「その子も、映っているか確認しろ」
背中に落ちた声を聞いた瞬間、ジェユンは足を速めたい衝動を押し殺した。子どもが急に走れば、それだけで記憶に残る。父の肩がわずかに揺れたが、ジェユンは振り返らなかった。
地下二番ゲートまでの廊下は長かった。守衛室の前を通るとき、ソンロクが弁当かばんへ手を伸ばした。
「渡せ」
「僕が母さんに持って帰ります。お弁当、入れ忘れたから」
声はかすれていた。だが子どもの言い訳としては、それで足りた。守衛は眠そうな目で二人を見ただけだった。ソンロクは何も言えず、ただ小さく顎を引いた。
外へ出ると、朝の空気が冷たく頬を刺した。ジェユンは本館の角を曲がるまで歩いた。そこから軽食店までは走った。胸の前で抱えた弁当かばんの底が、走るたびに硬く腹へ当たる。紙の角が布を押し、そこに父の名前と、別の家族の退職金が折り重なっていた。
本館前の軽食店は、まだ朝の仕込みの匂いが残っていた。鉄板の油、煮詰まったスープ、濡れた雑巾の匂い。店の奥の公衆電話の横に、ジョンヒが立っていた。
「ジェユン!」
彼女は駆け寄ってきた。叱る声より先に、息子の顔色を確かめる手が額へ伸びた。
「熱があるじゃない。どこへ行っていたの。お父さんは?」
「中にいます。説明会です」
ジェユンは弁当かばんをテーブルの下へ置き、底布をめくった。油紙の下から写しを取り出すと、ジョンヒの顔から血の気が引いた。
「これ……本当に」
「母さん、今は読まなくていいです」
「読まなくていい紙じゃないでしょう」
ジョンヒの声は震えていた。それでも紙を握る指は強かった。ジェユンは店の窓から本館のほうを見た。まだ誰も追ってこない。
「オ班長の奥さんを呼んでください。キム班長は奥さんじゃなくて、義弟さん。前に軽食店で一緒にいた背の高い人です。銀行の窓口で話が通じる人」
ジョンヒは一瞬だけ息子を見た。なぜそこまで知っているのか、問いは目の中にあった。だが言葉にはしなかった。彼女は公衆電話へ向かい、小銭を入れた。
最初に来たのは、オ・マンシクの妻だった。髪を急いで結び、肩に市場の布袋をかけたまま店へ入ってきた。続いてキム・チュンベの義弟が、ネクタイを少し曲げたまま駆け込んできた。二人とも事情を知らず、ジョンヒの顔を見るなり声を低くした。
「何があったの?」
ジョンヒは答えず、写しを広げた。給与明細。福利基金先控除。退職時精算。異議申し立て放棄。家族確認欄。紙の上の文字を追ううち、オの妻の口元が固まった。
「うちの人、こんなの聞いてないわ」
キムの義弟は念書の一部を持ち上げ、目を細めた。
「退職金積立の内訳を、会社指定口座へ振り替えるって……これ、本人が同意した形にする書類ですよ」
「今日、印を押すんです」
ジェユンが言った。大人たちの視線が一斉に下りてくる。彼は子どもの顔のまま、言葉だけを慎重に選んだ。
「僕はよく分かりません。でも、今日押したら、あとで違うって言っても、お金を戻すのが難しくなるかもしれません。通帳と退職金の積立を、先に銀行で聞いたほうがいいです」
子どもの口から出るには不自然な言葉だった。だから少しだけ崩した。
「学校の先生が、はんこはよく読んでから押せって言いました」
オの妻は泣きそうに笑ったが、すぐ笑みを消した。キムの義弟は写しを畳まず、テーブルに置いたまま言った。
「銀行へ行きます。退職金積立の照会なら、家族でも委任状が必要かもしれない。でも本人が説明会場にいるなら、入口で呼び止められる」
「今すぐ行ったら、会社に見られます」
ジェユンは首を振った。
「先に通帳を持ってきてください。説明会の入口で、実印を家に置いてきたと言ってください。取りに戻るふりをして、銀行へ行くんです。父さんは中で押さずに待ちます」
「ご主人は大丈夫なの?」
オの妻がジョンヒに聞いた。ジョンヒはすぐには答えなかった。紙を握ったまま、窓の向こうの本館を見た。
「大丈夫じゃないわ」
そして、短く続けた。
「でも、押してからでは、もっと大丈夫じゃなくなる」
午前九時前、地下会議室の入口には運転手と警備協力班の人間が列を作っていた。ジェユンは店の外、新聞スタンドの陰からその動きを見ていた。ジョンヒは少し離れた歩道でオの妻と並び、キムの義弟は公衆電話から誰かへ連絡していた。
入口の奥に、ソンロクの背中が見えた。出席者名簿を持ち、班ごとに名前を呼ぶ役目を押しつけられている。チャン・ムンシクの姿は見えないが、黒い外套の気配だけが廊下の空気を締めていた。
「オ・マンシクさん、本人欄に押印を」
係の声が外まで漏れた。
オの妻が一歩踏み出した。
「すみません。実印を家に置いてきたみたいです。今から取ってきます」
係が顔をしかめた。
「本人欄だけなら認印でも——」
「実印を持参と通知にありました。違う印を押してあとで問題になったら困ります」
言葉は震えていたが、最後まで切れなかった。オ・マンシクが入口の内側で目を見開いた。妻は夫を見ず、ただ頭を下げて後ろへ引いた。
次にキム・チュンベの義弟が同じことを言った。警備協力班の列に小さなざわめきが走る。誰かが「うちも家に置いてきた」とつぶやいた。係の顔に焦りが浮かんだ。
ジェユンはソンロクを見た。父は名簿を持ったまま、何も言わなかった。自分の欄を開かず、他人を急かさず、ただ沈黙して立っていた。その沈黙が、入口の流れを細く詰まらせていた。
午前中いっぱい、説明会は進んだり止まったりした。会社側は福利基金の利点を繰り返し、先払い、支援、家族の安心という言葉を並べた。だが入口で印鑑を理由に戻る者が三人になり、四人になったところで、空気は変わった。
午後一時過ぎ、三つの家族は別々の銀行窓口へ入った。ジェユンは母の後ろで、背を丸めて子どもらしく椅子に座っていた。窓口の女性職員は最初、退職金積立内訳の照会に渋い顔をしたが、ジョンヒが給与通帳と写しを並べると表情を変えた。
「この振替予定、会社側から一括で照会が入っていますね」
「一括?」
「テガン建設管理チーム名義です。まだ実行前ですが、本人同意書の到着待ちになっています」
その一言で、オの妻は椅子の背につかまった。キムの義弟は窓口で苦情記録を残すよう求めた。ジョンヒも同じように言った。三つの窓口で、同じ会社名と同じ書式が声に出された。
その頃には、写しが外へ出たことを隠しようがなくなっていた。
銀行を出て軽食店へ戻っていた午後、管理チームの若い社員が店へ入ってきた。彼は店主に、朝から誰が集まっていたかを聞き、傍らにいたジェユンを見るより先にジョンヒの名を口にした。ジョンヒは知らないふりをしたが、社員の目はテーブルの端に残った紙の折り跡を見た。
午後二時半。ジェユンが再び本館の近くへ様子をうかがいに行くと、ソンロクが本館の廊下で呼び止められていた。ジェユンは遠くからその背中だけを見た。父は振り返らず、名簿を胸に抱えたまま歩いた。押印欄はまだ空白のままだった。
報告が上へ上がるまで、一時間もかからなかった。
夕方、ジェユンが半地下の部屋へ戻ると、ジョンヒは食卓で黙って通帳を見ていた。数字の横に、鉛筆で小さな印がついている。守れた金額は多くなかった。けれど、今日印を押していれば、取り返せなかった金だった。
「お父さんは?」
「まだ戻らないわ」
ジョンヒの声は低かった。ジェユンはうなずき、窓の外の路地を見た。冷えたガラスに自分の小さな顔が映る。目だけが、朝よりもさらに眠っていなかった。
その同じ夕方、テガン建設管理チームでは、写し流出の疑いがある者の名簿が作られていた。説明会の名簿、コピー室の使用時刻、地下二番ゲートの守衛記録、そして弁当かばんを抱えた子どもの映像。
一番上の欄には、太いペンで名前が書き込まれた。
パク・ソンロク。
ジェユンはまだ、それを知らなかった。だが夜八時を過ぎても父が帰らない時点で、紙が次に誰の首へ巻きつくのか、もう計算できていた。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
15話 赤い管理対象の呼び出し
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