船がドレ島の岸壁に腹を寄せたとき、空はすでに群青へ沈んでいた。テオは手すりを離し、ほかの乗客に押されるように狭い渡し板を下りた。足元の板が海の揺れを拾い、革靴の底へ湿った振動を伝えてきた。
岸壁には、弔問用の黒い腕章をつけた男が待っていた。電話の声より少し若く見えたが、目だけは何日も眠っていない人間のものだった。
「ハン・テオ先生ですね。面事務所のキムです」
「叔父は」
「集会所に安置しています。保健支所は……今は閉めてあります」
キム係長は最後の一言を飲み込むように言った。船員が後ろでロープを巻きながら、二人を見ていた。港にいた数人の住民も、テオの顔とバッグを交互に見た。弔問客を見る目ではなかった。医師を待ちすぎた人間が、ようやく現れた相手の値踏みをする目だった。
集会所までは港から歩いて五分ほどだった。低い家々の窓には明かりがともり、どの窓にも人影があった。誰も声をかけなかった。ただ、通り過ぎるテオの背中へ、薄い沈黙だけがついてきた。
集会所の引き戸を開けると、線香の匂いと湿った畳の匂いが混ざって押し寄せた。正面に白い祭壇が組まれ、中央の写真の中で、ハン・ジョンウは少し困ったように笑っていた。白髪の混じった短い髪、潮に焼けた額。テオの記憶に残る叔父より、写真の叔父はずっと細く見えた。
弔問客たちは頭を下げる前に、まず彼の顔を見た。白い蛍光灯の下で、老女も漁師も、喪服の袖口から荒れた手をのぞかせた海女たちも、彼が誰なのか確かめるように黙っていた。
テオはバッグを畳の端に置き、祭壇の前へ進んだ。焼香台の灰は何度もかき混ぜられ、湿った線香が短く折れていた。彼は香をつまみ、額の高さへ持ち上げた。医局の朝礼よりもぎこちない動きだった。
『叔父さん』
心の中で呼んだが、続く言葉がなかった。久しぶりです、では遅すぎた。なぜ連絡しなかったのか、と問う資格もなかった。彼はただ頭を下げ、香を置いた。
その背後で、畳を踏む足音が一つ近づいた。
「それで終わりかい」
低く、かすれた女の声だった。テオが振り向くと、黒い喪服の上から薄い作業上着を羽織った女が立っていた。背は高くない。だが肩の線は強く、長い年月、海の水圧に押されても折れなかったものの硬さがあった。白髪をきつく後ろで結び、深い皺の奥の目だけが鋭かった。
キム係長が小さく言った。
「海女会長のマ・グムレさんです」
グムレは名乗らなかった。祭壇の写真を顎で示し、テオを見据えた。
「所長は一人で何週間も耐えた。熱があっても、息が苦しくても、薬を待ってる年寄りがいるからって保健支所を開けようとした。最後は机の前で倒れたんだよ。椅子から落ちる力も残ってなかった」
集会所の空気が固まった。テオは答えを探した。船員に問われたときと同じように、正しい言葉はどれも形になる前に薄くなった。
「私は、その状態を知りませんでした」
「知ろうともしなかったんだろう」
短い言葉だった。だが畳の上に置かれた弔花より重かった。
グムレの後ろで、同じ喪服の海女たちが顔を伏せた。怒りだけではない沈黙がそこにあった。長く、古い傷を覆う布のような沈黙だった。
グムレは一歩近づいた。
「十年前、うちの娘が高熱を出した。昼過ぎにはまだ名前を呼べば目を開けた。夕方、船を待っているあいだに、手が冷たくなった。島に医者はいなかった。本土の病院に着いたとき、医者は『もっと早ければ』と言ったよ」
誰も彼女を止めなかった。テオはその言葉の中に、十年分の海風と潮の苦さが詰まっているのを感じた。
「所長はそれから、この島を空けなかった。あんたの叔父は、逃げなかったんだ」
テオは祭壇の写真を見た。写真の叔父は何も答えなかった。ソウルの病棟で死を処理していたときには、遺族の怒りも悲しみも担当部署の外側に置けた。だが今、逃げ道は畳の上にも、祭壇の裏にもなかった。
「葬儀に必要な手続きは、私がします」
彼はそれだけ言った。声は自分でも硬く聞こえた。
グムレの目がさらに細くなった。
「手続き?」
キム係長が慌てて間へ入った。
「会長、今は……。先生、すみません。こちらも事情が切迫していまして」
「事情なら聞きました」
「後任の先生が来るまで、数日だけでも保健支所を開けていただけませんか。診療というほどでなくても、薬の確認だけでもいいんです。血圧の薬、糖尿の薬、発熱の子ども……所長が倒れてから、何週間も止まっています」
テオはバッグの肩紐を握った。中には白衣と聴診器がある。入れたのは癖で、使うつもりはなかった。彼の予定では、今夜弔問し、明日の葬儀に出て、必要書類に署名し、朝の便で戻る。その後に教授の赤字を直し、昇進審査の資料を提出する。
「私は葬儀のために来ました。明日、ソウルへ戻ります」
言葉に迷いは入れなかった。迷えば、その隙間から何かが入り込む気がした。
キム係長の顔が曇った。
「一日だけでも、明後日の朝まででも」
「病院での勤務があります。後任の手続きは郡庁へ正式に要請してください。私はここで診療を引き受ける立場ではありません」
グムレが鼻で短く息を吐いた。
「立場か。医者ってのは、立場がないと脈も取れないのかい」
その言葉に、集会所の端で誰かが小さく息を呑んだ。テオは反射的に言い返そうとした。緊急医療体制、行政責任、医師の配置義務。どれも正しい。どれもこの場では薄かった。
「私は、叔父の代わりではありません」
静かに言ったつもりだった。だがその一言で、畳の上の視線がいっせいに冷えた。
グムレは唇を引き結んだ。泣きそうには見えなかった。泣くことを十年前に終えて、残ったものだけで立っている人間の顔だった。
「代わりになれなんて言ってない。今、息をしている人間を見ろと言ってるんだ」
テオの喉が詰まった。祭壇の線香の煙がまっすぐ上がらず、天井近くで折れて広がった。彼は視線を落とし、畳の目を見た。ここで引き受けると言えば、戻れなくなる。引き受けないと言えば、彼は明日の朝までこの視線の中にいる。それだけのことだ、と頭では整理できた。
そのとき、集会所の外から鋭い叫び声が突き刺さった。
「誰か来て! ナムじいさんが倒れた!」
引き戸の向こうで足音が乱れた。椅子が倒れる音、女の悲鳴、誰かが庭の砂利を蹴る音が続いた。
「血圧の薬を、ずっと受け取れてなかったんだ!」
キム係長の顔から血の気が引いた。グムレが先に動き、海女たちが道を開ける。テオは一瞬だけ祭壇を見た。写真の中の叔父は、机の前で倒れたという姿のまま、彼を見返しているようだった。
次の瞬間、テオはバッグをつかんでいた。肩にかけ直す余裕もなく、バッグの口から白衣の端がこぼれたまま、引き戸へ向かって走った。
外の庭には人の輪ができ、その中心で老人が仰向けに倒れていた。誰かが震える声で叫んだ。
「先生、息が弱い! どうすればいいんだ!」
テオの背中を、集会所にいた住民たちの視線が一斉に追った。弔問に来た甥を見る目ではなかった。今この瞬間、医師であるかどうかを突きつける目だった。
その島では、雨が降る前に患者が増える
3話 夜明けの港からのSOS
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