韓泰錫は、扉の隙間を広げずに立っている。
廊下の白い光が背後から差し、顔の輪郭だけを薄く縁取る。韓泰錫の視線は道允の顔ではなく、作業台の上の古い検査端末と、その横に置かれた小さな黒い部品へ落ちている。
「白執行官。二度は言わない。コアを渡したまえ」
道允は動かない。喉の奥が乾き、指先にはまだ焼けたコアの熱が残っている。画面には『DY-10』の破損識別列が消えかけていた。韓泰錫が一歩入れば、すべて見られる。
「事故検証用の廃棄部品です」
「その判断をするのは君ではない」
韓泰錫の後ろから、監査服の男が二人顔を出す。女監査官もいる。保安調査室から機材室まで来たということは、道允の待機位置不明はすでに正式な逸脱として記録されている。
逃げ道はない。
道允は検査端末のケーブルを抜くふりをして、親指でバックアップコアの外装ロックを押す。古い規格だから、外側の熱遮断パックと内側の記憶素子は別々に外れる。訓練では故障原因の確認にしか使わない手順だ。だが今は、その一秒が生死を分ける。
かすかな爪の音。
内側の薄い素子が掌に落ちる。道允はそれを手袋の縁へ滑らせ、足元の廃材箱から拾っておいた矯正チップの透明ケースへ落とした。廃棄ラベルには『旧式順応補助、破砕済み』と印刷されている。外から見れば、ただのゴミだ。
「早く」
韓泰錫の声が低くなる。
道允は空になった外装パックだけをつまみ上げる。手首は震えない。震えれば、気づかれる。
「破損率が高い。復旧できる保証はありません」
「保証の話をしていない」
韓泰錫が手袋をした手を差し出す。道允は空の外装パックをその掌に乗せる。軽すぎる。それを彼がどう感じるか、道允にはわからない。
韓泰錫は一瞬、眉を動かす。
そのとき廊下で金属音が鳴った。清掃カートの車輪が段差に引っかかった音だ。続けて、世羅の少し上ずった声が響く。
「すみません、そこ通ります。封印中の廃棄物、回収時間を過ぎてます」
道允は視線だけを扉の隙間へ向ける。低く束ねた髪と、肩に引っ掛けた薄い白衣が見えた。世羅は清掃員の後ろに立ち、端末画面を見せながら監査官に何か説明している。目は一度も道允を見ない。
清掃カートの下段に、廃矯正チップの透明ケースが滑り込む。
道允は自分がいつケースを床へ落としたのか、意識の半分しか覚えていない。検査端末の電源を落とす動作に紛れ、足先でそれを作業台の陰へ押しやったのだ。扉の近くまで転がしたところで、ちょうど清掃カートが止まった。世羅は監視レンズの角度と、監査官の視線が重ならない数秒だけを選んだのだ。
「閔分析官」
女監査官の声が冷たくなる。
「あなたの業務は分析席の保全確認のはずです」
「はい。だから廃棄物の混入があれば、保全形式に異議が出ると言っているんです。破砕済みチップと事故部品が同じ部屋にあるなら、封印番号を分けるべきです」
世羅の声は震えているようで、言葉の芯は硬い。韓泰錫は彼女を見ない。空の外装パックを透明袋に入れ、封印番号を登録する。
「白道允」
今度は役職を付けない。
「君の端末、執行椅子、事故関連装備へのすべての接続権限を、今この場で回収する」
韓泰錫が自分の端末に指を置く。道允の胸元の身分証が短く震えた。画面が勝手に開き、権限一覧が赤へ変わっていく。
『執行卓操作権限、取消』
『特殊執行椅子保守閲覧、取消』
『事故検証用一時キャッシュ参照、取消』
『内部端末利用、監査承認制へ移行』
消えていく文字を見ても、道允は息を乱さない。コアの内側は、今は清掃カートの下にある。まだ完全に奪われてはいない。
「保安調査に協力します」
「協力ではない。待機命令だ」
韓泰錫は廊下へ顎を向ける。
「懲戒待機室へ」
待機室は地下執行区画の端にあった。名目上は聴取前の保護空間だが、内側からは開かない。壁は白く、椅子は床に固定され、机の上には監視端末も筆記具もない。小さな換気孔だけが低い音を吐いている。
道允はそこへ入れられる前、廊下の端を一度だけ見る。清掃カートは角を曲がるところだった。世羅は監査官に何か言い返しながら、その後ろを歩いている。彼女の手は空だ。ケースが無事かどうか、確かめる術はない。
扉が閉じる。
ロック音が一つ、二つ、三つ。
『白道允職員。保安調査待機状態』
『外部通信、停止』
『内部アカウント、凍結』
『聴取予定、未定』
壁面の細い表示だけが、機械的に状況を告げる。道允は固定椅子へ座る。腰を下ろした瞬間、疲労が全身に落ちた。だが目を閉じれば倉庫が開く。湿った床、片方の靴、十歳の自分、背後にいるはずの黒い欠損。『もう一体は残す』という声。
彼は眠らないことを選ぶ。
夜は長い。待機室に時計はないが、換気音の周期と照明の減光で時間を数える。何度か扉の外を足音が通る。誰も止まらない。食事パックが下部スリットから差し込まれるが、道允は開けない。匂いで吐き気がする。
一度だけ、壁面表示に世羅の名前が浮かんだ。
『閔世羅分析官、保安面談中』
すぐ消える。道允は立ち上がりかけ、座り直す。今動けば、彼女が逃がしたものまで巻き込まれる。怒りより先に、無力感が胃を締めつけた。
明け方、待機室の照明が通常輝度へ戻る。
壁面表示が勝手にニュース画面へ切り替わった。庁内職員向けの公共速報だ。音声は低く抑えられているが、アナウンサーの声だけは妙にはっきり聞こえる。
『昨夜、李志厚君誘拐殺害事件の被告人、姜武鎮受刑者が、ソウル中央刑務所の独房内で死亡しているのが発見されました』
道允の息が止まる。
画面には、報道用に何度も使われた姜武鎮の顔写真が映る。くぼんだ頬、焦点の合わない目。次に、刑務所の廊下らしい映像と、白い布で覆われた担架が短く流れた。
『刑務当局によりますと、死亡推定時刻は午前三時十四分から十七分。現場状況から自殺とみられ、詳細な調査が進められています』
午前三時十四分から十七分。
道允はその数字を頭の中で反芻する。昨夜、地下三階の移送通路で黒い車両を見た時間。監視カメラが停電扱いにされた時間。姜武鎮を乗せたカプセルが閉じ、民間神経処理研究所の男たちが搬出した時間と、寸分違わない。
同時に死んだことになっている。
いや、死なせたのではない。
死んだことにした。
画面の下に、現場独房番号が表示される。
『中央刑務所 第七隔離棟 713号独房』
道允は椅子の背から身体を離す。第七隔離棟。ありえない。中央刑務所の隔離棟は六つまでしかない。執行官は矯正対象者の移送照会で刑務所構造図を何度も確認する。七番は予約領域で、実施設備には割り当てられていない。しかも713号という番号体系は、旧改修前の図面にも存在しない。
映像も書類も用意されている。死亡推定時刻も、独房番号も、報道文も。すべて本物らしい顔をしているのに、中心だけが空洞だった。
姜武鎮は、もう証言できない者にされた。
『子どもが……もう一人、いた』
あの濁った声が、待機室の白い壁に跳ね返る。道允は拳を握る。十歳の自分の背後にいた誰かも、姜武鎮と同じように書類の外へ消されたのか。存在しない独房、存在しない移送、存在しない子ども。制度は人間を殺す前に、記録から殺す。
胸の底から熱いものが上がる。絶望ではない。怒りだ。だが怒鳴る相手はいない。監視カメラの前で崩れれば、韓泰錫の望む映像になるだけだ。
道允はゆっくり呼吸を整える。怒りを顔から消し、目だけに残す。
その瞬間、壁面表示の右下に小さな通知が生まれた。
凍結されたはずの内部アカウントだった。外部通信は停止、内部アカウントは凍結と表示されたままなのに、その下へ黒い封筒のアイコンが無音で滑り込んでくる。
送信者名はない。
ただ一行、暗号化されたファイル名だけが浮かぶ。
『MUJIN_DEATH_DRAFT_03-11.enc』
道允の手が、初めて震えた。姜武鎮の死が報じられた朝、存在しない独房番号の下へ、死亡発表文の草案らしきファイルが届いている。
しかも受信時刻は、ニュース速報の二分前だった。
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
12話 海凛が告げた容器適合試験
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