その熱が、テオの指先を噛む。
鞄の奥にあるはずの黒い蝋燭が、布と教科書を隔ててなお、皮膚へ直接触れたように熱い。ジヒョクの囁きは耳の内側に残っている。今度は、お前の家族の番だ。
テオは答えない。答えれば、ここで殴る。殴れば、校門前のカメラはその瞬間だけを切り取る。ミョンシクが何か言う前に、テオはジヒョクの肩を押しのけて走り出す。
「おい、ユン!」
誰かが呼ぶ。記者の声か、教師の声か、分からない。肩からずり落ちた鞄が地面に落ちる鈍い音がした。拾わない。教科書も、ノートも、黒い蝋燭も、今はただの重りだ。
守衛が伸ばした腕の下をくぐり、テオは坂道へ飛び出す。背後でジヒョクが何か叫んだ。笑っているのか、泣いているのか分からない声だった。だが追ってくる足音はない。
丘の上までの道は、いつもより短く、同時に果てしなく長い。肺が焼ける。肩の裂けた傷が熱く開く。横断歩道の信号が赤でも、テオは車の隙間を縫って渡る。クラクションが鳴り、運転手の罵声が飛ぶ。それでも止まらない。
ミョンジンヴィラが見えた瞬間、足の力が一度抜けかける。三階の窓は閉まっている。カーテンは動いていない。だがそれだけでは何も分からない。人は窓を割らずに入れる。鍵を壊さず、紙一枚で誰かを外へ連れ出せる。
階段を駆け上がり、三〇二号の前でテオは息を止める。玄関の郵便受けに、白い封筒が半分だけ差し込まれていた。
赤と青の細い線で囲まれたロゴ。
ジンミョン人材。
指が冷える。テオは封筒を引き抜く前に鍵を開け、扉を押し込む。
「ばあちゃん!」
部屋は静かだ。冷蔵庫の低い音。時計の針。小鍋の蓋が少しずれている音まで聞こえる。布団の上で、ボクスンは横向きに眠っている。白い髪が頬にかかり、薄いカーディガンの片袖がまた肘まで上がっていた。
テオは膝をつき、鼻先に手をかざす。息がある。浅いが、規則正しい。首筋に触れると、皮膚は冷えているだけで、震えてはいない。
「……よかった」
声になったのは、それだけだった。
彼は窓を見に行く。鍵は閉まっている。台所の小窓も、浴室の換気窓も、内側からかかっている。薬袋は棚の前にあり、数も減っていない。床に知らない靴跡はない。
無事だ。
無事だからこそ、玄関に残された封筒の白さが、刃物のように目立つ。
テオはチェーンをかけ、もう一度ボクスンの寝息を確かめてから、封筒を開く。中の紙は一枚。上部にジンミョン人材のロゴ、下部に振込口座。表題は、委託手数料未納通知書。
宛名はユン・ボクスン。
「何だよ、これ」
テオは紙を握り潰しかけて、寸前で止める。証拠だ。怒りで破けば、向こうが差し出した手の形を失う。
文面は薄汚いほど丁寧だった。過去の紹介委託に関する手数料が未納であり、指定日までに確認が取れない場合、同居家族への連絡および契約関連機関への照会を行う。そんな文章が、何の根拠も示さず並んでいる。
ボクスンはジンミョン人材と契約などしていない。少なくとも、テオの知る限りでは一度もない。けれど、紙の上では違うことにできる。名前と住所があるだけで、年寄りを怯えさせるには十分だ。
カン・ムンシクは、まだ祖母の住所を握っている。
校門前で記者に囲まれ、取引先に切られ、サンチョルと怒鳴り合っても、彼の手はここまで届く。学校の中でジヒョクを潰しても、職員室のパソコンに証拠を流しても、紙を出す人間が外にいる限り、ボクスンの名前は何度でも使われる。
その事実が、釘のようにテオの頭へ打ち込まれる。
復讐は、教室の中だけで終わらない。
テオは通知書を折り、古い写真ケースの裏へ差し込む。隠すためではない。なくさないためだ。ボクスンの枕元に水を置き、薬の時間を書いた紙をもう一度マグネットで冷蔵庫へ留め直す。
眠っていたボクスンが、小さく息を揺らす。
「学生さん……帰るのかい」
「すぐ戻る」
嘘かもしれない。だが、そう言うしかない。
ボクスンは目を開けないまま、布団の端を握る。
「鍵……寒いから、閉めてねえ」
「閉める」
テオは内側の鍵を開け、チェーンを外す前に耳を扉へ当てる。廊下に足音はない。階段の下で誰かが煙草を吸う匂いもしない。外へ出ると、冷たい扉を背にして鍵を二度回した。
それでも、もうこの部屋は安全ではない。
坂道を下り始めたとき、テオはようやく鞄を学校へ落としてきたことを思い出す。黒い蝋燭もそこにある。胸が一瞬ざわめくが、足は学校へ戻らない。今必要なのは、あの一本ではない。月影堂には、まだ棚いっぱいの黒い骨が並んでいる。
仁川駅裏の階段を下りるころには、夕方の冷気が地下へ沈み始めていた。半分塞がれた入口を抜けると、錆びたシャッターが列を作り、蛍光灯が一つだけ弱く点滅している。月影堂の看板は、前より少し傾いて見えた。
店の中は、出たときのままだ。黒布は床に落ち、鏡は暗い水面のように沈黙している。帳簿の最後の頁には、ユン・テオの名になりかけた黒い染みが、前より濃く浮いていた。
鏡の中の影は、すぐには姿を見せない。
「出ろ」
テオは低く言う。
鏡面が揺れる。濡れた紙をめくる音が一度鳴り、テオと同じ目をした影が、暗い奥から浮かび上がる。
「鞄を置いてきた」
「知ってる」
「笑うな」
「笑っていない」
影の口元は、かすかに上がっている。テオは棚へ視線を向けない。黒い蝋燭を掴めば、今度こそカン・ムンシクの名を刻む。自分でそれが分かっている。
「カン・ムンシクを映せ」
「刻まないのか」
「映せ」
影はつまらなそうに目を細めるが、逆らわない。鏡面に黒い波が走り、ジンミョン人材のロゴが浮かぶ。応接室ではない。倉庫のような薄暗い事務所だった。壁には派遣先一覧が貼られ、古いホワイトボードに地名と人数が並んでいる。
ソンジン下請け、大韓プレス、仁川港湾部品。
その下に、まだ見たことのない名前があった。
東洋金属。富平(プピョン)郊外。夜間寮。
ムンシクの太い指が、紙の上を叩く。画面のこちらには音がないはずなのに、爪が書類を打つ硬い音だけははっきり響く。
「ここは止めるな。ソンジンが騒がれている間、別線で回せ」
隣の社員がためらうように口を動かす。未成年。外国人。登録証。そんな単語だけが、鏡の水面に白く浮いては沈む。
映像が切り替わる。
夜の道路を、白い小型バスが走っている。窓には内側から新聞紙が貼られ、外から顔は見えない。後部座席で、まだ制服の上着を着た少年が膝を抱えている。隣には作業着姿の男たちが黙って座り、誰も携帯を持っていない。
次の場面では、工場の敷地が映る。門の看板には東洋金属とある。敷地の奥、コンテナを改造した寮の窓には鉄格子がはまり、扉には外側から南京錠がかけられている。洗濯物は干されているのに、人の声がない。
鏡がさらに深くなる。
事務室の机に、別の帳簿が開かれていた。賃金の欄は空白に近く、罰金、宿泊費、紹介料、更新手数料の欄だけが赤い数字で埋まっている。名前の横には国籍らしき文字と、生年月日。十七歳。十八歳。登録期限切れ。保証人なし。
テオの喉が乾く。
これは、学校の延長ではない。学校が一つの入口だっただけだ。推薦書、実習、派遣、人材会社、下請け、工場寮。紙の上で名前を運び、閉じ込め、逃げればさらに借りを増やす。ジヒョクの拳は、その末端にぶら下がった汚れた飾りにすぎない。
「根を見ろと言った」
影が鏡の中で囁く。
テオは答えない。怒りが喉を塞いでいる。だが今、黒い蝋燭へ手を伸ばせば、流れる先が多すぎる。労働者の名前まで巻き込むかもしれない。救うべき名前と燃やすべき名前を、まだ選び分けられない。
映像の端で、何かが動いた。
テオの視線がそこに止まる。コンテナ寮の一番奥。施錠された鉄扉の内側に、小さな曇った窓がある。その向こうで、人影が倒れ込むように近づいてきた。
血まみれの手が、窓ガラスを叩く。
一度。二度。三度。
音はない。だが鏡の表面が、その衝撃に合わせて震える。手のひらの血がガラスに擦れ、赤い筋になって下へ流れた。中の男は何かを叫んでいる。唇の形だけが、必死に同じ言葉を繰り返す。
助けて。
次の瞬間、鉄扉の外側から誰かの影が近づいた。窓の向こうの手が、恐怖でぴたりと止まる。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
22話 東洋金属第二搬入口
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