男の喉がひくりと動いた。
沈有剛(シム・ユガン)は砂の上の木牌を拾い上げた。指先で雲を裂く牙の紋をなぞり、裏面の刻みまで確かめる。その目が、練武場の熱を一段低くした。
「対練を中止する」
短い一言で、残っていた構えが解けた。相手役の右と左の男は木剣を下ろし、中央の男だけが膝を固くしたまま沈有剛を見上げていた。
「洛陽分舵の監察対練に、黑雲館(こくうんかん)の伝令木牌を持ち込んだ理由を答えろ」
「拾っただけです。昨日、宿の前で……」
言い終える前に、沈有剛の掌が男の肩へ落ちた。強く押したわけではない。だが男は息を詰まらせ、木剣を砂へ落とした。
「次に嘘を言えば、監察妨害として縛る。お前は木剣に内功を通し、負傷者役を狙った。偶然で通ると思うか」
白書河(ペク・ソハ)の筆が走った。観客席の武人たちは互いに顔を見合わせ、誰も口を挟めなかった。
俊瑞(ジュンソ)は柳建(ユ・ゴン)の脚を確かめる小平(ソピョン)の背を見ながら、怒りを喉の奥へ押し込んだ。ここで声を荒らげれば、男の罪ではなく流河門の感情として記録される。都賢九(ト・ヒョング)の肩は腫れ始めていた。だからこそ、紙を先に出さなければならなかった。
男はしばらく歯を食いしばった。だが沈有剛が木牌を目の前にかざすと、表情が崩れた。
「……頼まれたんです」
「誰に」
「黑雲館の、謝叡良(サ・エリャン)殿に」
練武場に低いざわめきが広がった。趙傑(チョ・ゴル)が一歩前へ出かけ、俊瑞の視線で止まる。南宮世琳(ナムグン・セリン)はすでに観客席の出入口を見ていた。逃げる者がいないか数えている目だった。
沈有剛は表情を変えなかった。
「何を頼まれた」
「流河門は、帳簿と配置ばかり信じる。相手が少し規則を外せば崩れる。その場面を、監察官の前で見せてほしいと。負傷者役を狙えば、あの表は人を守るどころか足を引っ張ると……」
「木剣に内功を通せとも言われたのか」
男は答えなかった。それが答えだった。
俊瑞の胸の奥で、冷たいものが鳴った。沈有剛の第一問、分舵名簿の赤字、柳建を運ぶ任務戦。問いの形は、偶然ではなかった。誰かが告発状の外側から、監察の視線まで曲げようとしていた。
「木牌は連絡用か」
「はい。終わった後、北市の茶楼へ持って来いと。うまく崩せば、黑雲館が分舵での口添えを……」
「十分だ」
沈有剛は木牌を白書河へ渡した。
「証物として記せ。所持者名、対練中の違反、謝叡良の名、すべて別紙に分けろ」
白書河はうなずき、墨を足した。紙の上で、今まで流河門へ向いていた刃が、少しずつ向きを変えていく音がするようだった。
俊瑞は小平へ目配せした。
「先月分の記録束を」
「今、持ってくる」
小平は医薬堂側の棚へ走った。しばらくして戻った腕には、紐で縛った薄い束が三つあった。清水村、白岩村、月下村、東林の渡し場、北門夜襲。表題は地味で、血も火も描かれていない。ただ日付、時刻、伝令者、木牌番号、暗号句、不一致の欄が並んでいた。
俊瑞はそれを沈有剛の前へ置いた。
「先月分です。黑雲館が偽の噂、偽の急報、木牌の複製で巡察網を乱した経緯を整理してあります。こちらは白岩村の偽報、こちらは月下村の偽木牌、こちらは北門交代の二十分を狙った作戦書の写しです」
沈有剛は一枚ずつめくった。目の動きが速い。だが粗くはない。白書河も横から紙面をのぞき、木牌文様の押し型の写しを見つけて筆を止めた。
「同じ紋の押し方です」
白書河が低く言った。
「線の欠けが、今日落ちた木牌の右下と一致しています。複製ではなく、同じ版木から来た可能性があります」
俊瑞はさらに一枚を出した。
「告発状が届く前から、黑雲館は流河門の木牌確認を乱そうとしていました。今回だけ別の筋とは考えにくい」
言葉を抑えたつもりだった。だが最後の音には、どうしても怒りが混じった。柳建の脚を狙わせた者。都賢九の肩を折りかけた者。紙で人を守る仕組みを、紙で人を壊す罠に変えようとした者。
韓白林(ハン・ベクリム)がゆっくり前へ出た。青灰色の長袍の裾に、練武場の砂が付いている。門主は沈有剛ではなく、まず弟子たちの方を見た。
「掲示を外すべきだと考えた時があった」
白道允(ペク・ドユン)の顔がわずかに強張る。趙傑も視線を落とした。韓白林は続けた。
「体面を守れば、監察をやり過ごせると思った。弱さや回復の欄を隠せば、門派が軽く見られぬと考えた。誤りだった。隠せば、敵の書いた筋書きだけが残る」
その声は大きくなかった。だが大殿で閔光(ミン・グァン)を裁いた時と同じ重さがあった。
「流河門は、提出したものを取り下げぬ。足りぬ欄があれば足りぬと記す。誤った判断があれば、門主の判断として記せ」
白書河の筆が、また走った。
俊瑞は韓白林へ深く頭を下げた。救われた気はしなかった。守らなければならないものが、また一つ増えただけだった。
沈有剛は束を閉じ、木牌をその上に置いた。
「告発の信憑性は揺らいだ」
練武場のあちこちで息が漏れた。だが沈有剛は、その安堵を許すような男ではなかった。
「ただし、それは告発者の一部に策謀があるという意味だ。流河門の体系そのものが江湖盟の基準に合うかは、最終報告で判断する。任務戦は完了。違反は相手役側。黑雲館との関与は別件として調べる」
趙傑が低く息を吐いた。都賢九は小平に肩を押さえられながら、柳建の脚だけをまだ見ていた。柳建は寝板の上で唇を震わせ、小さく言った。
「俺、言えました」
「書く」
郭進(クァク・ジン)が短く返した。
その一言で、俊瑞はようやく拳を緩めた。壊されなかったのは脚だけではない。痛みを声に出すという、作り直したばかりの細い道も折れずに残っていた。
だが白書河は、沈有剛の指示を書き終えても立ち去らなかった。彼は告発状の写しが置かれた机へ近づき、一枚目だけをそっと取り上げた。紙を光へ透かすのではなく、文字の払いと止めを追っている。
俊瑞はその動きに気づき、近づいた。
「何か」
白書河はすぐには答えなかった。告発状の一行目、そして末尾の崩した署名のない文を見比べる。細い眉が、初めてはっきり寄った。
「李俊瑞殿」
声は、周囲に聞こえないほど低かった。
「閔光が追放時に残した誓約文は、まだ保管されていますか」
俊瑞の背筋が冷えた。
白書河は告発状の一枚目を折らずに差し出し、墨の最後の一画を指で示した。
「この筆跡。閔光の誓約文と、同じではありませんか」
剣気より業務マニュアル 下級武人になった大企業代理、帳簿一冊で長老を裁く
38話 閔光、帳簿庫に火を選ぶ
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