ギジュンの囁きが天井へ吸われたあと、礼拝堂には巻き戻し音の乾いた残り香だけが漂っていた。ミンジェは聖書の白く抜けた一行から目を離せなかった。印刷が薄れたのではない。紙のその場所だけが、最初から文字を拒んでいるようだった。
「続きを、ですか」
「はい。私の口ではありません。けれど声は、確かに私です」
ギジュンは手書きの祈祷文を机に置いた。最初の一行は空白で、二行目から下は整った筆跡で続いている。そこから始まる文章として読めてしまうことが、かえって異様だった。
「残りは読めます。二節目も、最後のアーメンも。信徒の名を挙げて祈ることもできます。なのに最初だけが……」
彼は口を開いた。唇は祈りの形を作り、喉もかすかに動いた。だが声は出なかった。数秒後、ギジュンは息を吐き、力なく首を振った。
「詰まるのではありません。始まる場所がないんです。階段の最初の段だけ、床ごと抜かれたように」
ミンジェは手帳に記した。ソ・ギジュン。喪失、祈祷文の最初の一節。続きは保持。発話開始点の欠落。二十年近い毎朝の反復。
「昨夜の音を、少しだけ聞いてもらいます。反応があればすぐ止めます」
直接耳に流し込むのは危険だった。ミンジェは録音機の小さなスピーカーを机に置き、音量を最低にした。まずミシン音だけを再生する。
タタタ、タタタ。
乾いた針の拍子が、長椅子の間を転がった。ギジュンは眉ひとつ動かさなかった。呼吸も変わらない。
「何か感じますか」
「嫌な音ではありますが、それだけです」
ミンジェは停止し、硬貨音の区間へ移った。三枚目までは何も起きなかった。四枚目でギジュンの指が聖書の角を強く押し、五枚目で喉が鳴った。六枚目、額に汗が浮いた。
チャリ。
七枚目が鳴った瞬間、ギジュンは椅子の背に手をついた。
「止めてください」
ミンジェはすぐ止めた。だがギジュンはこめかみを押さえ、まだ痛みに耐えていた。
「頭痛ですか」
「硬貨そのものではありません。そのあとです。額の内側を、誰かが数えているような……七つ目で鍵を回された感じがしました」
ミンジェは七枚目の直後、七秒の停止区間へカーソルを合わせた。ギジュンに目で確認すると、彼は青い顔でうなずいた。
無音が流れた。
聞こえるものは何もないはずだった。だが二秒目でギジュンが呻き、五秒目で膝を床についた。ミンジェは停止ボタンを押し、録音機を机から離した。
「もう十分です」
ギジュンは床に手をついたまま、荒い息を整えた。
「今の間に、最初の一節を思い出しかけました。誰かが扉の向こうから差し出したんです。けれど手を伸ばした瞬間、引き抜かれました」
巻き戻し音は聞かせなかった。ミンジェは機材をバッグに戻し、三人分の表を見比べた。セヨンは息子の誕生日を、ジョンフンは公式を書く手順を、ギジュンは祈りの始まりを失った。知識そのものではない。長く繰り返し、身体に沈んだ入口ばかりだった。
音は耳を脅かしていない。
ミンジェはそう書き、少し間を置いて続けた。
特定の記憶を選び、反復の取っ手から抜き取る。
そのとき、背後の扉が開いた。
「面談はそこまでにしてください」
ペク・ドヒョンが礼拝堂の入口に立っていた。整った顔は静かだったが、目の下の影は濃い。手には管理室の鍵束が握られていた。金属片が一度だけ鳴り、礼拝堂の空気が硬くなった。
「ソ牧師は体調が悪い。これ以上、不安を煽る聞き取りは困ります」
「私は依頼された騒音の影響を確認しています」
「依頼したのは私です。入居者に個別聴取を続ける権限までは与えていません」
声は丁寧だった。だが扉を閉める音に似ていた。
「管理室の鍵も回収します。設備資料が必要なら、私を通してください。勝手にコピーを取ることも、今後は認めません」
ミンジェは表情を変えなかった。昨夜、管理室の端末から夜間電力ログだけは外部メモリに保存してある。ドヒョンが鍵束を見せるのが遅かったのだ。
「正式な資料請求は文書で出します」
「報告書は今日中にお願いします。配管と換気系統の老朽化。そう書けば終わります」
「終わるのは書類だけです」
短い沈黙が落ちた。ドヒョンはギジュンを見ず、ミンジェだけを見ていた。
「パクさん。建物には、触れないほうがいい場所があります」
「音源座標のことですか」
「忠告です」
それだけ言うと、ドヒョンは鍵束をポケットへ入れ、階段を下りていった。足音は規則正しく遠ざかったが、二階と四階のあいだで一度だけ不自然に沈んだ。存在しない床が、彼の重さを受けたように。
ミンジェはギジュンに水を渡し、今日は礼拝堂を閉めるよう勧めた。さらに聞き取りを続ければ、ドヒョンは入居者を個別に黙らせにかかる。今は証言を増やすより、手元の記録を失わないことが先だった。
一階へ降りる途中、管理室の扉には新しい南京錠が掛けられていた。ブラインドの隙間も閉じている。建物は昼の光の中にあるのに、そこだけ夜が残っていた。
ミンジェは薬局の裏の休憩室を借りた。セヨンは理由を聞く前に、古い延長コードと椅子を出した。彼女のスマートフォンには、息子からの軽い催促が未読で積もっている。彼女は画面を伏せたまま、何も言わなかった。
ノートパソコンを開き、外部メモリを差す。フォルダ名は「管理室_夜間電力」。昨夜、ドヒョンが電話で廊下へ出た三分の間にコピーしたものだった。
一階薬局は冷蔵庫のため夜間も一定。二階塾は午前零時以降ほぼゼロ。四階祈祷院は照明分だけ低く残り、五階ワンルームは部屋ごとにばらつく。どれも古いビルとしては説明できた。
問題は、一覧の最下段だった。
3F-共用。
ミンジェはカーソルを止めた。電算上の階数表示には三階がない。エレベーターにも階段にも、三という数字は存在しない。それなのに電力ログの系統名だけが、当然のように三階共用を示していた。
過去三十日のグラフを開いた。各階の使用量は夜へ向けて緩やかに下がっていく。だが黒い一本だけが、毎晩同じ時刻に垂直に跳ねた。
午前零時四十分。
ミシン音が始まる時刻だった。
跳ね上がりは二分十三秒ほど続き、そこから小刻みに波打つ。七枚ごとの硬貨音と同じ間隔で瞬間的な谷が入り、最後に巻き戻し音の区間で使用量が鋭く反転する。音の順番が、そのまま電気の線になっていた。
「何か、見つかりましたか」
入口でセヨンが聞いた。ミンジェは画面を彼女へ向けなかった。
「配管ではありません。少なくとも、電気を使う何かです」
「どこにあるんですか」
ミンジェは建物断面図を重ねた。二階と四階のあいだの空白。昨夜センサーが指した座標。そこへ電力系統番号を合わせる。線は迷わず、存在しない階の中央を通った。
画面の右下で、今日の日付の行が自動更新された。まだ昼過ぎだというのに、3F-共用の待機値だけがゼロではなかった。細い数字が、0.04から0.05へ変わる。
ミンジェは息を止めた。
存在しない三階は、昨夜だけ電気を使ったのではなかった。次の午前零時四十分へ向けて、もう目を覚まし始めていた。グラフの黒い線の先端が、誰かの心電図のように小さく震えた。
誰も上がれない三階から、午前零時四十分に僕の名を呼ぶ声がする
9話 父の名を冠す施錠音声
次の話