白い便箋は、机の上の資料よりずっと頼りなく見えた。
ナギョンは万年筆を握ったまま、最初の一行を書けずにいた。今すぐ書くべき言葉は、いくらでも思いついた。ウジンを拒まないで。病院へ来るなと言わないで。彼を信じて。けれど、そのどれもが、十年前の自分の首へ別の鎖をかける命令に変わりそうだった。
「軽く書けば、また壊す」
声に出すと、会議室の蛍光灯がかすかに鳴った。
ミンソは向かいの席で資料をめくっていた。ナギョンが詳しい事情を語らないままでも、彼女は何も聞かず、赤い付箋を貼った紙を時系列に並べていく。
「先生、ハンビッ医院のほう、目録だけじゃなくて会計ログの抜粋もありました。清算時にバックアップされたデータらしいです」
「見せて」
差し出されたコピーは、印字がかすれていた。だが日付と時刻は読めた。二〇一三年十一月十五日、イ・スンヒ、精密検査予約保留。理由、保証金未納。窓口処理、午後六時四十二分。
ナギョンの指がその行で止まった。
「保留……」
「はい。次の空き枠は翌週扱いになっています。ただ、その下を見てください」
ミンソが別の紙を重ねた。二〇一三年十一月十五日、現金入金。患者名、イ・スンヒ。入金時刻、午後八時十二分。処理者、パク・ギョンジャ。入金者欄は、個人名未登録。備考に、匿名希望。
二時間にも満たない空白が、紙の上に開いていた。
未納で検査が止められた午後六時四十二分。匿名の現金が入った午後八時十二分。そして、以前届いた写真の撮影時刻は午後八時十四分だった。ハンビッ医院向かいの路地で、ウジンが貸金業者らしき大柄な男に胸ぐらをつかまれていた、あの写真。
ナギョンは机の端に置いた印刷写真を引き寄せた。雨にぼやけた街灯の下、若いウジンの肩が壁へ押しつけられている。封筒を握った手だけが、やけに白く浮いていた。
「払って、すぐ捕まったんだ」
ミンソが小さく顔を上げた。
「先生?」
「いい。続けて」
聞かせるには、まだ足りなかった。けれどナギョンの中では、残酷なほど線がつながっていった。ウジンは病院代を工面した。どうやってかはわからない。だが金は、普通の貯金から出たものではなかった。病院の窓口へ現金を入れた直後、彼はテフンキャピタルの路地で捕まっていた。
病院代を払えば助かる。そう信じていた若い自分の前で、その金の出どころを疑えと言うのは酷だった。だが疑わなければ、ウジンはそのまま闇へ引きずられる。
ミンソはさらに別の資料を広げた。
「これが廃業時の旧会計システム一覧です。十一月十八日の三百万ウォン入金も残っています。時刻は午後七時五十八分。処理者は同じくパク・ギョンジャさん。備考は『手術費不足分、現金』」
ナギョンは目を閉じた。
三日後にも、彼は金を持ってきた。拒まれ、病院にも来るなと言われたあとで。それでも母の手術費を払った。彼の手の甲が赤く腫れていたというパクの証言が、紙の数字に重なった。
「……先生、これ、何の調査なんですか」
ミンソの声は控えめだった。好奇心より心配が先にあった。
ナギョンはすぐには答えられなかった。便箋の白さを見つめる。真実を全部話せば、ミンソは常識で止めるだろう。あるいは信じられないまま、巻き込まれてしまう。どちらにしても、今の一分を説明に使う余裕はなかった。
「十年前の、私が間違えた案件」
「案件、ですか」
「そう思って整理して。感情を入れたら負ける」
ミンソは口を閉じた。納得した顔ではなかったが、反論はしなかった。
時計は午前一時を過ぎていた。
ナギョンは二枚目のノートに、数字だけを書き写した。午後六時四十二分、保証金未納で検査保留。午後八時十二分、匿名現金入金。午後八時十四分、路地でウジン拘束の写真。十一月十八日午後七時五十八分、手術費不足分三百万ウォン入金。
その横に、過去の自分が必ず確認すべきことを並べる。
一、ウジンの金をそのまま受け取って終わらせない。
二、出どころを必ず確認する。
三、ひとりで会いに行かない。
四、病院向かいのテフンキャピタルに一人で近づかない。
五、パク・ギョンジャに入金時刻と処理控えを確認する。
そこまで書いて、手が止まった。
「ウジンを引き止めて」とだけ書けば、若いナギョンはきっとそうする。泣いて縋り、彼の腕をつかみ、理由を聞くまで離さないかもしれない。だがそれは、テフンキャピタルの連中の前に自分から姿を現すことでもあった。
十年前の自分は、母を救いたい一心で動く。初恋を失いたくない気持ちで、さらに動く。そこへ未来の自分が「彼を逃がすな」とだけ命じたら、今度は母だけでなく、若い自分まで危険へ投げ込む。
ナギョンは便箋の上に、まだ書いていない一行を見つめた。
『ひとりで決めないで』
この一文を、もっと具体的にしなければならなかった。頼れ、では足りない。誰に、何を見せ、どこへ行かず、何を確かめるのか。感情ではなく手順で縛る。そうしなければ、過去はまた都合よく悲劇を選ぶ。
午前二時半、ミンソがコンビニの袋から缶コーヒーを取り出した。
「飲んでください。胃に悪そうですけど、倒れるよりましです」
「ありがとう」
「先生が素直にお礼を言うと、怖いです」
「怒るんじゃなかった?」
「怒ります。飲まなかったら」
ナギョンは缶を受け取った。冷たい金属が手のひらの熱を奪う。眠気はなかった。代わりに、二つの記憶が頭の中で軋んでいた。母が生きていたはずの時間。母の遺影の前で喪服を着て立っていた時間。どちらも自分のものになりかけているのに、どちらか一つしか残らない。
『お母さんを助けたい』
その願いは、あまりに強かった。けれどその願いだけで書けば、また誰かを踏みつける。ナギョンは歯を食いしばり、便箋の最初の行にようやく字を置いた。
二十三歳の私へ。
そこから先は、削っては書き直した。謝罪は消した。後悔も消した。ウジンを信じて、という言葉も消した。信じるかどうかではなく、確認すること。愛しているかどうかではなく、生き残ること。二十三歳の自分に必要なのは、慰めではなかった。
「十一月十五日午後八時十二分、ハンビッ医院会計に匿名現金入金あり。入金処理者は医事課パク・ギョンジャ。午後八時十四分、ウジンは病院向かいの路地で貸金業者に拘束されている。金の出どころを確かめるまで、彼を責めるな。返すな。受け取って終わらせるな」
書いているうちに、胸が痛くなった。
過去の自分がこれを読めば、ウジンを見た瞬間に泣くだろう。責めたことを悔やみ、すべてを聞き出そうとするだろう。だから続けて書く。
「ただし、絶対に一人で追うな。病院向かいのテフンキャピタル株式会社には一人で入るな。ウジンが金を用意した理由と相手を確認する時は、日時、場所、相手の名前を記録し、第三者に共有してから動くこと。母の検査予定は止めない。病院の予約変更を自分の判断でしない」
万年筆の先が紙に引っかかった。インクが小さくにじむ。ナギョンはそこへ指を置き、深く息を吐いた。
第三者。誰に共有するのか。十年前の自分の周囲で、安全だと断言できる人物はまだ少ない。パク・ギョンジャは病院内の証人にはなる。だが外の脅しに対抗できるわけではない。警察に行けと書くには根拠が足りない。貸金業者の背後を知らないまま通報させれば、逆にウジンを追い詰める可能性がある。
ナギョンは「警察へ行け」と書いた行を二重線で消した。
軽率な正解は、最も危険な嘘になる。
「パク・ギョンジャには、入金控えの存在だけ確認すること。ウジン本人には、金をどこから借りたのかを問い詰めるのではなく、誰に返済を求められているのかを聞くこと。答えない場合は、彼を責めず、行き先を確認すること」
午前三時四十分。
会議室の窓の外はまだ暗かった。ミンソは区役所と業者から聞き取った内容を、別紙にまとめ直していた。目元に疲れが見えたが、手は止まらない。
「先生、現場作業員の集合は午前四時半みたいです。五時開始なら、準備で中に入るのはその前です」
「鍵は?」
「解体業者が管理。郵便設備の担当会社は、到着次第、裏口から搬出経路を確保する、とあります」
「裏口……」
ナギョンは旧郵便局の裏路地を思い出した。最初に入り込んだ、錠のかかっていなかった非常口。黒い郵便受けへ続く、埃っぽい作業場。そこが閉ざされれば、建物が残っていても意味はない。
午前三時五十七分、ナギョンは便箋の末尾を書いた。
「これは、彼を引き止める手紙ではない。あなた一人の判断で誰かを切り捨てないための指示書。母も、ウジンも、あなた自身も、同じ紙の上に置いて考えて。怖い時ほど、一人で結論を出さないで」
書き終えた瞬間、指の力が抜けた。
これで十分だとは思えなかった。だが、これ以上感情を足せば、手紙はまた祈りや命令に変わる。過去を動かすには、祈りは強すぎる。強すぎる言葉は、簡単に誰かの逃げ道を壊す。
ナギョンは便箋を乾かし、資料の数字をもう一度確認した。入金時刻、写真時刻、テフンキャピタルの住所、パク・ギョンジャの名。二十三歳の自分が動けるぎりぎりの事実だけを残す。
その時、ミンソの携帯が鋭く鳴った。
午前四時ちょうどだった。
ミンソは画面を見て、すぐに通話へ出た。
「はい、ミンソです。……え? 今ですか? 五時開始じゃ……」
顔色が変わった。
ナギョンは便箋を折る手を止めた。
「どうしたの」
ミンソは通話口を押さえ、青ざめた顔で振り向いた。
「先生、現場の人からです。解体作業員が予定より早く入っています。郵便局の裏口の錠を、もう壊しているそうです」
ナギョンの手から、折りかけの便箋が机へ落ちた。
午前五時まで、あと一時間あるはずだった。だが過去へ続く黒い箱は、時計より早く奪われようとしていた。
ミンソの携帯から、金属を打ちつける鈍い音が漏れた。続いて、誰かの荒い声が響く。
「裏口、開きます!」
ナギョンは便箋と資料をつかんだ。もう推敲する時間はなかった。
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
19話 廃棄物袋の黒い郵便受け
次の話