「柳建(ユ・ゴン)を運ぶ」という沈有剛(シム・ユガン)の言葉は、その夜の医薬堂に長く残った。
小平(ソピョン)はすぐに反論しかけたが、俊瑞(ジュンソ)が目で止めた。拒めば、流河門(りゅうかもん)は回復帳を盾にして実地を避けたと見なされる。受ければ、柳建の脚は監察官の前で晒される。
柳建は椅子の上で、固定板を両手で押さえたまま唇を噛んだ。
「俺、歩けません」
「歩かせないための任務戦だ」
俊瑞は短く答えた。
「お前は負傷者役だ。立つな。痛みが出たら声に出せ。隠したら減点ではなく、こちらの配置が崩れる」
柳建はうなずいたが、顔色は戻らなかった。
翌朝、練武場にはいつもの修練とは違う線が引かれていた。北側の入口から南東の木杭まで、白い石灰で曲がった通路が作られ、その途中に狭門、倒れた荷箱、低い柵が置かれている。目標地点には江湖盟(こうこめい)の小旗が刺さっていた。
沈有剛は中央に立ち、木剣の束を弟子たちへ示した。
「刃は使わぬ。内功を木剣に通すことも禁ずる。負傷者役への故意の打突は失格とする。勝敗は敵を倒した数ではない。負傷者を目標地点まで守って運べたか、任務完了の有無で記録する」
白書河(ペク・ソハ)がその言葉をそのまま書き取った。
観客席代わりに設けられた西側の段には、流河門の弟子だけでなく、監察に同行した洛陽(らくよう)分舵の者、近くの門派から様子を見に来た武人も混じっていた。その一角から、低い笑いが漏れる。
「負傷者を運ぶ? 門派対練で雑役の真似か」
「流河門らしい。絶技も剣気も見せられんから、荷運びで勝つつもりだ」
「黑雲館(こくうんかん)なら、三呼吸で陣を割る」
その名が出た時、俊瑞はそちらを見なかった。ただ、戦況板の横に並べた小石を一つずつ確認した。味方は六人。柳建を寝板に乗せ、両側を郭進(クァク・ジン)と小平が支える。前の狭路を都賢九(ト・ヒョング)が塞ぎ、左右と後方の動線を世琳(セリン)が見る。趙傑(チョ・ゴル)は遊撃ではなく、後詰めとして空いた穴を埋める位置に置いた。
趙傑は木剣を握りしめ、何度も足を踏み替えていた。
「俺を後ろに置くのか」
「前へ出れば、寝板の後ろが空く」
「相手が来たら、斬って退ければいい」
「今日は斬った数を数えない」
俊瑞がそう言うと、趙傑は歯を食いしばった。反論したい顔だったが、沈有剛の前で勝手に布陣を崩すほど愚かではなかった。
「世琳。相手三人の最初の足を見る。速い者ではなく、誰が誰を見ているかを報告しろ」
「分かりました」
「都賢九。通路は押し返すな。止めろ。背中の半歩後ろに寝板があると思え」
都賢九は太い指で木剣を握り直した。
「通さない。前に出すぎない」
「郭進、小平。柳建を持ち上げる時は声を合わせる。痛みの確認は小平、進行方向の確認は郭進。どちらかが迷ったら止まれ」
小平が早口で復唱し、郭進は寝板の紐を確かめた。柳建は板の上で深く息を吸っていた。右脚の固定布は昨日より厚く巻かれ、揺れを抑えるため両側に薄い竹板が添えられている。
南側の門から、相手役の三人が入ってきた。
洛陽分舵の武人という触れ込みだった。だが、歩き方は均一で、肩の力の抜き方に門派修練の癖が見える。三人とも黒に近い紺の武服を着ており、腰の帯には分舵の札を下げている。内功は抑えているはずなのに、近づくほど肌に冷たい圧が触れた。
世琳の目が細くなった。
「右の男、先に都賢九を見る。中央は寝板。左は私ではなく、趙傑兄を見ています」
俊瑞は戦況板の石を一つ動かした。
「最初は都賢九に来る。趙傑、誘われるな」
趙傑の眉が跳ねたが、返事はした。
「分かっている」
沈有剛が片手を上げた。
「始め」
銅鑼の音が鳴った瞬間、相手三人の気配が変わった。
予想通り、右の男が都賢九へ真っすぐ踏み込む。木剣の打突は重く、受けた都賢九の足元の砂が薄く跳ねた。続いて中央の男が斜めから入り、都賢九の肩口を狙う。二人で巨体を釘付けにし、左の男が趙傑の正面へ鋭く入った。
趙傑が反射的に前へ出そうになる。
「趙傑、後ろの線!」
俊瑞の声に、趙傑は踏み込みを半歩で止めた。その半歩の遅れを、左の男は笑ったように見えた。剣先が趙傑の右へ流れ、寝板の後方へ差し込まれる。
「後ろ、空く!」
郭進が叫ぶより早く、世琳の手が上がった。従来の右手合図ではない。彼女は二本の指を横に振り、偵察組で使う接近方向変更の合図を出した。
小平がそれを見て寝板の後ろを半歩下げる。郭進は前へ引かず、斜めにずらした。柳建の板は揺れたが、脚には触れなかった。
「右後ろ、半歩詰めろ!」
都賢九が自分を攻める二人を受けながら、後方へ声を出した。防御陣の癖だった。押し返さず、相手の剣を受け止め、通路の幅だけを消す。
観客席から、また笑いが起きた。
「おいおい、逃げてばかりだ」
「剣を合わせる気がないぞ」
「雑役陣形だな」
だが、白書河の筆は止まらなかった。沈有剛も相手の打突より、流河門側の足の位置を見ていた。
一つ目の狭門に入る直前、相手の中央の男が急に身を沈めた。都賢九の膝を狙う角度だった。都賢九が受ければ視線が下がり、右の男が肩を押して陣を裂く。寝板は狭門の前で止まり、後ろから左の男に詰められる。
俊瑞は戦況板の上で、赤い石を一つ横へ滑らせた。
「世琳、空白二!」
世琳が動いた。前に出るのではなく、狭門の外側を走って、相手中央の男の退路に影を落とす。剣は当てない。ただそこに立つだけで、男の足が一瞬止まった。
「今」
郭進と小平が声を合わせた。
「上げる!」
寝板が低く持ち上がり、狭門の敷居を越える。柳建が息を詰めた。
「痛み」
小平が叫ぶ。
「強い、でも行ける!」
柳建の声は震えたが、隠していなかった。
その一言で、郭進の足が迷わず前へ出た。都賢九は二人分の打突を肩と木剣で受け、趙傑は後方の差し込みを横から払った。派手な斬撃ではない。だが、寝板は止まらなかった。
嘲笑は少し弱くなった。
二つ目の障害、倒れた荷箱の前で、相手三人は一度距離を取った。息を整える仕草ではない。目配せだった。右の男が都賢九の外側へ回り、中央の男が正面を押さえ、左の男が趙傑を引き出す。最初と同じ狙いだが、今度は速度が上がっていた。
「同じ穴を、深くする気です」
世琳が短く報告した。
俊瑞はうなずいた。
「穴を変える。都賢九、一呼吸早く下がれ。趙傑、前で受けるな。郭進、荷箱の左。小平、痛み確認の後に二歩だけ速める」
「二歩だけか!」
小平の声が裏返る。
「三歩目で揺れる」
指示は戦況板の石より速く飛んだ。流河門の弟子たちは、剣を振る前に位置を直した。相手の打ち込みは鋭く、都賢九の肩が大きく揺れる。趙傑は唇を切るほど噛みながら、追いかけずに後ろの線を守った。
寝板が荷箱の左を抜ける。
安定しかけた。
その刹那、相手中央の男の目つきが変わった。
木剣の先が柳建の胸ではなく、固定された右脚へ低く落ちる。ただの打突ではない。木剣の肌に、薄い白気が走った。禁じられているはずの内功が、刃のない木の先へ集まっていく。
俊瑞の背筋が冷えた。
「内功だ!」
白書河の筆が止まり、沈有剛の手が腰牌へ伸びる。だが、声より剣先の方が早かった。男は任務戦の相手ではなく、治りきっていない脚を壊すための敵の目で笑った。
柳建の顔から血の気が消える。
木剣が、固定布の上へ一直線に落ちた。
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
36話 黑雲館の木牌が暴く策謀
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