その「今から行く」という言葉は、すぐには形にならない。
職員室の電話を切ったあと、オ・ミョンシクはしばらく受話器を見下ろしていた。ジヒョクは謝罪文をテオの胸へ押しつけたまま、口角だけを上げ直す。だがその夜、マ・サンチョルは現れなかった。学校側が時間を調整した、とオ・ミョンシクは言った。まるで問題を丁寧に扱っているような声だった。
翌日の夜、テオは相談室の椅子に座っている。
古いソファと低い机、壁に貼られた進路相談のポスター。窓の外では運動場の照明が半分だけ点き、校舎の影を長く伸ばしている。相談室という名前なのに、部屋の空気は相談を受け入れるものではない。逃げ場を一つずつ閉じるための、小さな箱に近い。
オ・ミョンシクは机の端に座り、手元の書類をそろえている。チャン・ムンホはいない。実習担当がいないことを、テオはすぐに理解する。機械のことを詳しく聞く場ではない。もう、誰が何をしたかを確かめる段階ではないのだ。
扉が開き、分厚い腹を前に突き出した男が入ってくる。黒いジャンパーの胸元に、ソンジン下請けのロゴが小さく刺繍されている。顔は赤く、髪は整髪料で後ろへ撫でつけていた。男はテオを見た瞬間、名乗る前から値踏みする目を向ける。
「お前がユン・テオか」
テオは返事をしない。声を出せば、喉の奥に引っかかっているものまで出てしまいそうだった。
男は勝手に向かいへ座る。椅子がぎしりと鳴る。
「ソンジン下請けのマ・サンチョルだ。昨日、電話した」
知っている。受話器越しに聞こえた荒い声と同じだ。テオは短くうなずく。
マ・サンチョルは鞄から封筒を出し、乱暴に机へ置く。白い封筒の角が、テオの前で止まる。中から抜かれた書類には、合意書という文字が印刷されていた。
「さっさと片づけよう。学校も忙しいし、うちも現場を止めてる余裕はない」
オ・ミョンシクが咳払いをする。
「ユン、これはお前にとっても悪い話ではない。正式な事故処理にすると、記録が残る。合意の形にすれば、推薦の余地はある」
また推薦だ。昨日から同じ縄が、違う手で引かれているだけだ。
テオは書類を見る。設備破損の責任を認めること。今後、学校と実習先に異議を申し立てないこと。修理費については分割で弁済すること。保護者、または同居親族の確認を得ること。
文字はまっすぐ並んでいるのに、読めば読むほど胃の底が歪む。
「俺は壊してません」
テオの声は低い。
マ・サンチョルは鼻で笑う。
「機械から出てきた手袋は誰のだ」
「俺のです。でも、入れてません」
「じゃあ勝手に歩いて入ったのか、その手袋は」
オ・ミョンシクが目を伏せる。止める気はない。教師が黙ると、部屋の中でマ・サンチョルの声だけが大きくなる。
「こっちは見積もりも業者の確認も取ってる。学校の先生も報告してる。お前一人が違うと言ったところで、何が変わる」
テオは膝の上で拳を握る。昨日、職員室で全部言った。給料を奪われたことも、祖母の写真を持ち出されたことも、ジヒョクたちが機械のそばにいたことも。だが、その言葉はどこにも残らない。残されるのは、この合意書だけだ。
「警察に行きます」
その一言で、オ・ミョンシクの肩がわずかに動く。
マ・サンチョルは目を細めた。笑みが消えるのではなく、もっと硬い笑みに変わる。
「行けばいい。行って、未成年の夜間学生が学校の設備を壊して、払えないから騒いでいると説明してこい」
「恐喝も話します」
「証拠は」
また、その言葉。
テオの胸の奥で、何かが冷たく沈む。オ・ミョンシク、ジヒョク、マ・サンチョル。三人とも同じ言葉を使う。同じ鍵で、同じ扉を閉める。
マ・サンチョルは書類を指で叩いた。
「いいか。カン・ジヒョクの父親、カン・ムンシク社長はな、うちの大事な取引先だ。ジンミョン人材から人を回してもらって、うちは現場を回してる。学校の実習生も、物流の仕事も、その線の上にある」
テオは顔を上げる。
「それが何ですか」
「分からないか? お前が問題を大きくすれば、ジンミョンの社長は面白くないだろうな。そうなれば、倉庫の方へ話が行く。朝の物流、続けられると思うか?」
息が一瞬止まる。
マ・サンチョルは楽しむように続ける。
「それだけじゃない。現場実習の推薦書も止まる。夜間部の生徒が推薦なしでどこへ行く。お前、祖母さんを食わせてるんだってな」
オ・ミョンシクが小さく言う。
「マ社長、その話は」
「事実だろ」
マ・サンチョルは止まらない。
「大人はな、線でつながって仕事をしてる。学校、下請け、人材会社、物流。お前がここで変な正義感を出せば、その線がお前の首に絡むだけだ」
テオは合意書を手のひらで押し返す。
紙が机の上を滑り、マ・サンチョルの前で止まった。
「書きません」
声は震えていない。少なくとも、自分の耳にはそう聞こえる。オ・ミョンシクが眉をひそめる。マ・サンチョルはしばらくテオを見て、それからゆっくり笑った。
「なるほど。強情だな」
彼は鞄からもう一枚、細い紙を取り出す。何かを印刷したメモのようだった。テオは最初、それが修理費の明細だと思う。
「じゃあ確認しようか。仁川旧市街、丘の上の古いヴィラ」
テオの指が止まる。
マ・サンチョルは紙を見る。まるで納品先の住所を読むように、平然と声に出す。
「ミョンジンヴィラ。三階。三〇二号。ユン・ボクスン。年齢は……まあ、そこまでは読まなくていいか」
部屋の音が消える。
蛍光灯の低い唸りも、廊下を通る生徒の足音も、一瞬で遠くなる。テオは机の角に置いた手を動かせない。頭の中に、薄いカーディガンの袖が片方だけずれた祖母の姿が浮かぶ。薬袋を探して、冷蔵庫の前で困ったように笑っていた顔。
「どうして」
声がかすれる。
マ・サンチョルは肩をすくめる。
「学校の書類にあるだろう。保護者、同居親族、緊急連絡先。必要なら調べる方法はいくらでもある」
オ・ミョンシクは今度こそ何も言わない。止めるどころか、視線を机の書類へ落としている。その沈黙が、テオの胸を一番深く刺す。
「お前が問題を大きくするなら、こっちも確認に行くしかない。合意書に家族の確認がいるからな。老人が一人で住んでるなら、説明も丁寧にしないと」
丁寧に。マ・サンチョルはその言葉を、わざと柔らかく言う。
テオの中で、昨日から響いている声がまた動く。
逃げ道を探せ。
だが、祖母の住所を握られた瞬間、逃げ道は地図ごと燃える。どこへ逃げても、あの古いヴィラの三階にいるボクスンだけは置いていけない。置いていけば、彼らはそこへ行く。
テオは立ち上がる。
「少し、外に出ます」
「逃げるなよ」
マ・サンチョルが言う。
テオは答えず、相談室の扉を開ける。廊下の空気は冷たい。閉じた扉の向こうから、オ・ミョンシクの低い声が漏れる。中で何を話しているのかは分からない。分からない方がいいのかもしれない。
廊下の角に、ジヒョクがいる。
昨日と同じように壁にもたれ、茶色の髪をかき上げている。ドンスもミンギュもいない。だが一人で十分だと知っている顔だった。
「お疲れ、ユン」
テオは通り過ぎようとする。ジヒョクは肩を壁から離し、すれ違いざまに近づく。教師の目が届かない、相談室の扉と階段の間。ほんの数歩の暗い場所。
「住所、聞いた?」
テオの足が止まる。
ジヒョクは声を落とす。耳元にだけ届く、楽しげな囁きだ。
「年寄りが夜道で一人転んだらさ、誰が責任取るんだろうな」
血の気が引く。
テオの手が、反射的にジヒョクの胸ぐらへ伸びかける。だがジヒョクは笑って一歩下がる。ここで殴れば、すべてが終わる。暴力事件、退学、警察、仕事先への連絡。祖母の薬。昨日から何度も突きつけられた言葉が、首輪のように締まる。
「怖い顔するなよ。俺、ただ心配してるだけだって」
ジヒョクは軽く手を振る。
「お前のばあさん、階段とか大丈夫か?」
テオは何も言えない。口を開けば叫びになる。叫べば、相談室の中の大人たちが出てくる。そして彼らは、ジヒョクではなくテオの顔を見る。いつもそうだ。
廊下の窓に、夜の校庭が映っている。そのガラスの下で、黒い紙片のような影が一瞬だけ揺れた。逃げ道を探せ、という声はまだある。だが今は、声の先が見えない。暗い穴の向こうに、祖母の部屋だけが浮かんでいる。
テオは相談室へ戻る。
マ・サンチョルは合意書を広げたまま待っている。オ・ミョンシクは予備のボールペンを一本、机の中央へ置いた。まるで最初から、テオが戻ってくることを知っていたように。
「考えはまとまったか」
マ・サンチョルが言う。
テオは座らない。立ったまま、合意書を見下ろす。自分の名前を書く欄は、白く空いている。その下に、保護者確認欄がある。ユン・ボクスンの名前を書かせるための空欄だ。
この紙に署名すれば、嘘が事実になる。署名しなければ、祖母の夜道に何が起きるか分からない。
オ・ミョンシクが静かに言う。
「ユン。今なら、まだ穏便にできる」
穏便。
テオはその言葉の意味を、ようやく理解する。彼らにとって穏便とは、弱い者が黙って沈むことだ。水面に波を立てず、誰の記録も汚さず、ただ一人だけが底へ落ちていくことだ。
テオは机の上のボールペンを取る。
冷たい。
ただのプラスチックの軸なのに、手の中で鉄の棒のように重い。ペン先を合意書の署名欄へ近づけると、指が小刻みに震える。黒いインクが先端に集まり、小さな点になる。
その点を見つめた瞬間、テオには分かる。
ここに名前を書けば、今日の嘘だけでは終わらない。祖母の住所も、仕事先も、推薦書も、これから先ずっと彼らの手の中に残る。自分の名前は、紙の上で鎖になる。
ペン先が紙へ触れる直前、相談室の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
暗くなった一瞬、合意書の上を黒い影が這う。昨日の机に現れたものと同じ、紙片のように濃い影だった。それは署名欄を越え、保護者確認欄の白い空欄へ伸びる。
光が戻る。
影は消えている。だがテオの耳の奥で、逃げ道を探せという声が、今度ははっきり別の言葉に変わった。
まだ、名前を書くな。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
6話 届かなかった通報の夜
次の話