小平の声が消えたあと、帳簿庫の前にいた者たちは同じ方を見た。
封じられた扉ではない。俊瑞の袖をつかんだまま息を切らす小平と、その口から出た赤字という言葉だった。江湖盟の鉛印はまだ新しく、灰色の封印紐は帳簿庫の扉に冷たく張っていた。
沈有剛の視線が俊瑞へ移った。
「封じた直後に、別の記録が出るか」
低い声だった。責める調子ではない。だが、大殿で刃を抜かれるより重かった。封印された原本と外に残った記録が食い違えば、帳簿を動かしたと見なされる。しかも今、扉は江湖盟の印で閉じられたばかりだった。
俊瑞は小平の手を静かに外した。
「帳簿庫には触れません」
沈有剛の眉がわずかに動いた。
「開けぬまま、どう照合する」
「医薬堂に、外部保管表があります。原本ではありません。処置の当日確認と、担当者確認を残した写しです。封印前に提出目録へ載せたものと、同じ系統です」
白書河の筆先が紙に落ちた。
「外部保管表。原本から外した写し、ですね」
「原本を守るためではなく、原本が閉じられた時に現場が止まらないように置いたものです」
俊瑞はそこで韓白林を見た。門主は短くうなずいた。隠すな、という命令のままだった。
「沈監察官。医薬堂へご同行ください。封印には触れず、そこに残る手順だけをお見せします」
沈有剛はしばらく封印紐を見た。やがて腰牌に指を触れ、短く言った。
「案内しろ」
医薬堂へ向かう道は長くなかった。だが、その短い回廊を歩く間、弟子たちの息遣いはやけに大きく聞こえた。小平は半歩後ろで、まだ顔を青くしている。郭進は医薬堂の戸を先に開け、柳建は椅子から立とうとして小平に睨まれ、すぐ座り直した。
棚の横には、壁に貼る外用写しとは別に、薄い木板を挟んだ小帳が置かれていた。小平が震える手でそれを差し出しかけたが、俊瑞は受け取らなかった。
「小平。いつもの手順で開けろ」
「お、俺が?」
「担当者確認だ。俺が持てば、今ここで疑いが増える」
小平は喉を鳴らし、両手で小帳を開いた。最初の頁には、医薬堂内補助、回復組、処置者、受領者、当日写し、外部保管の五欄があった。筆跡は小平だけではない。郭進、柳建、医薬堂の年長弟子、時には俊瑞の細い確認印も並んでいた。
白書河が身を乗り出した。
「赤字はどこです」
小平は頁をめくった。柳建の回復経過、脚の腫れ、歩数、痛みの強さ。そこは前日の監察でも見せたものだった。さらに数枚めくると、昇級申請から外れた弟子の移動欄が現れた。
その一行だけ、墨の色が違っていた。
黒字で書かれた名の横に、赤で小さく「医薬組仮配」と追記されている。
「これです。封じた昇級表には、剣隊申請取下げまでしか載ってないはずです。でも、こっちには赤字で医薬組仮配って……」
白道允が後ろで息を吸った。
「それはまずい。封印された昇級表にない配置なら、後で加えたと取られる」
俊瑞は赤字の行を見た。名は宋礼。剣隊志望だったが、対練での反応が遅く、薬草分類と細工仕事が異様に早かった弟子だ。細い指で針を扱い、負傷者の布留めを誰より正確に整えた。
「宋礼を呼べますか」
郭進が外へ走り、ほどなく痩せた青年を連れて戻った。宋礼は顔を強張らせ、手を袖の中に隠していた。
沈有剛が問うた。
「お前は剣隊から外されたのか」
宋礼は唇を噛んだ。答えれば弱いと見られると思っている顔だった。俊瑞は先に口を開かなかった。ここで代わりに説明すれば、本人の記録をまた誰かの言葉で塗ることになる。
宋礼は小さく頭を下げた。
「外された、と思いました。最初は」
「今は」
「医薬堂で布を留めるほうが、俺は役に立ちました。薬草名も覚えられます。剣隊は……申請を取り下げました。誰かに命じられたのではありません」
白書河が小帳の別頁を開く。
「なぜ昇級表ではなく、ここに赤字で」
俊瑞は壁際の細い棚を指した。そこには小さな札が並んでいる。黒札は確定、白札は未定、赤札は担当者確認待ち。医薬堂の者なら誰でも見える位置だった。
「昇級表は許可の流れです。宋礼の剣隊申請取下げはそこに載ります。医薬組仮配は、医薬堂内の担当確認です。正式配置ではありません。実際に三日間薬草分類と布留めを行い、医薬堂の担当者が確認してから、配置表へ移します」
「では、なぜ赤字なのです」
「未確定だからです。確定したものを黒にする。未確定のまま弟子を動かせば、誰が責任を持ったか分からなくなる」
小平が急いで別の紙を出した。
「こ、ここです。宋礼の担当者確認。初日、薬草分類七割。二日目、九割。布留め、十回中十回。処置者は俺じゃなくて、医薬堂の梁兄が見てます。俺だけの字じゃない」
梁という年長弟子が呼ばれ、硬い顔で前に出た。
「間違いありません。宋礼は剣を振るより、布と針が正確です。負傷者の手首を固定する時、ずれが少ない。仮配を勧めたのは私です」
沈有剛は宋礼の手を見た。袖の中から出された指は細く、爪の横に薬草の染みが残っていた。剣だこは薄い。だが布を裂かずに結ぶ動きには、確かに無駄がなかった。
「手先が器用な者を剣隊から医薬組へ回す。本人が望まぬ場合はどうする」
俊瑞はすぐ答えた。
「三日の仮配で終えます。剣隊申請に戻せます。その場合、医薬堂で得た確認は支援欄に残りますが、昇級の妨げにはしません」
白書河が別の行を示した。
「この者は、防御陣から補給組へ移っていますね」
「腰を痛めたまま前列に立っていた者です。持てる重量は少ないが、棚番号と残数の記憶が正確でした。補給組で薬材箱の封糸を確認しています」
「この者は偵察組から記録役へ」
「走ると遅い。ですが足跡の向きと人数を書き間違えない。世琳の組で、戻った者の報告を地図へ落とす役です」
問いは続いた。誰がどの基準で昇級したのか。誰がどの基準で保留されたのか。高級招式に進めなかった者は、単に弱いから外されたのか。それとも別の持ち場へ回されたのか。
俊瑞は一つずつ、紙を指して答えた。出席率だけでなく、負傷報告、危険報告、支援、担当者確認。長老印の前に押された自分の印は、許可ではなく事実欄の空白を防ぐためのものだと、同じ説明を繰り返さず、実際の弟子の名で示した。
やがて沈有剛は黙った。
医薬堂の中には薬草の匂いと、筆が紙を擦る音だけが残った。白書河も筆を止めていた。完全に納得した顔ではない。むしろ、別の問題を見つけた顔だった。
「隠したものは、今のところ見えません」
白書河は静かに言った。
小平が息を吐きかけた瞬間、沈有剛が続けた。
「だが、基準そのものが人を押し出すことはある」
医薬堂の空気がまた固まった。
「剣隊に進めぬ。高級招式に届かぬ。本人が納得したと言っても、納得せざるを得ない形を作っていれば同じだ。門派の外へ出る者はどう記録している」
俊瑞の指が止まった。そこは次に問われると分かっていた。だが、この場で来るには早い。
白書河は袖の内から、別の薄い名簿を取り出した。流河門の紙ではない。洛陽分舵の保管紙だった。縁が擦れ、古い朱印が斜めに押されている。
「分舵にも、流河門を去った弟子の名簿があります」
韓白林の顔が険しくなった。白道允も一歩前に出かけ、沈有剛の視線に止められた。
白書河は卓の上に名簿を広げた。
三つの名が並んでいた。蒼龍道場へ移籍、白水門へ移籍。その二つは黒字だった。だが最後の一人の横だけ、赤い筆で短く記されていた。
行方不明。
宋礼が息を呑み、柳建の椅子が小さく鳴った。小平の顔から、戻りかけた血の気がまた消えた。
沈有剛は名簿の赤字を指先で押さえた。
「李俊瑞。この者も、基準に合わず門派の外へ押し出された弟子か」
大殿へ戻る前に、医薬堂の温度が一段下がった。俊瑞はその名を見つめた。記憶にある。消した名ではない。だが、分舵の紙では、もう門派の手を離れた者として赤く沈んでいた。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
34話 追跡帳簿が証明した道
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