息は七秒の沈黙の中で膨らみ、声になる寸前で切れた。
音が戻った瞬間、二階の教室から小さな悲鳴が上がった。誰かの椅子が床を引きずり、薬局の奥では金属の棚が遅れて鳴った。ミンジェは録音機を握りしめた。電源は入っていない。バッテリーもない。それでも、硬貨は確かに七枚数えられた。
「今の、聞こえましたか」
ジョンフンが教室の入口で言った。顔色はさらに悪くなっていた。生徒たちはもう誰も笑っていない。黒板の前に落ちたチョークが、折れもせず白いまま転がっていた。
「聞こえました。今は触らないでください」
ミンジェは録音機をハンカチで包み、バッグの別ポケットへ入れた。機械の故障として扱うには、起きた現象が多すぎた。鳴るはずのないものが鳴り、止まるはずのない建物が止まる。規則だけは、嫌になるほど正確だった。
教室へ戻ると、ジョンフンは保護者へ授業中止の連絡を送っていた。生徒たちは荷物をまとめながらも、視線を天井から離せずにいた。蛍光灯は戻っている。スピーカーも壁の上で沈黙している。だが沈黙の質が、さっきまでとは違った。
「防犯用の録画はありますか」
ミンジェが聞くと、ジョンフンは教卓の下を指した。
「授業確認用に。黒板側を撮っています。保護者から質問があった時に、解説を見せるためです」
「今朝の分を見せてください」
ジョンフンはノートパソコンを開いた。画面に、さっきの教室が映った。まだ騒ぎが起きる前だ。生徒たちは問題集を開き、ジョンフンは黒板の前で、いつもの授業の声で二次方程式を説明していた。
ミンジェは最初、公式だけを確認するつもりだった。だが再生を二分戻したところで、手を止めた。
「ここです。もう一度」
画面の中のジョンフンは、黒板に問題を書いていた。そこまでは自然だった。だが、解き方の順番が違っていた。普段なら移項し、係数を整理し、判別式へ進むはずの手が、先に平方根の枠を描き、それから係数を書き込んでいた。説明の言葉も破綻していなかった。生徒たちは気づいていなかった。だが手順だけが、見慣れた道を逆から歩いていた。
「オ先生。普段もこの順で書きますか」
ジョンフンは画面を見つめ、すぐに首を振った。
「ありえません。生徒に混乱させるので、絶対にしない順です」
さらに進めると、チョークを持つ指にも違和感があった。親指と人差し指の位置が浅く、先端を押し出す角度がいつもと逆だった。右手で書いているのに、左手の癖をまねたような向きになっていた。だから線がわずかに震え、符号の入り口だけが毎回潰れていた。
「数字だけじゃない」
ミンジェは低く言った。
「公式の一部を間違えたのではなく、黒板へ向かう手順と、チョークを握る身体の向きが変わっています」
ジョンフンの喉が動いた。
「そんなことまで、抜けるんですか」
「知識ではなく、反復の経路です。何度も使ったものほど、取っ手にしやすいのかもしれません」
自分で言ってから、ミンジェは背中が冷えた。取っ手。誰かが記憶の扉を開けるため、日々の反復に指をかけている。セヨンの日付、ジョンフンの公式。どちらも本人が長い時間をかけて身体の中に沈めたものだった。
録画の中で、最初の笑いが起きた。前列の生徒が「先生、それ違います」と言い、数人が小さく吹き出した。ジョンフンも軽く笑って書き直そうとした。だが、二度目も同じだった。教室の笑いが薄くなり、三度目で完全に消えた。
その瞬間だった。
画面の中の生徒たちが、同時に天井を見上げた。
誰かが合図したわけではない。前列も後列も、ノートを取っていた手を止め、顔だけを上げた。ジョンフンも遅れて天井を見た。音声には何も入っていなかった。ざわめきも、蛍光灯の唸りも、チョークの粉が落ちる音も、その一瞬だけ平らに抜けていた。
ミンジェは再生位置を止めた。
「理由を聞いた生徒はいますか」
「さっき、一人に聞きました。何か聞こえたのかって」
「答えは?」
「聞こえたんじゃなくて、上を見なきゃいけない気がした、と」
ミンジェは録画の時刻表示を確認した。午前九時十七分二十一秒。七枚目の硬貨音が録音機の中で鳴るより前だ。夜の現象が、朝の教室へ薄く残っているようだった。あるいは、昨夜聞いた子どもたちの中に、すでに別の反応が始まっているのかもしれなかった。
画面を拡大すると、天井の隅にある古い校内スピーカーが映った。ジョンフンが説明した。
「使っていません。前の塾が置いていったものです。線も切ってあります」
ミンジェは再生を進めた。生徒たちが天井を見上げた直後、画面の音声に一瞬だけノイズが入った。古いテープが巻き戻る、乾いた短い音だった。
キュル。
現実の教室で、同じ音がした。
ミンジェは反射的に壁のスピーカーを見上げた。教室の電源は落としてあった。アンプのランプも消えていた。ジョンフンが青ざめた顔で、コンセントから抜かれたコードを持ち上げた。
「今のは、録画じゃありませんよね」
「違います」
ミンジェはスピーカーの下へ近づいた。焦げた匂いも、通電の熱もない。ただプラスチックの網の奥に、巻き戻し音が引っかかったあとのような乾いた静けさが残っていた。
彼は手帳の表へ戻った。ミシン、硬貨、巻き戻し。昨夜の順番。被害の順番。セヨンは一階でミシン音を最初に聞き、薬局では日付の感覚が抜けた。ジョンフンは硬貨音に最も強く反応し、公式を支える身体記憶を失った。では、巻き戻し音を天井の奥で聞き続けていた四階は。
ミンジェはバッグを肩にかけた。
「オ先生、生徒の座席表と、昨夜音を聞いたかどうかの聞き取りを今日中に残してください。短くて構いません。上を見た時に何を感じたかも」
「パクさんは?」
「四階へ行きます」
教室を出る前に、ミンジェはもう一度スピーカーを見た。網の奥から何かが覗いているようには見えなかった。ただ、録画の中で生徒たちが同時に天井を見上げた場面だけが、まだ目の裏に残っていた。理由のない同時性ほど、現場では不気味なものはない。人は合図なしに同じ行動をしない。少なくとも、普通の建物では。
階段を上がった。二階と四階のあいだは、やはり長かった。途中の踊り場で足音がわずかに沈み、壁の内側から湿った冷気がにじんだ。ミンジェは昨日貼ったテープ跡の前を通り過ぎた。耳を寄せたい衝動を抑えた。今は、向こうから聞かせたい音だけを聞かされる危険があった。
四階の祈祷院の扉は半分開いていた。中は昼前だというのに薄暗く、長椅子がきちんと並んでいた。礼拝堂の中央に、ソ・ギジュンが立っていた。痩せた頬はさらに削げ、両手で擦り切れた聖書を握っていた。指先が白くなるほど強く。
「ソ牧師」
ミンジェが声をかけると、ギジュンはゆっくり振り向いた。目はミンジェを見ていたが、焦点はその少し奥にあった。
「朝の祈りを、始められませんでした」
声は静かだった。静かすぎて、礼拝堂の床に吸い込まれそうだった。
「体調の問題ですか」
「違います。残りは言えます。二節目も、最後のアーメンも。信徒の名を挙げて祈ることもできます」
ギジュンは聖書を胸へ寄せた。
「けれど、最初の一節だけがありません。忘れたのではない。そこへ口を開こうとすると、言葉が始まる場所そのものが空いているのです」
ミンジェは手帳を開いた。予感は当たっていた。だが当たったことに、少しも安堵はなかった。
「毎日、唱えていた祈祷文ですか」
「夜明けに。二十年近く、一日も欠かさず」
ギジュンは答え、聖書の間に挟んだ紙を差し出した。そこには祈祷文が手書きで写されていた。二行目から下は整った文字で続いていた。だが一行目の場所だけ、紙の繊維が薄く毛羽立つほど消し跡が重なり、何も書かれていなかった。
ミンジェがその空白を見た瞬間、礼拝堂の天井スピーカーから短く巻き戻し音が鳴った。
キュル。
ギジュンが握っていた聖書のページが、風もないのに一枚めくれた。開いた箇所の上段、最初の一行だけが、印刷されていないように白く抜けていた。
そしてギジュンが、ミンジェではなく天井へ向かって囁いた。
「今、誰かが私の声で、続きを読んでいます」
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
8話 存在しない三階の電力
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