ユチャンはノートを閉じたまま、しばらく動かなかった。
紙の奥から滲んだ観測番号は消えている。だが消えたから安全、という種類の痕跡ではなかった。ラケイアの監視は、見つかった時点で半分は目的を果たしている。恐怖を植え、行動を急がせ、相手に自分の手で情報を漏らさせる。
『覗いているなら、次は読ませない』
彼は台所の流しに古い鍋を置き、ノートのページを一枚ずつ破った。灰色の塔の階層、門番の歩幅、登録前室の罠。三日かけて思い出した情報が、白い紙片になって鍋の中へ落ちていく。
ライターの火を近づけると、紙はすぐに黒く縮れた。安いインクの匂いがカビ臭い部屋に混じる。ユチャンは最後の一枚まで燃えるのを見届け、灰を水で潰した。
もう書かない。
一階、門番。二階、記録石。三階、処刑場幻覚。四階、存在登録前室。核室。対価。偽名。職業欄。行動履歴。
すべて頭の中に戻す。ラケイアが記憶を読むなら危険は同じだが、少なくとも紙よりは抵抗できる。記憶牧場で十年、生き残れなかった仲間の名前も、自分が何度目にどの檻で死んだかも、ユチャンは忘れなかった。忘れないことだけが武器だった。
三日間、彼は部屋をほとんど出なかった。食事はコンビニの三角キンパと水で済ませ、携帯の電源は必要な時だけ入れた。昼は眠らず、夜も深くは眠らなかった。うとうとするたび処刑台の刃が落ち、目を開けるとワンルームの天井だった。
リリース当日の午後、彼は残った現金を靴下の中と財布に分け、配達用ジャンパーを着た。誰の記憶にも残らない、疲れた若い男。鏡の中の右目に滲む灰色の紋様だけが、彼を裏切っていた。
「静かにしていろ」
返事はなかった。喉の奥の欠片は、冷たい小石のように沈黙していた。
九老の飲食店街は、夜になると揚げ油と焼酎の匂いで満ちていた。看板の光が雨上がりの路面に滲み、仕事帰りの男たちが笑いながら店へ吸い込まれていく。ユチャンはその流れに混じり、狭い階段を地下へ下りた。
ネットカフェの入口には、色褪せたポスターが何枚も貼られていた。ネオヘイル正式リリース記念、深夜パック割引、初回ログインイベント。ガラス戸の向こうから、キーボードを叩く音とカップ麺の匂いが漏れていた。
受付の老人はユチャンの顔をろくに見なかった。
「予約?」
「キムで入れてあります。六時間」
「奥の二十七番。飲み物はセルフ」
現金を渡すと、老人は釣り銭を皿に置いただけだった。身分証を出せとは言わなかった。未来の記憶どおりだった。
二十七番席は、柱の陰に半分隠れていた。監視カメラの死角ではないが、画面までは読めない。隣の客はすでにヘッドセットをつけ、ネオヘイルの公式配信を大音量で見ていた。
ユチャンは席に座ると、まず店の端末に触れず、自分の古い携帯で時刻を確認した。
二十三時十二分。
そこから彼の手は、別人のもののように動いた。捨てアドレスで作った偽アカウントを一つ起動する。ログイン失敗。別の地域の掲示板を開く。ネオヘイルの職業診断ページへ飛ぶ。すぐ閉じる。本アカウントではない配達員時代の古いメールで認証だけを通す。再び偽アカウントへ戻った。
意味のない足跡を、意味がありそうな順序で散らす。
監視する側は、乱雑な行動を嫌う。ただの初心者に見えるほど見逃し、妙に隠している行動ほど追う。だからユチャンは、隠しすぎなかった。焦っている。賞金イベントを狙っている。複数アカウントで初回特典を取ろうとしている。そう見える程度に、汚いログを重ねた。
二十三時四十六分、店内の空気が変わった。
「あと十五分!」
「俺、魔法剣士狙うわ」
「最初のランキング、絶対載る」
「配信つけろ、配信!」
あちこちで声が上がった。学生、会社員、夜勤明けらしい男、動画配信者。誰もが画面に身を乗り出していた。公式サイトのカウントダウンが一秒ずつ減っていくたび、店の熱気が上がった。
ユチャンだけが、背もたれに体を沈めていた。
『ここにいる全員が、まだ接続者じゃない』
登録処理へ入った瞬間から、彼らはラケイアの数字になる。恐怖、反応速度、欲望、職業選択、失敗時の言い訳。何もかもが餌になる。
助けたいなら、今すぐ叫ぶべきか。
一瞬だけ、その考えが浮かんだ。
だが誰も信じない。奇人扱いされ、店員に追い出されるだけだ。何より、最初の核を先に砕けなければ、警告した相手ごと監視網へ差し出すことになる。
ユチャンは奥歯を噛んだ。
『最初の嘘を通す。それが先だ』
午前零時。
公式サイトが白く弾け、店内に歓声が爆発した。画面にはネオヘイルのロゴが浮かび、虹色の職業アイコンが円形に並んだ。剣士、魔術師、射手、守護者、治癒師。派手なチュートリアル映像が次々に開き、隣の客が大声で笑った。
「おい、治癒師の初回倍率やばいぞ!」
「隠し職業どこだよ!」
「剣士で入る、剣士!」
ユチャンの画面にも同じ職業選択が表示された。だが彼はどれにも触れなかった。視界の右端、広告バナーとメニュー枠の境目。そこに、灰色の小さな塔のアイコンがあった。
普通の目なら、読み込み不良の残像に見えたはずだ。クリックできる表示ですらなかった。だが右目の紋様が熱を持った瞬間、その灰色の塔だけが、他のアイコンから一歩浮き上がった。
ユチャンはマウスを動かした。
指がクリックする直前、喉の奥で欠片が硬く鳴った。警告ではない。待機。管理者権限が、鍵穴の前で息を潜めている感覚だった。
クリック。
画面が一度暗転した。
【未公開経路へ接近】
【適性検査中】
【戦闘適性:不足】
【精神安定性:異常】
【権限整合性:不一致】
【入場拒否推奨】
赤い警告文が重なった。直後、職業選択画面へ強制的に戻されそうになる。通常ならそこで終わりだった。未来で灰色の塔を見たと語った者たちも、おそらくここで弾かれた。
ユチャンは息を止め、右目の奥へ意識を沈めた。
「拒否推奨は、拒否命令じゃない」
小さく呟くと、灰色の紋様が回転した。
喉の奥の欠片が熱を帯び、脳の内側にラケイアの管理者言語が開いた。人間の文字ではなかった。意味が骨に刻まれる。接近禁止、適性不足、未登録保護、監視保留。それらの命令の継ぎ目に、欠片が細い爪を立てた。
ロックは扉ではない。分類だった。
入場できる者を許可する構造ではなく、入場できない者を別の棚へ押し戻す構造。ならば棚の名前を変えればいい。
【対象:未登録人類】
【補助分類:コア汚染】
【処理変更:観測優先】
【入場拒否推奨を保留】
警告文が歪んだ。赤が灰色へ変わり、画面の奥で見えない歯車が悲鳴を上げた。端末のファンが異常な音を立て、キーボードの隙間から冷たい風が吹いた。
隣の客が振り向いた。
「兄さん、落ちた?」
ユチャンは画面から目を離さず答えた。
「回線が重いだけです」
次の瞬間、灰色の塔のアイコンが開いた。
派手なムービーはなかった。祝福の音楽も、案内役の声もなかった。ただ黒い背景に、細い文字が一行だけ浮かんだ。
【灰色の塔:入場処理開始】
店内の歓声が遠のいた。
キーボードの音、カップ麺をすする音、誰かの笑い声。すべてが水の中へ沈むように鈍くなった。ヘッドセットをつけていないのに、耳の奥に圧力がかかった。画面の灰色が膨らみ、机も椅子も柱も、地下ネットカフェの薄汚れた壁も、その色に飲まれていった。
ユチャンは一度だけ、携帯の時刻を見た。
零時零分十三秒。
『先に入る』
その思考を最後に、床が消えた。
足裏に、冷たい感触が戻った。プラスチックの床材ではない。凍った石だった。ユチャンは反射的に膝を緩め、転倒を避けて着地した。息を吸うと、肺に湿った土と錆びた鉄の匂いが入った。
目の前には、円形の広間が広がっていた。
天井は見えなかった。壁には灰色の石柱が並び、柱の表面を細い文字が蟲のように流れていた。背後に扉はなく、前方にだけ巨大な門があった。門の上部には、ネオヘイルのロゴではなく、ラケイア式の古い標識が刻まれていた。
分類場。
ユチャンはそれを読めてしまった。
「やはりゲームじゃないな」
声が石壁に吸われた。
その時、広間の奥で重い振動音が響いた。地面の下から巨大な心臓が脈打つように、低い音が一度、二度、三度と鳴る。門の前に積もっていた灰が、内側から押されるように崩れた。
ユチャンは右足を半歩引いた。
未来のどのハンターの記録にも、この存在の攻略法は残っていない。灰色の塔に入った者は弾かれたか、戻らなかった。つまり、この先は彼の記憶にもない領域だった。
闇の中で、何かが目を開けた。
門番の瞳は一つではなかった。石柱の隙間、門の影、床の灰の下。広間のあちこちに埋め込まれた無数の灰色の目が、同時にユチャンだけを見た。
そして、システムの文字が冷たく浮かんだ。
【第一関門:恐怖反応測定を開始】
システムすら騙すF級生産職〜人類初の覚醒者であることを隠し、廃業寸前のゲーム塾から異星への反逆を始める〜
5話 恐怖を偽った第一関門
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