶を淹れる手つき。怒りが湧いたとき、席を立って十秒待つ感覚。人を傷つけずに一日を終える安堵。父はそれを受け取ってから酒を断ち、母へ手を上げなくなった。
今の白昌浩は、道允の誕生日に不器用なメッセージを送り、矯正記念日には毎年同じ食堂を予約する男になっている。謝罪は多くない。過去が消えたわけでもない。それでも、暴力が止まった事実だけは残っている。
だから道允は、この制度を完全だとは思わなくても、必要だと信じている。記憶は人を縛る。ならば、正しく移せば、人を救うこともできるはずだ。
執行記録の最終確認を終えると、午後は淡々と流れる。軽度窃盗犯への被害不安記憶の短期注入、交通致死事件の遺族記憶閲覧申請の差し戻し、資格更新用の医療記憶パケットの監査。画面の上では、他人の恐怖と技術と後悔が、番号を与えられて整列している。
夕方になるころ、道允のこめかみには鈍い痛みが残っている。感覚記憶に直接触れる仕事は、執行官にもわずかな残響を残す。今日の男が感じた腹部の冷たさが、自分のものではないとわかっていても、時折、内臓の奥を細い刃でなぞられるような感覚がよみがえる。
「白執行官、退勤ですか」
同僚の一人が端末を閉じながら声をかける。
「記録封印だけしてから帰る」
「今日の七番、ひどかったですね。ああいうのを見ると、矯正刑で済ませるのが甘いって世論もわかる気がします」
道允は一拍置いて答える。
「苦しませるための制度じゃない。変化を確認するための制度だ」
同僚は肩をすくめる。
「白執行官らしいですね」
軽い言い方だった。道允はそれ以上返さず、席へ戻る。信念を語るのは簡単ではない。信念はいつも、誰かの痛みの上に置かれるからだ。
記録封印が終わり、道允が端末を落とそうとしたとき、執行官フロアの空気がわずかに変わる。雑談が止まり、椅子の軋む音だけが残る。自動扉が開き、黒いスーツ姿の男が入ってくる。
韓泰錫(ハン・テソク)次長だった。
本庁の上層階にいるはずの人物が、地下執行区画まで降りてくることはほとんどない。韓は背が高く、動作に無駄がない。感情を表に出さない顔立ちのせいで、近づくだけで室温が数度下がったように感じられる。
「白道允執行官」
道允は立ち上がる。
「はい」
韓は薄いファイルケースを差し出す。紙の資料など、いまどき緊急時か機密案件でしか使われない。道允が受け取ると、ケースの表面に埋め込まれた封印チップが彼の生体署名を読み取り、赤い線を一度だけ走らせる。
「明日未明、特殊執行が入る」
「私の担当ですか」
「そうだ」
道允はケースの題名を見る。そこに記された名前を見た瞬間、周囲の音が遠くなる。
姜武鎮(カン・ムジン)。
全国報道が連日取り上げた児童誘拐事件の犯人。七歳の李志厚(イ・ジフ)を連れ去り、四日後に遺体で発見させた男。裁判では死刑を求める署名が数百万件集まり、記憶矯正刑が選ばれたこと自体に激しい抗議が起きた。世論はまだ収まっていない。
「姜武鎮の執行日は、来週のはずです」
「繰り上げられた」
韓の声に揺れはない。
「裁判所、法務部、庁長官の三者承認済みだ。明日午前五時、地下特殊執行室。被害児童の恐怖記憶束を使用する」
「準備時間が短すぎます。児童被害記憶は分離層が不安定です。原本確認と汚染検査だけでも——」
「必要な検査は済んでいる」
韓は道允の言葉を途中で切る。
「君は執行官だ。判断者ではない」
フロアの誰も口を挟まない。道允はファイルを握る指に力が入るのを感じる。規則上、次長の命令は正しい。だが、あまりにも急だ。世論への見せしめとして、手続きが押し流されているように見える。
「なぜ私ですか」
道允は低く問う。
韓の視線が、そこで初めて道允の目に留まる。冷たい、測定するような目だ。対象者を見る医師の目でも、部下を見る上司の目でもない。もっと古い何かを確認するような、不自然に静かな視線だった。
「君が適任だからだ」
それだけ言って、韓は背を向ける。扉へ歩き出す直前、彼は足を止めずに付け加える。
「白執行官。明日は、手順を信じろ。記憶は嘘をつかない」
自動扉が閉まり、フロアに息を吹き返したようなざわめきが戻る。けれど道允の耳には届かない。手の中のファイルだけが、妙に重い。封印チップの赤い残光が消える寸前、表紙の隅に小さな注記が浮かぶ。
『執行日程変更理由、非公開』
道允はその一行を見つめる。明日未明、国中が見たがっている男の脳へ、死んだ子どもの最後の恐怖を流し込む。いつもと同じ職務のはずなのに、胸の奥に冷たい異物が沈む。
韓泰錫が去り際に向けた視線が、まだ皮膚の上に残っている。
そして道允は、ファイルの最下段にもう一つの封印欄があることに気づく。担当執行官にも開示されない黒塗りの項目。その見出しだけが、薄く読めた。
『第三者感覚情報、処理済み』
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
2話 黒い三秒と四時間の空白
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