黒塗りの見出しを見たまま、道允はしばらく動けないでいる。
『第三者感覚情報、処理済み』
担当執行官にも開示されない欄が、なぜ表紙にだけ残っているのか。通常なら存在そのものが消される。見出しだけ見せて中身を伏せるのは、上からの牽制か、あるいは単なる手続きの粗さか。どちらにしても、明日午前五時の執行に持ち込むには危うすぎる。
フロアの照明は退勤モードへ落ち、端末の列だけが青白く残っている。同僚たちは一人、また一人と席を立っていく。道允はファイルケースを胸に抱え、第七執行室の奥にある特殊執行準備室へ入る。ここは児童被害、連続殺人、政治性の強い事件など、公開圧力の高い執行を扱う部屋だ。壁の防音材は厚く、空調の音まで押し殺されている。
机の中央にファイルを置くと、封印チップが再び彼の生体署名を読む。
『限定閲覧、開始。閲覧者、白道允執行官』
画面に姜武鎮の顔写真が浮かぶ。無精髭、くぼんだ頬、焦点の合わない目。報道で何度も見た顔だ。次に被害児童、李志厚の写真が出る。七歳。前歯が少し欠けた笑顔。学校の名札をつけ、両手で黄色い傘を握っている。
道允は写真を長く見ないようにして、捜査記録へ移る。誘拐場所は恩平区の住宅街裏路地。監視カメラには、黒いワゴン車へ連れ込まれる直前の志厚が映っている。時刻は午後五時十二分。遺体発見場所は郊外の廃材置き場。法医学の死亡推定時刻は午後九時三十分から十時のあいだ。
画面上の時系列を引くと、そこに四時間ほどの空白が生まれる。
「……移動経路がない」
道允は思わず声に出す。ワゴン車の追跡記録は、市内を出る前に途切れている。燃料購入履歴も、高速道路通行記録もない。姜武鎮の端末位置情報は、事件当日の午後六時以降、なぜか基地局同期が欠落している。供述では「車内で殺害し、廃材置き場へ捨てた」とあるが、記憶束の初期解析には車内殺害の感覚反応がない。
ファイルを送ってきた韓泰錫は、必要な検査は済んでいると言った。だが済んでいるなら、この空白に説明が付いていなければならない。
道允は裁判所命令書を開く。姜武鎮に対し、被害児童の最終恐怖記憶束を用いた特殊矯正刑を執行する。死刑ではなく矯正刑。世論が最も怒っている部分だ。命令書の末尾には、法務部長官、裁判所特別部、記憶矯正庁長官の電子署名が並んでいる。どれも正規のものだ。正規だからこそ、胸の奥が重くなる。
背後の扉が短く鳴る。道允が振り返ると、閔世羅(ミン・セラ)が紙コップを二つ持って立っている。分析官用の薄い白衣を肩に引っ掛け、髪を低く束ねたまま、周囲を気にするように室内へ入ってくる。
「まだ見てるんですか」
「明日未明の執行だ。見ないほうがおかしい」
世羅は机の端にコーヒーを置き、声を落とす。
「上は見せたいんですよ。姜武鎮が苦しむところを。死刑にすれば一瞬で終わる。でも矯正刑なら、被害者の記憶で泣き叫ぶ映像を、更生手続きとして公表できる」
「執行映像は非公開だ」
「原則は、です。反応値と更生判定だけでも世論には十分です。『国家は甘くない』って言えるから」
道允は返事をしない。世羅はさらに身を寄せる。
「それに、午前五時への繰り上げも変です。報道局の朝ニュースに間に合う時間です。庁長官の会見も七時に押さえてあります」
「誰から聞いた」
「分析課にも口の軽い人はいます」
世羅は冗談めかして言うが、目は笑っていない。
「白執行官、今回は手順より政治が先に立ってます。だから、変なものを見つけても、すぐ上に投げないでください。投げた瞬間、なかったことにされます」
「なら、どうしろと」
「少なくとも、自分の目で見てからにしてください」
それだけ言うと、世羅は空の紙コップを握り潰し、すぐに扉へ戻る。廊下へ出る直前、彼女はもう一度だけ振り返る。
「姜武鎮が怪物なのは疑ってません。でも、怪物を処理する手続きまで怪物になる必要はないでしょう」
扉が閉まる。道允は置かれたコーヒーに触れない。冷めていく黒い液面を見ながら、韓の言葉を思い出す。記憶は嘘をつかない。だが、記憶を扱う人間は嘘をつく。制度はその違いを、いつも曖昧にする。
道允は捜査記録を最初から読み返す。目撃者の供述。黒いワゴン車のナンバーの一部。姜武鎮の部屋から見つかった子ども用の靴。廃材置き場に残された血痕。どれも有罪を支えるには十分に見える。だが四時間の空白は消えない。むしろ読み返すほど、そこだけが白く浮き上がる。
次に現場写真を開く。路地の防犯灯は故障している。壁には雨の跡。ワゴン車の停車位置からは、カメラの死角へわずかに入り込める。廃材置き場の写真には、ブルーシート、錆びた鉄骨、乾いた血の黒い染み。志厚の靴は片方だけ発見されている。もう片方は記録上、未発見のままだ。
報道では両方の靴が犯人の部屋から見つかったはずだった。彼は別添の押収品目録を開く。そこには「黄色い運動靴、右」とだけ書かれている。もう片方については、捜査員の手書きメモに短い補足がある。
『記憶束内に視認あり。現物未確認』
現物ではなく、記憶の中に映っていたから証拠として補った。違法ではない。記憶証拠は裁判所が認めている。けれど道允は、そこに小さな棘を感じる。記憶に映ったものを現実の欠落へ当てはめるとき、誰が境界線を引くのか。
彼は被害記憶束の閲覧画面を開く。児童被害記憶は、執行官保護のため視覚と痛覚を大幅に抑制したプレビューでしか確認できない。それでも接続の前には必ず目を通す。対象者へ流すものを、自分が理解していないまま扱うことはできない。
再生が始まる。
視界は低い。アスファルトのひび、濡れた落ち葉、黄色い傘の端。誰かの足音が近づく。背後から腕が伸びる。口元を布で押さえられる。薬品の匂い。息が詰まり、世界が傾く。黒い車内。狭い床。靴の片方が脱げる。小さな手がそれを掴もうとして届かない。
道允は再生を止め、数値を見る。恐怖反応は本物だ。心拍、瞳孔、筋硬直、呼吸乱れ。どれも偽造の典型パターンではない。李志厚は確かにこの恐怖を経験している。
問題は、その先だ。
車内の記憶は七分ほどで途切れ、次の有効記録は廃材置き場の冷えた地面から始まる。その間が空白になっている。薬物による意識喪失なら理解できる。だが脳波ログには、完全な意識断絶ではなく、断続的な感覚反応の痕跡が残っている。どこかで、何かを見ている。聞いている。恐れている。なのに記憶束からは抜け落ちている。
道允は二度目の再生を行う。次に三度目。捜査記録、裁判所命令、現場写真、記憶束。順番を変え、時刻を重ね、供述と照合する。時計は午前零時を過ぎ、特殊執行準備室の外から人の気配が消える。遠くで冷却装置が周期的に唸るだけだ。
三度目の確認を終えたころ、道允の目は乾き、首筋に硬い疲れが沈んでいる。結論は変わらない。明日午前五時の執行は、法的には可能だ。手続きも表向きは整っている。だが、四時間の空白と第三者感覚情報の黒塗りは、執行官として見過ごしていいものではない。
彼は最終閲覧記録に署名しかけ、指を止める。
世羅の声が頭の奥で繰り返される。手順より政治が先に立っている。変なものを見つけても、すぐ上に投げないでください。
道允は署名を中断し、記憶束の末尾へもう一度だけカーソルを移す。プレビュー再生の終了点。廃材置き場で呼吸が細くなり、視界が暗く落ちていく直前。そこには何もないはずだった。死亡直前の恐怖が閉じ、執行用に封印された感覚記録が終わるだけだ。
画面右下の再生バーが最終フレームに触れた瞬間、端末が勝手に短い電子音を鳴らす。
『未分類補助層を検出。自動再生』
「何だ」
道允が停止キーへ指を伸ばすより早く、画面が完全な黒に変わる。
映像はない。ノイズも、光点も、輪郭もない。ただ三秒間、黒い画面だけが続く。視覚情報はゼロ。字幕も警告もない。再生ログには、出所不明、分類不能、長さ三・〇二秒とだけ表示されている。
それでも道允の心臓が、理由もなく大きく沈む。
暗闇の中で何かを見たわけではない。何かを聞いたわけでもない。だが身体だけが先に反応している。喉が詰まり、指先が冷える。忘れていた場所の扉に、内側から爪を立てられたような感覚が走る。
三秒が終わる。画面は何事もなかったように記憶束の終了表示へ戻る。
道允は停止キーの上に指を置いたまま、動けない。再生ログの片隅で、黒い補助層に新しい識別子が自動付与されていく。その末尾に、担当執行官には見えないはずの灰色の注記が一瞬だけ浮かぶ。
『第三者感覚情報、未処理』
罪を消す国は、妹の記憶でできていた
3話 第三視野混入の赤い警告
次の話