葬儀場の照明が、まぶたの裏を焼いた。
白い花の匂い。冷えた床。黒い喪服の袖口。誰かが小さな声で「若いのに」とささやき、二十三歳のナギョンは焼香台の前で頭を下げていた。遺影の中の母は、見守りカメラで見た写真と同じ淡いブラウスを着て、もう二度と咳もしない顔で笑っている。
ナギョンは悲鳴を上げたつもりだった。だが喉から出たのは、潰れた息だけだった。
旧郵便局の床へ意識が戻った時、夜は薄く明け始めていた。非常口の隙間から青白い光が差し、埃の上に細い線を作っている。彼女は便箋と携帯を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
『違う。お母さんは、あのあともいた』
心の中でそう言うたびに、別の記憶が静かに割り込んできた。入学式の前夜、母が安物のスーツの裾を直してくれた記憶。弁護士試験の朝、焦げたトーストを笑いながら皿に置いた記憶。その温かい場面の上へ、白い病室と酸素マスク、葬儀場の受付台が重なっていく。
二つの人生が同じ場所を奪い合い、ナギョンの頭の中で軋んだ。
彼女は床に落ちた未投函の封筒を拾い、鞄へ押し込んだ。今すぐ過去へ何かを書きたい衝動が喉元まで込み上げたが、指は動かなかった。最初の二文が何を壊したのか、いま見たばかりだった。
旧郵便局を出ると、雨は止んでいた。再開発区域の仮囲いの向こうで、作業員の影が早朝の準備を始めている。撤去告知の紙は湿って波打ち、『残り二日』の赤い字だけがやけに鮮やかだった。
ナギョンはタクシーを捕まえ、自宅へ戻った。部屋の空気はいつもと同じはずなのに、玄関を開けた瞬間、線香の残り香のようなものが鼻を刺した。本棚の上の額縁は、カメラ映像で見た通り、黒いリボンを掛けられた遺影になっていた。
彼女は額縁を両手で抱えた。
ガラス越しの母の笑顔は、昨日までの家族写真より少し遠かった。いや、遠くなったのは母ではない。ナギョンのほうだった。本来ならまだ何年も聞けたはずの声を、未来から送った浅い警告で、自分が三か月分どころか数年分まとめて奪ったのだ。
「ごめん……お母さん」
謝っても、写真はただ静かだった。
ナギョンは遺影を抱えたまま事務所へ向かった。自宅にいれば崩れてしまうとわかっていた。事務所なら記録がある。保険、医療費控除、戸籍、何かが変わっているはずだった。弁護士としての癖だけが、辛うじて彼女の足を動かした。
明け方の事務所には誰もいなかった。ミンソの机に積まれたファイル、消し忘れたコピー機の待機ランプ、窓の外を走る始発バスの音。ナギョンは自分の部屋へ入り、ドアを閉めた瞬間、足から力が抜けた。
遺影になった家族写真を抱えたまま、彼女は床に崩れ落ちた。
冷たい床が膝に当たる。母の額縁が胸に食い込む。ナギョンは額をガラスに押し当て、声を殺せなかった。十年間、依頼人に泣く場所を選ばせてきた自分が、今は朝の事務所の床で、子供のように息を乱していた。
「私が、待たないでって書いたから……」
言葉にすると、罪はもっと形を持った。
母は病気だった。治療しても苦しかっただろう。手術がすべてを救ったとは限らない。弁護士としての冷静な部分はそう考えようとした。だが新しく上書きされた記憶は容赦なかった。検査の遅れ。手術日程の見送り。費用の調整に走り回った二十三歳の自分。もっと早ければ選べた治療が、次々と消えていく場面。
母は三か月後に亡くなっていた。
その事実が、最初から決まっていたことのように、ナギョンの中へ沈み込んでいる。
彼女は床を這うようにして机の下へ手を伸ばした。下段の引き出しには、古い戸籍謄本や医療費控除資料をまとめた書類封筒が入っている。母が生きていた本来の時間では、年末調整の控えと古い診断書の写しだけが入っていたはずの封筒だった。
指先が紙の端に触れた瞬間、ナギョンは息を止めた。
封筒が厚い。
昨日までなかった重みだった。
彼女は震える手で封を開いた。中から出てきたのは、古い領収書、入院費明細、同意書の写し。そして一番奥に、薄い灰色の用紙が折り畳まれていた。
死亡診断書。
その四文字を見た瞬間、世界の音が消えた。
氏名、イ・スンヒ。死亡日時、二〇一四年二月十八日、午前四時二十一分。死亡場所、ハンビッ医院。直接死因の欄には小さな医学用語が並んでいたが、ナギョンには意味より日付だけが刺さった。
二〇一四年二月二十日。
それは、ナギョンがロースクール最終合格の通知を受けた日だった。
死亡日は、その二日前だった。
新しい記憶がさらに流れ込んだ。合格発表の画面を開く二十三歳の自分。喪服のまま、追悼館の控室で携帯を握っている。『最終合格』の文字が表示されても、隣で喜んでくれる母はいない。泣くことも笑うこともできず、ただ画面を消す。誰かからの祝福の電話に出られず、弔問客の少ない廊下へ出て、壁に背をつけて座り込む。
本来の記憶では、母はその日、病院のベッドで電話越しに笑ってくれた。声は弱かったが、「よくやった」と言った。ナギョンはその一言を、長いあいだ支えにしていた。
その一言が、いま消えた。
「返して……」
ナギョンの声は、誰にも届かなかった。
死亡診断書の紙面に涙が落ちる。彼女は慌てて袖で拭ったが、インクはにじまなかった。まるでこの世界のほうが正しいと言うように、文字は冷たく乾いていた。
その時、床に置いていた二十三歳の自分からの手紙が、かすかに震えた。
ナギョンは涙の中で顔を上げた。便箋の最後の行は、会計窓口の前で若い自分が泣いたところで終わっていたはずだ。だが紙の下端に、薄い水染みのような灰色が広がっている。
遅れて、新しい文がにじみ始めていた。
彼女は死亡診断書を床へ置き、便箋を両手で持ち上げた。インクはためらうように濃くなり、若いナギョンの乱れた筆跡へ変わっていく。
『追伸。これを書いたあとで、もう一つわかったことがある』
ナギョンの呼吸が止まった。
『私はウジンを追い返した。お金も返そうとした。それなのに、三日後、会計で残金が入っていると言われた。手術費の不足分だって。誰が入れたのか聞いたけど、匿名だと言われた。窓口の人も、名前を残さないよう頼まれたみたいだった』
便箋の上で、文字が一度途切れた。
ナギョンの脳裏に、廊下を去っていくウジンの背中が浮かんだ。俺のことはもういい、と言った声。返された封筒をまた握らせた手。突き放されてもなお、母の検査だけは受けさせろと言った男。
『でも、金額が大きすぎた。どうしても気になって、会計の書類を見せてもらった。写しはもらえなかったけど、あとで窓口の人がこっそりコピーを一枚くれた。差出人はわからないって言っていた。私にも、わからない』
最後の一文がにじみ終わった瞬間、封筒の内側で何かが擦れた。
ナギョンは反射的に封筒を持ち上げた。折り目の奥から、小さくしわくちゃになった紙片が滑り出す。床に落ちたそれは、古いコピー用紙の切れ端だった。端は何度も握り潰されたように波打ち、黒い印字の一部だけが見えている。
振込票の写し。
ハンビッ医院会計窓口の丸い判が、薄く残っていた。
ナギョンは手を伸ばしかけて、指先を止めた。紙片は裏返しに落ちている。金額らしき数字と日付は端に見えるのに、入金者欄だけが床を向いていた。
彼女の胸の奥で、消えたはずの消印の音がもう一度鳴った。まるで、その名前を読めと命じるように。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
14話 チョン・ウジンの振込票
次の話