黒い封筒の通知は、壁面表示の右下で点滅もせずに止まっている。
道允はすぐには触れない。待機室の天井隅には監視カメラが一台ある。固定椅子、机、扉、下部スリットまで映る角度だ。だが壁面表示の真下、換気孔の影が落ちる狭い幅だけは、旧式レンズの歪みで死角になる。保安訓練で覚えた盲点だった。
彼は食事パックを床に落とし、拾うふりをして椅子からずれる。膝をついたまま壁に肩を寄せ、指先だけを伸ばして通知を開いた。
『MUJIN_DEATH_DRAFT_03-11.enc』
『一回閲覧。複製不可。閲覧後、自己消去』
要求された認証は生体署名ではなく、記憶矯正庁の標準的な内部パスワードでもなかった。画面の形式は、裁判所記録保存網の臨時保全キー入力欄だ。道允が試しに自分の職員番号を入力すると、拒否される代わりに短い解錠音が鳴った。
ファイルが開く。
最初に表示されたのは、姜武鎮自殺発表文の草案だった。報道で流れた文面とほぼ同じだ。被告人、独房内、自殺と推定、詳細調査中。違うのは、作成時刻だった。
『作成、午前零時十二分』
道允の指が止まる。死亡推定時刻は午前三時十四分から十七分。つまりこの草案は、姜武鎮が死んだとされる三時間前に作成されている。存在しない第七隔離棟713号独房まで、すでに本文へ埋め込まれていた。
次のページには、内部分類票が付いている。
『対象、白道允』
『分類、制限証人』
『証言能力評価、起動済み』
『法廷証言化予測、無効化優先』
『理由、未承認感覚同期への当事者性および記憶汚染疑い』
胸の奥が冷えた。地下移送通路で端末に出た赤い通知は、ただの警告ではなかった。最初から法的に口を塞ぐための分類だった。道允が何を見ても、何を話しても、記憶汚染者の証言として捨てられる。手続きはすでに走っている。
最後のページに、送信者名が現れた。
『尹海凛(ユン・ヘリン)』
『記憶復元専門弁護士』
『白道允執行官へ。あなたの証言能力が法的に凍結される前に会う必要があります。庁内で開けば、あなたは消されます。まだ証拠を持っているなら、持って来てください』
『指定場所、ソウル家庭裁判所記録保存棟。民事記憶保全受付、地下連絡口』
『期限、本日十時四十分』
表示の下に、もう一行だけ残っていた。
『あなたの生体署名が盗用された時刻も、こちらで確認済みです』
自己消去が始まる。画面の文字は上から灰になり、三秒後には黒い封筒ごと消えた。壁面表示にはまた庁内速報だけが戻る。姜武鎮の顔写真が、何事もなかったように薄い光を放っていた。
扉の外でロックが鳴る。道允は椅子へ戻り、食事パックを机に置く。包装の角を折った瞬間、扉が開いた。女監査官ではない。入ってきたのは世羅だった。薄い白衣を肩に掛けているが、顔色は悪い。後ろには監査服の男が一人立っている。
「白執行官、臨時面談です。分析席の保全異議について、確認署名が必要です」
世羅は事務的に言い、机に透明な署名板を置く。監査服の男は扉口から動かない。道允は板面を見る。署名欄の端に、標準フォントではない小さな点が三つ並んでいる。世羅の合図だった。
彼がペンを取ると、世羅は声を落とさないまま続けた。
「廃棄物封印番号と事故部品封印番号の分離確認です。内容を読んで署名してください」
道允が署名欄へ手を下ろした瞬間、世羅の指が机の裏を軽く叩いた。透明板の下から、薄いチップケースが滑ってくる。廃矯正チップの破砕ケース。中に、黒い内側素子がまだ入っている。
道允は視線を動かさず、署名板を持ち上げる動作に紛れ、ケースを袖口へ落とした。
「罠かもしれません」
世羅の唇はほとんど動かない。監査服の男には聞こえない高さだ。
「何がです」
「今朝、凍結アカウントに何か届いたでしょう。保安面談中、あなたの待機室だけ、外部遮断ログが一瞬飛んだ。誘い出すためにわざと通した可能性があります」
「送信者は」
「そこまでは見えません。でも、裁判所系の迂回署名です。庁内の罠にしては、経路がきれいすぎる。だから余計に怖いんです」
道允は署名を終え、板を押し返す。
「世羅さんは、これ以上関わらないほうがいい」
「もう遅いです」
短い返事だった。世羅は透明板を回収しながら、わずかに首を振る。
「行くなら、庁の正面を使わないでください。懲戒待機者移送用の地下搬出口が十時に開きます。封印廃棄物の再登録をかけてあります。白執行官は、その廃棄物扱いで外に出られる」
「あなたのログが残る」
「私のログはもう汚れています。今さらです」
道允は初めて彼女を見る。低く束ねた髪の横で、こめかみが薄く汗ばんでいる。保安面談で何を聞かれたのか、何を誓わされたのか、尋ねても答えない顔だった。
「なぜそこまで」
世羅は一瞬だけ、扉口の監査服へ視線を投げる。それから、いつもの冗談めいた声音を薄く貼りつけた。
「分析官ですから。おかしなデータを、おかしいと言わないと気持ち悪いんです」
だがその目だけは、冷えていた。
「白執行官。生きて戻るつもりがないなら、行かないでください。証拠だけ持って誰かに渡す、という考えも捨ててください。あなたの証言能力そのものを潰しに来ているなら、あなたが何をどう見たかまで含めて保全しないと、全部ただの汚染片になります」
道允は袖口のケースを掌で押さえる。倉庫。片方の靴。DY-10。もう一体は残す、という声。姜武鎮が最後に残した、もう一人の子ども。
「戻ります」
短い言葉だった。世羅は何か言いかけ、結局うなずくだけにした。
十時ちょうど、待機室の扉が再び開いた。今度は廃棄物再登録のための移動指示だった。世羅の仕込んだ手続きは細い糸のように危うかったが、監査官たちは封印番号の整合に気を取られている。道允は灰色の作業用上着を着せられ、二つの廃棄コンテナの間に立つ。搬出口の監視カメラは、荷物タグだけを読み取る設定になっていた。
地下搬出口の外へ出た瞬間、五月の空気が肺に刺さるほど冷たく感じた。
彼は振り返らない。執行官の身分証は赤く凍結され、袖の内側には違法に持ち出した証拠がある。職務に戻る道ではない。制度の内側へ戻る道でもない。
ソウル家庭裁判所までは、地下鉄を使えば二十分ほどだった。道允は駅の改札で職員認証を使わず、一般交通カードを買う。車内の窓には疲れた会社員、眠る学生、保育園の名札をつけた子どもが映っている。誰も、記憶がどこから来てどこへ運ばれるのかを知らない顔をしている。
裁判所記録保存棟は、本庁舎の派手なガラス棟から少し離れた古い低層建物だった。入口の上には小さな文字で『家事・未成年記憶記録保存』と刻まれている。家庭裁判所らしい穏やかな名前の下で、未成年被害者の記憶束、親権審査用の感情記録、保護処分の神経鑑定が保管されている。
道允が地下連絡口へ回ると、保安検査台の向こうに一人の女が立っていた。
細身の黒いスーツに、灰色のコート。長い髪を無造作に束ね、手には紙のファイルを抱えている。顔立ちは整っているが、柔らかさより先に、眠らずに戦ってきた人間の硬さが目につく。彼女は道允を見つけると、名乗る前に保安官へ身分証を示した。
「尹海凛です。臨時接見申請、九時五十六分受理。依頼予定者、白道允。記録保全前面談として通してください」
保安官は道允の凍結身分証を読み取り、眉をひそめる。
「記憶矯正庁の内部制限が出ています」
海凛は紙のファイルを一枚抜く。
「だから裁判所で会うんです。庁の内部制限は、弁護人予定者との初回接触を妨げる根拠になりません。拒否するなら、今ここで拒否理由を書面化してください」
声は低く、速くない。だが一語ごとに逃げ道を塞いでいる。保安官は端末を確認し、やがて道允へ入場札を差し出した。
検査台を越えると、海凛は道允の袖口へ一瞬だけ視線を落とす。
「持って来ましたね」
道允は答えない。
「答えなくていいです。ここから先は録音禁止ですが、保安映像は残ります。表情を変えないでください」
「あなたは、どこまで知っているんです」
海凛は歩き出す。地下閲覧室へ続く廊下は狭く、蛍光灯が低く鳴っている。
「姜武鎮の死亡発表草案が、死亡推定時刻の三時間前に作成されたこと。第七隔離棟713号が存在しないこと。あなたが地下移送通路で制限証人に分類され、その直後に証言能力評価が起動したこと」
道允は足を止めかける。海凛は振り返らない。
「それと、あなたの生体署名が盗用された時刻。特殊矯正刑の自動補正が走った午前五時十二分四十秒です。署名の照合値は九十九・九九一。本人がその場で承認したなら、そんな値にはなりません」
「完全一致ではない、ということですか」
「ええ。古い登録波形を使っています。おそらく十年前以前のものを」
十年前。
DY-10の文字が、胸の内側で冷たく点く。
地下閲覧室は小さかった。中央に机が一つ、壁際に裁判所鑑定サーバーの隔離端末が三台。窓はない。扉が閉まると、外の足音が遠ざかった。海凛は机の上へ紙ファイルを置き、道允へ向かい合って座る。
道允は袖口から透明ケースを出す。机に置くと、小さな音が凍った空気を割った。
海凛の目が細くなる。欲しがる顔ではない。怖れていたものが本当に来た、という顔だった。
「まず確認します。これは第五特殊執行室の椅子から抜いた一時キャッシュですね」
「答える前に、あなたの目的を聞きたい」
「姜武鎮の無罪を証明することでは足りません」
海凛は即答する。
「その背後にある記憶矯正庁の実験を止めることです。私は十年、それだけを追っています」
道允は彼女の目を見る。十年という言葉だけが、説明ではなく傷のように響いた。
「姜武鎮は誘拐犯ではないと?」
「少なくとも、あなたたちが執行した姜武鎮の記憶反応は、本人の犯罪記憶としては不自然すぎます」
海凛はファイルを開く。そこには脳波図、裁判所の照会票、黒塗りの多い診療記録が重なっていた。
「白道允さん」
初めて、彼女は名前を丁寧に呼ぶ。
「姜武鎮は最初から誘拐犯ではなく、他人の記憶を入れるために設計された容器だった可能性が高い」
道允の呼吸が一瞬止まる。
海凛はさらに一枚、写真を机に滑らせた。そこには姜武鎮とは別の受刑者たちの識別番号が並び、その横に同じ灰色のタグが付いていた。
『容器適合試験』
海凛が低く続ける。
「そして問題は、容器が一つで終わっていないことです。次に分類されている候補者欄に、あなたのコードがあります」
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
13話 容器適合試験の警告
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