十二台目PCの自動通知が携帯に浮かんだ瞬間、ユチャンは路地で足を止めた。
【治癒適性候補、外部機関へ接続予測】
灰色の文字はそれだけを残して消えた。ナリはまだ面接を受けるとも答えていない。だがブルーストーム側の何かは、彼女が来るものとして扱っていた。
「向こうも嗅いだか」
ユチャンは携帯を閉じた。追えば警戒される。止めればナリは理由の空白を自分で掘る。彼女には地下へ呼ばれたら断れと伝えた。今動かせるのは、それだけだった。
翌日の午後、オ・ナリはブルーストーム・アカデミー本館の前に立っていた。
ガラス張りの入口には、未来のハンターを支える治癒人材育成、という青い文字が浮かんでいる。受付の白いカウンターも、壁の宣伝映像も、奨学生を大切に扱う施設の顔をしていた。ナリは小さな鞄の中に、ユチャンから受け取った推薦状風の封筒を入れたまま、笑顔で受付へ進んだ。
「奨学生面接のオ・ナリです」
「確認いたします。治癒補助系の適性確認枠ですね」
受付係は何気なく言った。ナリは瞬きを一つ挟んだ。
「適性確認、ですか。面接だけだと思っていました」
「簡単な問診です。ご安心ください」
安心という言葉ほど、安心できないものはなかった。
番号札を受け取って待合室へ入ると、空気が少しだけ違った。椅子は柔らかく、飲み物も用意されている。だが奥の壁際に座る三人だけが、同じ色をしていなかった。若い男、女子大学生らしい女性、制服姿の少年。三人とも背筋をゆるく曲げ、目の焦点が合っていない。
ナリは空いた席へ腰を下ろし、彼らの手を見た。
三人の手の甲に、同じ傷痕があった。丸い注射痕ではない。細い線が四角く交差し、皮膚の下に小さな格子を押しつけたような跡だった。
「お疲れですか?」
ナリが柔らかく声をかけると、隣の女性が顔を上げた。
「え……はい。たぶん」
「面接、終わったんですか?」
「面接……」
女性はその言葉を口の中で転がすように繰り返した。
向かいの男がぼんやり笑う。
「終わったんじゃないですかね。僕、不合格って言われた気がします」
「言われた気がする?」
「はい。でも、何を受けたんでしたっけ」
少年が膝の上の紙コップを見つめながら言った。
「僕、さっきこの人に名前聞かれたんです」
「私が?」
「うん。たぶん。いや、違うかも」
女性は困ったように笑い、ナリへ向き直った。
「すみません。あなたのお名前、聞きましたっけ」
「まだですよ。オ・ナリです」
「オ・ナリさん」
女性は丁寧に繰り返した。五秒後、彼女は同じ顔で首をかしげた。
「すみません。あなたのお名前、聞きましたっけ」
ナリは笑顔を崩さなかった。指先だけが鞄の紐を強く握った。
同じ傷、同じ反応、短期記憶の抜け。ユチャンが言った地下という単語が、待合室の静かな空気に沈んでいく。
「手、痛くないですか」
ナリが尋ねると、三人はほとんど同時に自分の手の甲を見た。
「これ、いつの傷だろう」
「転んだのかな」
「僕、さっきまで何してました?」
誰も答えられなかった。
その頃、レベルゼロの地下倉庫では、テジュンがブルーストームの宣伝映像を止めていた。画面には、白い医療カプセルの中で笑顔の受講生が横たわっている。説明文は疲労回復支援装置と書かれていた。
「嘘ですね」
テジュンは小さく言った。
ソアは訓練用の基板を前に、指先へ熱を細く集めていた。黒いチップの足だけを溶かす課題だ。炎は見えない。けれど彼女の額には汗が浮かんでいる。
「何がですか」
「このカプセル、疲労回復用じゃありません。セジンファームの記憶抑制系機器と外部端子の規格が同じです。型番は消してあるけど、冷却管の位置が一致してる」
「記憶抑制って」
「神経興奮を落として、短期記憶の固定を遅らせる機器です。医療用なら同意と診断記録が必要です」
ユチャンは画面を見た。白いカプセルの縁に並ぶ細い端子。記憶牧場の安定槽よりずっと小さい。だが用途は同じ方向を向いている。
「予定より早い」
「予定があったんですか」
テジュンの目が上がった。ユチャンは答えを短く切った。
「ナリには面接の時間割を見てもらうだけのつもりだった。内部覚醒実験がいつ始まるか確認できればよかった」
「もう始まっているなら?」
「救助計画に変える」
ソアの指先が一瞬揺れ、基板の角が焦げた。彼女は舌打ちしそうな顔で息を吸い直し、火を畳んだ。
「ナリさん、一人で行ってるんですよね」
「だから地下は断れと言った」
「断らなかったら?」
「その時は、こっちも動く」
ユチャンの声は乾いていた。だが画面を見る右目の奥で、灰色の紋様が細く回っていた。
ブルーストームの面接室は、待合室よりさらに清潔だった。白い机、青いロゴ、笑顔の相談員。ナリの前には、若い女性相談員と、白衣を着た中年の男が座っている。
「オ・ナリさん。推薦状は確認しました。レベルゼロのチョン代表からのご紹介、ということでよろしいですか」
「道を教えてもらっただけです。紹介と言うには、少し無愛想な方でしたけど」
「面白い表現ですね」
相談員は笑った。白衣の男は笑わなかった。ナリの手首、喉元、目の動きを順に見ている。
「治癒系を志望された理由は?」
「人が痛がっているのを見るのが、あまり得意じゃないので」
「優しいんですね」
「そう見えるように努力しています」
相談員のペンが一瞬止まった。
「ご家族に覚醒者は?」
「いません」
「ご自身の未登録症状は? 手の発光、熱感、他者の痛みへの過敏反応など」
「それ、面接で聞く項目ですか?」
「適性確認です」
ナリは微笑んだまま、机の端に置かれた同意書の束を見た。表紙には簡単な問診、心理安定検査、奨学生適性評価と並んでいる。下の紙の端だけ、文字が少し違った。
神経安定化補助処置。
指で押さえられて、続きは見えなかった。
「今日の検査は、上の階だけで終わりますか」
「結果次第です。必要があれば、医療スタッフがより詳しい説明をいたします」
「地下で?」
「施設の構造をご存じなんですか」
白衣の男が初めて口を開いた。声は低く、温度がなかった。
ナリは首をかしげる。
「大きい建物は、だいたい下に機械室がありますから」
「観察力がありますね」
「褒められるほどではありません」
面接は十五分で終わった。合否はメッセージで通知する、待合室で少し待ってほしい。そう言われ、ナリは廊下へ出た。
壁際には先ほどの三人がまだいた。いや、正確には二人だった。少年の姿がない。
「さっきの子は?」
「子?」
女性がぼんやり答えた。
「制服の男の子です。一緒に座っていた」
「そうでしたっけ」
男も首を振った。
「僕、ここに一人で座ってたと思います」
ナリの背筋に冷たいものが走った。三人ではなくなったことすら、彼らは覚えていない。
廊下の奥で、職員用エレベーターのランプが地下二階を示してから消えた。ナリは歩き出しかけて、ユチャンの言葉を思い出した。
地下へ呼ばれたら断れ。
その忠告を、親切として受け取るには遅すぎた。ここで背を向ければ、少年がどこへ行ったのか分からないままになる。
携帯が震えた。
通知元はブルーストーム・アカデミー。件名は合格通知ではなかった。
【追加適性確認のご案内】
【オ・ナリ様は治癒補助系奨学生候補として、地下二階治療室へお越しください】
【所要時間:二十分】
【持ち物:番号札、本人確認証】
ナリは荷物をまとめながら、最後の行で指を止めた。
そこには、同意した覚えのない項目が、すでに手続き済みの印と一緒に表示されていた。
【処置分類:記憶安定化同意】
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
20話 地下治療室の白い警告
次の話