夜九時を過ぎても、ソンロクは戻らなかった。半地下の窓には路地の明かりが細く差し込み、食卓の上の通帳と写しを白く照らしていた。ジョンヒは何度も受話器へ手を伸ばしかけ、そのたびに指を引っ込めた。会社へ電話すれば、家族の不安まで相手に渡すことになる。
「寝なさい」
眠れるはずがないと知っている声だった。ジェユンはうなずいたが、布団には入らなかった。新聞配達の自転車が坂を下りてくるまで、昨日の時刻をノートに書き足した。銀行窓口、苦情記録、実印忘れ、押印保留。最後に、父の帰宅なし、と小さく記した。
朝刊の一面は、彼の予想より大きかった。円とドルの為替が急騰し、大企業の外貨返済に赤信号がともったという見出しが、紙面の上半分を占めていた。下には海外建設事業を抱える企業の資金逼迫、銀行団の追加担保要求の記事が続く。テガン建設の名前は直接出ていない。だが、東南アジア工事、外貨借入、短期返済という三つの言葉だけで十分だった。
『今日、押させにくる』
ジェユンは新聞を折り、母の前へ置いた。ジョンヒは見出しを読んだだけで、口元を固く結んだ。
「会社が、また説明会を開くかもしれません」
「昨日の今日で?」
「昨日だからです。銀行が待たない」
昼前、その通りになった。軽食店の公衆電話が鳴り、店主がジョンヒを呼んだ。受話器の向こうでオ・マンシクの妻が息を切らしていた。テガン建設が説明会を再招集し、昨日保留した者は午後までに本人欄を埋めろと言っているという。下請け警備員にも同じ連絡が回り、警備会社の担当者が家まで印鑑を取りに来ると言い出したらしい。
「通帳を持って、昨日の銀行へ行ってください」
ジョンヒの横で、ジェユンは声を抑えて言った。
「窓口で、昨日の苦情記録の番号をもう一度出してもらってください。写しも見せて、本人同意書が届くまで振替を止めると書いてもらうんです」
ジョンヒはそのまま伝えた。受話器の向こうで、オの妻が何度も聞き返した。ジェユンは番号、窓口、言う順番を短く切って母へ渡す。子どもの声を相手に直接聞かせるより、母の言葉にしたほうが動きやすかった。
次はキム・チュンベの義弟だった。彼はすでに銀行へ向かっており、管理チームの一括照会を苦情として残した控えを受け取ったと言った。声の奥に怒りがあった。
「警備会社の係が、班長を連れて説明会場へ戻れと言っています」
「戻る前に、控えを二枚コピーしてください。片方を本人が持って、片方を家族が持つ。会社には原本を渡さないで」
ジョンヒは息子の言葉を一度飲み込み、自分の言葉で伝え直した。
ジェユンはさらに、軽食店の公衆電話から何組かの運転手の家族へも、母を通じて連絡を入れた。署名の前に必ず通帳の内訳を確認するよう、慎重に伝えるためだった。
受話器を置くと、ジョンヒの額には汗が浮いていた。
「あなた、本当に子どもじゃないみたいね」
責める声ではなかった。疲れと恐れの混じった、短い確認だった。ジェユンは新聞に目を落とした。
「今は、子どものほうが聞かれにくいです」
午後の本館地下会議室は、昨日より静かだった。ジェユンは会議室から少し離れた柱の陰で、出入りする人々の動きを見守っていた。係は早口で福利基金の説明を繰り返し、壁の時計ばかり見ている。オ・マンシクは妻から銀行の控えを受け取ると、しばらく紙を見つめ、胸ポケットへ入れた。キム・チュンベも義弟に呼び止められ、警備会社の担当者に「銀行の確認が先です」と言った。
すべての家族が止まったわけではなかった。遠くの席で、誰かの印鑑が朱肉に押しつけられる音がした。係が安堵したように紙を引き寄せる。ジェユンは唇の内側を噛んだ。全員を救うことはできない。名前も顔も知らない者の紙まで、彼の小さな手は届かなかった。
それでも三つは止まった。
オの妻は銀行の苦情記録を盾に、本人同意書の提出を拒んだ。キムの義弟は窓口控えの写しを警備会社の担当者に見せ、退職金積立の一括振替に異議を残した。ジョンヒはソンロクの通帳と昨日の写しを胸に抱き、会議室の外で「家族確認欄に署名する前に、退職金の内訳を出してください」と繰り返した。
夕方までに、三つの家族の退職金は担保提供の流れから外れた。完全な勝利ではなかった。銀行員は、会社から再申請が来れば再確認になると念を押したし、会社側は不足分を別の名目で求めてくるはずだった。だが、今日の振替は止まった。
滞っていた急ぎの金も、どうにか工面した。オの妻は市場仲間から短期の金を借り、キムの義弟は自分の定期預金を一部崩した。ジョンヒは惣菜屋の店主に頭を下げ、来週分の前借りを受けた。どれも胸を張れる金ではなかったが、退職金を会社の借金の下へ差し出すよりはましだった。破産の入口に押し込まれていた三つの家は、泥の中でかろうじて靴底を踏みとどまらせた。
軽食店の奥で、オの妻がジョンヒの手を握った。
「ありがとうって、あなたに言っていいのか分からない」
「今は言わないで。聞かれると困るわ」
二人は笑わなかった。キムの義弟は店の外で煙草に火をつけかけ、思い直して折った。ジェユンはその様子を見ながら、ノートの端に三つの丸を付けた。防波堤と呼ぶには小さすぎた。けれど、いちばん弱い場所が最初に流されることだけは防いだ。
日が落ちても、ソンロクは軽食店には現れなかった。ジョンヒが半地下へ戻ろうとしたとき、本館地下から出てきた若い運転手が店の前で足を止めた。彼はジェユンを見ず、紙袋を買うふりをして低く言った。
「車両待機室、まずいことになってます。ソンロクさんのロッカーに札が貼られました」
ジョンヒの手が通帳を握りしめた。
「札?」
「赤いやつです。管理対象って」
ジェユンは胸の奥が冷えるのを感じた。感謝の言葉の代わりに、会社は父の名前へ赤い札を貼った。予想していた。だが予想できることと、耐えられることは別だった。
ジェユンは本館地下へ向かった。守衛の目を避け、車両待機室の入口脇まで回り込む。薄く開いた扉の奥、壁際の金属ロッカーに赤い紙片が見えた。パク・ソンロク。管理対象。黒い文字は、父の制服よりも目立っていた。
そのとき、待機室の電話が鳴った。一台ではない。壁の内線と、机の上の黒電話が、ほとんど同時にけたたましく鳴り出した。運転手たちが一斉に顔を上げる。
ソンロクがロッカーの前で立ち止まった。彼は赤い札を剥がさなかった。ただ、鳴り続ける二つの電話へゆっくり顔を向けた。受話器を取る前から、ジェユンには分かっていた。
今度は紙ではない。父自身が、呼び出される番だった。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
16話 父へ向けられた次の刃
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