「板は下ろしません」
俊瑞の返事は、白道允の青絹の令牌がまだ目の前にあるうちに響いた。
練武場の隅で、誰かが息を飲んだ。趙傑の笑みが深くなり、末端弟子たちはまた叱責の気配を感じて肩を縮める。だが俊瑞は、令牌ではなく規定板を見ていた。そこには昨日まで床を見ていた者たちの名が、まだ乾ききらない墨で並んでいる。
「外堂の修練を内堂から切り離すつもりか」
白道允の声は低かった。
「切り離しません。怪我を増やす順番に戻さないだけです」
「南宮世琳の軽功を止めることがか」
世琳の鋭い視線が俊瑞を射抜いた。さきほど偵察組候補と書かれたばかりの名。その下にある「高段階軽功保留」の文字が、彼女には鎖のように見えたのだろう。
俊瑞は帳簿を閉じず、世琳へ向き直った。
「今日から三日、軽功の高段階修練を止めます。午前は基礎歩法。午後は坂道での制動と方向転換。夜は呼吸の回復確認です」
「……私を認めたんじゃないの」
短い声だった。だがそこには怒りがあった。
「認めたから止めます」
「それ、言い訳に聞こえる」
世琳は一歩前へ出た。細い足首に力が入り、今にも線を越えて走り出しそうだった。
「峡谷で走った。崖下も、水路も、誰より先に見た。なのに今度は基礎歩法? また足を止めろって言うの?」
「峡谷で生き残れたのは、足が速かったからだけではありません」
俊瑞の声は変わらなかった。
「あなたは弓手の位置を報告し続けた。囮を見抜いて、頭目が脇道へ抜けたと報告に戻った。最後に水路の位置を守った。もし速さだけで奥へ追っていたら、円は崩れ、予備馬も失っていました」
世琳の唇がきつく結ばれた。
「だから、報告できる足にします。止まれる足にする。戻れる足にする。軽功はその後です」
納得はしていなかった。目の奥にあるのは、認められた直後に道を塞がれた者の意地だった。それでも世琳は反論を飲み込んだ。飲み込んだだけで、消したわけではない。
白道允が鼻で息を吐いた。
「言葉はうまい。才能ある弟子に足踏みを命じ、鈍い者には防御陣の中心を与える。外堂は随分と優しくなった」
俊瑞は都賢九を呼んだ。
大柄な青年は、まだ汗の残る額を袖で拭いながら出てきた。さきほど三十呼吸守り抜いた肩は赤く腫れている。
「都賢九は今日から防御陣の中心です。ただし、一人で耐える訓練はしません」
「え」
「四人一組。左右、後退補助、交代係を置きます。三十呼吸で交代。中心が息を乱したら、左右が半歩前へ詰める。倒れるまで守るのではなく、守り続けられる形を覚えます」
俊瑞は木札を並べ替えた。都賢九を中央、左右に末端弟子二人、後ろに郭進、交代時刻を小平が読む。狭門の幅は変えない。だが、都賢九だけに負担が集まらないよう、呼吸ごとの役割を細かく割った。
「二十呼吸。交代準備」
小平が叫ぶ。
右の弟子が半歩前へ出るのが遅れた。都賢九がいつもの癖で全部を受けようとした瞬間、俊瑞の声が飛ぶ。
「中央は受けすぎない。右、肩を入れる。後ろ、足場を空ける」
郭進がすぐ土嚢をずらした。都賢九は初めて、全部を背負わずに半呼吸だけ息を吸った。
「三十」
交代はぎこちなかった。だが門は抜かれなかった。二組目、三組目と続けるうち、末端弟子たちは都賢九の大きな背をただ頼るのではなく、どこを補えば彼が崩れないかを見るようになった。
その変化を、趙傑は柱の陰から見ていた。
「臆病者の囲いだな」
はっきり聞こえる声だった。
「一人で敵を割れぬ者を、四人で支える。南宮の足も止め、都の力も縛る。お前の帳簿に従えば、流河門は皆で転ばぬ練習をする門派になる」
俊瑞は返さなかった。返すより、交代の遅れを記録するほうが先だった。
だが趙傑はそれを沈黙と取った。
「本当に強くなりたい者だけ来い。絶技の入口くらい、見せてやる」
その声に、列の端にいた新入りたちが揺れた。高級招式、絶技、内堂。そういう言葉は、基礎歩法よりはるかに甘く聞こえる。俊瑞が止める前に、趙傑は数人を連れて練武場の裏手へ歩き去った。
白道允はそれを止めなかった。ただ令牌をしまい、俊瑞へ冷たい視線を残した。
「外堂が自分で責任を取ると言ったな。その言葉、忘れるな」
午後の修練が半ばを過ぎたころ、裏手から短い悲鳴が上がった。
木剣が折れる音ではない。肉と骨が無理にねじれた時の、鈍い声だった。俊瑞は筆を置き、郭進と小平を連れて走った。
裏の狭い砂地で、新入りの一人が膝をついていた。右肩が不自然に下がり、顔は土色に変わっている。趙傑の足元には、内堂の絶技訓練で使う重い木剣が転がっていた。
「動かすな」
俊瑞が言うより早く、小平が布を出した。郭進は新入りの名を聞こうとして、相手が声も出せないのを見て唇を噛む。
「肩が外れている。骨も傷んでいるかもしれません。医薬堂へ運びます。時刻、訓練内容、相手、使用武器を記録します」
「書くな」
趙傑の声が落ちた。
俊瑞は顔を上げた。
「負傷記録です」
「そいつには俺が内堂の絶技を見せた。外堂の帳簿に、内堂の修練名を載せるな」
「負傷者は外堂の新入りです」
「だから何だ。お前が道を塞いだから、こいつらは俺のところへ来た。高級招式を禁じた結果だろうが」
趙傑が歩み寄り、俊瑞の手元の帳面をつかもうとした。郭進が反射的に間へ入る。吊っていた腕の癖がまだ残っているのに、彼は右肩で帳面をかばった。
「どけ、郭進」
「負傷者の名は、消せません」
「お前まで紙の番犬か」
趙傑の手が郭進の襟をつかんだ。都賢九が遅れて駆けつけ、二人の間に大きな身体を入れる。世琳も砂地の端へ現れた。彼女の目は負傷した新入りの肩に一瞬止まり、次に趙傑へ向いた。
「絶技って、肩を壊すこと?」
「口を閉じろ」
趙傑が剣の柄に手をかける。都賢九の肩がこわばった。周囲の弟子たちが一歩ずつ退き、砂地の中心だけが空いた。
俊瑞は帳面を胸元に引き寄せ、低く言った。
「治療記録を先に取ります。責任の話はその後です」
「責任?」
趙傑が笑った。
「責任を取るのはお前だ。外堂の道を閉ざし、弟子に焦りを植えつけ、怪我人を出したのは誰だ」
その時、練武場の入口側から杖の石突きが地を打つ音がした。
一度。二度。
騒ぎが割れるように静まった。白い眉の下に冷たい目を宿した閔光が、数人の古参弟子を従えて歩み入ってきた。追い払われたはずの影が、また練武場の中央へ戻ってきたようだった。
閔光は負傷した新入りを一瞥し、次に俊瑞の帳面を見た。
「見よ。下級弟子に帳簿を持たせ、武功の道を断てば、こうなる」
低い声は、練武場の端まで届いた。
「李俊瑞。お前は弟子を守る名目で、弟子から武人になる道を奪った。その果てに負傷者を出した。今日この場で、外堂運営の罪を問う」
俊瑞の指が帳面の背を強く押さえた。新入りの苦しげな息、世琳の怒り、都賢九の震える肩、郭進の白い顔。そのすべての前で、閔光はゆっくりと杖を上げた。
「門主へ報告するまでもない。まず、お前の記録が弟子を殺す毒であることを、この練武場で証明してやる」
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
14話 消えた霊薬と長老の印
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