呼ばれた瞬間、ミンジェはヘッドホンを外した。耳の奥に残った「ミン、ジェ」という二つの音節は、ただの残響ではなかった。事務所の窓ガラスはもう鳴っていない。朝の車の音も、廊下の蛍光灯の唸りも戻っていた。それなのにデスクライトの外側だけは、まだドウォンビルの階段のように暗く沈んで見えた。
彼は録音ファイルを閉じなかった。停止区間の切り出しを別名で保存し、時刻、音量、処理条件を手帳に書き込んだ。声が自分を呼んだという一文だけは、少し迷ってから最後に加えた。客観的な鑑定資料にはならない。だが、聞こえたものを聞こえなかったことにはできなかった。
午前九時過ぎ、ミンジェは再びドウォンビルの前に立っていた。昨夜よりも建物は古く見えた。壁のタイルは雨も降っていないのに湿った色をしており、一階薬局のガラス戸には、営業中の札が斜めに掛かっていた。ペク・ドヒョンの姿はなかった。管理室のブラインドだけが下ろされ、中から誰かが見ているような細い隙間が残っていた。
ミンジェはまず薬局へ入った。消毒薬と湿布の匂いが鼻に触れ、レジ奥の棚では小瓶が規則正しく並んでいた。ハン・セヨンは白衣の袖をまくり、錠剤の箱を数えていた。姿勢はいつも通り整っていた。だが指先だけが、箱を持ち上げるたびに迷うように止まった。
「ハンさん。昨夜のあと、変わったことはありませんか」
セヨンは顔を上げ、少し目を細めた。
「金庫は、朝には静かでした。硬貨も散らばっていません。だから、何もなかったと言えればいいんですが」
そこでカウンターの上のスマートフォンが震えた。画面に短い通知が浮かんだ。ミンジェは見るつもりはなかったが、セヨンの表情が変わらないことに先に気づいた。
『誕生日おめでとうって、僕が言われる側だけど。母さん、今年も忘れたふり?』
送り主の名前の横には、笑っている若い男の小さな写真があった。
セヨンは画面を見たまま、しばらく動かなかった。驚いたのでも、慌てたのでもない。知らない広告を眺めるような空白が顔に広がった。
「息子さんですか」
「はい。息子です」
答えはすぐに出た。だが声には感情がついていなかった。
「今日、誕生日なんですか」
「……誰のですか」
ミンジェは言葉を止めた。セヨンは自分が何を言ったのか遅れて気づいたように、スマートフォンを握り直した。
「すみません。変ですね。息子のことはわかります。名前も、大学に通っていることも、昨日の夜に電話したことも」
「今日の日付は?」
「五月……」
そこで彼女の目が薬棚の上へ泳いだ。壁のカレンダーに赤い丸がついていた。彼女はそこへ近づき、指先で日付を押さえた。五月二十四日。横に細い字で、息子の名前と「誕生日」と書かれていた。
その字を見た瞬間、セヨンの顔から血の気が引いた。
「私が書いた字です」
彼女は乾いた声で言った。
「毎年、前の日からケーキを予約して、朝いちばんにメッセージを送っていました。忘れたことなんて一度もありません。なのに今……カレンダーを見るまで、何の日なのか何も感じませんでした」
「忘れていた、という感覚はありますか」
「ありません」
セヨンは首を振った。恐怖が静かに遅れてきて、指先を震わせ始めた。
「忘れたなら、思い出そうとするじゃないですか。しまった、と思うでしょう。でも違うんです。最初からその日付に、何も結びついていないみたいで。息子の誕生日だと言われても、他人の記念日を聞いたみたいに……」
言い終えられず、彼女はスマートフォンを伏せた。画面の向こうでは、息子から続けて絵文字混じりのメッセージが届いていた。軽い冗談の形をした日常が、薬局の白い照明の下で、ひどく遠く見えた。
ミンジェは手帳を開いた。
「昨夜、最初にミシン音を聞いた時刻を覚えていますか」
「午前零時四十分です。毎晩と同じでした」
「そのあと、硬貨の音は」
「奥の金庫が震えて……七枚目のところで、止まりました」
ミンジェは項目を分けて書いた。ハン・セヨン。聴取位置、一階薬局。反応物、金庫内の硬貨。喪失、息子の誕生日と日付に結びつく感覚。本人の自覚、カレンダー確認後。
書きながら、昨夜の黒い停止区間が頭に浮かんだ。音が消えた七秒。そこに残っていた声。建物は耳を塞いだのではない。何かを選び取っていた。
「これは、治るんでしょうか」
セヨンが聞いた。
ミンジェは安易にうなずけなかった。
「まだ断定できません。ただ、記録します。何が、いつ、誰から抜けたのか。規則がわかれば、戻す手がかりになります」
「抜けた」
セヨンはその言葉を小さく繰り返した。まるで自分の中に穴が開いているか確かめるように、胸の前で手を握った。
薬局を出ると、階段の冷たい空気が顔に触れた。二階へ上がる途中、ミンジェは踊り場の壁を見た。昨夜、接触マイクを貼った位置には薄いテープ跡が残っていた。そこだけ壁紙の色が古い傷のように濃く、耳を近づければまた細い金属音が鳴りそうだった。
二階のオ数学学院から、ざわめきが漏れていた。朝の補講には早い時間なのに、教室の中には中高生が十人ほど座っていた。黒板の前で、オ・ジョンフンがチョークを持ったまま固まっていた。
「先生、それ違います」
前列の生徒が遠慮がちに言った。
「いや、だから……こうだろう」
ジョンフンは黒板に書いた式を指さした。白い粉が袖口にこびりついていた。そこには二次方程式の解の公式が大きく書かれていた。
x=(b±√b²−4ac)/2a
ミンジェは一瞬、見間違えたかと思った。マイナスの符号が消えていた。正しくは、−bから始まるはずだった。しかもジョンフンは途中の平方根の位置を説明しながら、左右を逆にたどっていた。十年以上、この教室で何度も書いてきたはずの式が、鏡に映した癖のように歪んでいた。
「オ先生」
ミンジェが声をかけると、ジョンフンは振り向いた。その顔には怒りよりも困惑が濃かった。生徒の前で間違えた羞恥ではない。自分の手が、知らない道を勝手に歩いた人間の顔だった。
「パクさん。ちょうど、呼ぼうと思っていました」
「いつからですか」
「今朝です。小テストの解説で、いつものように書いたつもりでした。生徒に指摘されて、初めて気づいた」
ジョンフンはチョークを見下ろした。
「頭では、二次方程式だとわかっています。問題も読める。判別式も説明できる。なのに公式だけが、手の中で裏返るんです」
「覚えていない感覚ですか」
「違います。覚えていないなら教科書を見れば済む。でも教科書を見ても、正しい式のほうが他人の字に見える。自分が十年以上黒板に書いてきた形と、つながらない」
教室の生徒たちは笑っていなかった。最初は冗談だと思ったのだろう。だがジョンフンが何度書き直しても同じ場所で間違えるのを見て、空気が変わっていた。子どもたちの視線が、黒板ではなく天井へ時々向かった。昨夜の音を、彼らも知っているのかもしれなかった。
「昨夜、硬貨の音を聞いたあとに何かありましたか」
「チョークの粉が跳ねました。メッセージで送りましたよね。七枚目のあと、粉だけが止まって……その時、頭の中で何かが白くなった気がしました。でも眠気だと思った」
ジョンフンは黒板消しを取った。式を消そうとして、途中で手を止めた。
「これを消しても、次に正しく書ける気がしません」
ミンジェは教卓の端を借り、手帳に次の欄を作った。オ・ジョンフン。聴取位置、二階教室。反応物、黒板のチョーク粉。喪失、二次方程式の解の公式の身体記憶。特徴、正誤の知識は残るが、感覚的な接続が欠落。
一階のセヨンは日付。二階のジョンフンは公式。どちらも辞書的な記憶だけではなかった。毎年祝い、毎日教え、身体の奥に沈んでいた反復の記憶だ。音は恐怖を植えたのではない。長い時間をかけて人と結びついたものを、縫い目から外すように抜いていた。
ミンジェは昨夜の順番を手帳の端に書いた。
ミシン。硬貨。巻き戻し。
その下に、セヨン、ジョンフン、ギジュンの名前を並べた。まだ四階の祈祷院を確認していない。だが胸の奥で、次に何が失われているかを予感していた。祈りもまた、毎朝身体で反復するものだった。
「先生、今日は授業を中止してください」
ミンジェは短く言った。
ジョンフンは一度だけ生徒たちを見た。反論したそうに唇が動いたが、すぐに力が抜けた。
「わかりました。保護者には設備点検と言います」
「音のことは、まだ広げないでください。ですが、昨夜聞いた生徒がいるなら、名前と座席を控えてください」
「生徒にも影響が出ると?」
「可能性があります」
その言葉で教室がさらに静かになった。ミンジェは生徒たちへ余計な説明をしなかった。恐怖は、形を与えるほど広がる。今必要なのは、証言を増やすことではなく、抜け落ちる前に記録することだった。
彼は廊下へ出て、階段の踊り場で手帳を開いた。聴取時間、場所、音の種類、反応した物、翌朝の喪失項目。表にすると、不気味なほど空欄がきれいに並んだ。まるで最初から書き込まれるのを待っていた帳簿のようだった。
ポケットの中で、小型録音機が震えた。
ミンジェは眉をひそめた。電源は切ってあった。昨夜の採集後、誤作動を避けるためバッテリーも抜いたはずだった。彼は録音機を取り出し、液晶を見た。
表示は黒いままだった。
それなのに、スピーカーの奥で硬いものが落ちた。
チャリ。
ミンジェの指が止まった。二階の教室の扉が、背後でゆっくり開く気配がした。
チャリ。
二枚目。
廊下の蛍光灯が一度だけ白く痙攣した。録音機には電源が入っていなかった。波形も時刻も表示されていなかった。ただ空の機械の中で、硬貨だけが数えられていた。
チャリ。チャリ。チャリ。
五枚目まで来た時、ミンジェは階段の下を見た。一階薬局の奥で、セヨンがカレンダーを握ったままこちらを見上げていた。二階教室では、ジョンフンがチョークを落とした音も立てずに立ち尽くしていた。
チャリ。
六枚目。
次が鳴れば、七秒間の停止が来る。
ミンジェは録音機を耳から離そうとした。だが、その前に七枚目が鳴った。
チャリ。
建物の中の全ての音が、刃で切られたように消えた。沈黙の底で、昨夜よりも近い低い声が、今度ははっきりと息を吸った。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
7話 祈祷文の一行目の空白
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