終バスが停留所へ滑り込むより先に、信号が赤へ変わった。
車内がかくんと揺れ、立っていた乗客がつり革を握り直す。その一瞬、ウジンはナギョンの手を引いた。後部扉の前にいた年配の男が不審そうに振り向く。だが、ウジンはもうブザーの横へ指を伸ばしていた。
「今だ」
低い声が耳を打った。
ナギョンは考えなかった。足が先に動いた。後ろの車のヘッドライトが窓いっぱいに広がり、赤い結び紐の手首がもう一度見えた瞬間、扉が開ききる前に二人は段差から飛び降りた。
濡れたアスファルトが靴底を滑らせた。ナギョンの膝に衝撃が走り、ウジンが腕を引き上げなければ、そのまま倒れていた。背後でバスの運転手が何か怒鳴り、クラクションが短く鳴った。
「走れ」
ウジンは彼女の手を離さなかった。
二人は停留所の柱を回り込み、チョンノの細い路地へ飛び込んだ。夜明け前の食堂街は、閉店後の鉄板の油と、早い仕込みの出汁の匂いが混じっていた。シャッターの隙間から白い湯気が漏れ、積み上げられた野菜箱が道を狭くしている。
後ろで車のドアが開く音がした。
「そっち!」
ナギョンは自分でも知らない路地を指した。頭の中に、十年後の地図ではなく、今この時の足場だけがあった。人が二人すれ違うのも難しい裏道。店の排気口。斜めに立てかけられた看板。低い塀。
ウジンが先に塀へ手をかけ、身軽とは言えない体を無理に持ち上げた。彼は着地した直後、振り返って腕を伸ばす。
「手」
ナギョンはコートの内側を押さえながら、彼の手をつかんだ。そこには透明なUSBはない。旧郵便局へ隠した。だが試し刷りの写真、白紙契約書の画像、テソへ見せるつもりの写しを入れた別の小さなUSBが、内ポケットへ残っている。全部を渡さない。その約束だけが、二人をまだつなぎ止めていた。
塀の向こうは、食堂の裏庭だった。プラスチックのたらい、酒瓶のケース、濡れたゴム手袋。ナギョンは足首をひねりかけたが、声を出さなかった。声を出せば終わる気がした。
路地の入口で革靴が止まる音がした。
「こっちへ来たはずだ」
パク・ドギュンの声ではなかった。だが、警察署で聞いた別の刑事の声に似ていた。
ウジンはナギョンを引き、さらに奥の隙間へ身を滑らせた。古い建物の裏、ゴミ箱が三つ並ぶ陰。二人でしゃがむには狭すぎた。ナギョンの肩が壁にぶつかり、剥がれた塗装がコートに白くつく。
息がうるさい。
ナギョンは手で口を覆った。ウジンも同じように、胸を押さえている。額に張りついた髪から水滴が落ち、彼の顎を伝った。
足音が近づいた。
二人は動かなかった。ゴミ箱の蓋の隙間から腐った野菜の匂いが立ち上り、吐き気が込み上げる。だが、そんなものより、警察の靴音のほうがずっと怖かった。
「バスを見失っただけだ。市場のほうを見ろ」
別の声がした。
足音が遠ざかる。車のエンジン音が一度唸り、ゆっくり角を曲がって消えた。それでもウジンはすぐには立たなかった。ナギョンも動けなかった。
どれほど経ったのか、わからない。
やがてウジンが、壁にもたれたまま小さく息を吐いた。
「警察は、もうない」
その言葉は、あまりにも平らだった。絶望ではなく、確認だった。
ナギョンは頷いた。喉が乾いて、声が出なかった。チョンアム警察署。パク・ドギュン。赤い結び紐。証拠袋。令状もなく携帯を出せと言った手。制度の入口だと思った場所が、敵の内側だった。
「病院も見られてる。ソヒの部屋も長くは使えない」
ウジンは膝の上で拳を握った。
「印刷所もだめ。警察もだめ。俺たちだけで逃げても、いつか捕まる」
ナギョンはコートの内側へ指を入れた。小さなUSBの角が指先に当たる。赤いUSBはソヒへ。透明なUSBは旧郵便局へ。今、彼女の内側にあるのは、頼る相手へ見せるための写しだった。
それが、急に鉛のように重く感じた。
「テソ先輩に会う」
声にすると、路地の冷気が一段深くなった。
ウジンはすぐに答えなかった。彼の目には、信じたい相手をもう一度疑う疲れがあった。
「本当に、その人しかいないのか」
「いない」
ナギョンは唇を噛んだ。血の味が薄く広がる。
「警察以外で、手順を知ってる人。教授に出すには遅い。新聞社は証拠が弱い。母の病室へ直接送れば、母まで巻き込む。テソ先輩なら、内部監察でも、検察でも、正しい窓口を知ってる」
自分で言いながら、彼女はその言葉にすがっているとわかった。
ウジンもわかったのだろう。責めなかった。ただ、ゴミ箱の陰から路地の先を見つめた。
「全部は渡さない」
「わかってる」
「俺の父の名前に似た行も、まだ見せるだけだ。渡さない」
「うん」
「君がその先輩を信じるなら、俺も一緒に行く。でも、君だけで説明しないでくれ」
ナギョンは顔を上げた。
ウジンの声は震えていた。逃げたいのに、逃げないと決めた人の声だった。
「俺の父のことも、俺が話す。俺が運ばされたことも、俺が話す。君が俺を守ろうとして、俺の分まで背負わないでくれ」
その言葉に、ナギョンの胸が詰まった。
十年後のナギョンは、希望法律センターの机の前で、同じ記憶に飲み込まれていた。彼女の手には、いつのまにか古いメモがあった。『テソ先輩に連絡する』と書かれた紙片。黒く消された「はず」。
けれど今、新しく流れ込んできたのは、その黒線の冷たさだけではなかった。
チョンノの裏路地で、ゴミ箱の陰に身を縮め、息を殺しながら、過去の自分はウジンと並んでいた。彼の手はまだ冷たかった。足首は痛み、膝は震え、警察も病院も安全ではなかった。それでも、ひとりではなかった。
ナギョンの胸の奥で、長く固まっていた恨みが音を立てずに崩れた。
旧郵便局の夜に来なかった男。自分を捨てた男。十年間、そう呼んでおけば楽だった。怒っていれば、自分が何を見なかったのか考えなくて済んだ。だが記憶の中のウジンは、来なかったのではない。何度も来ようとして、追われ、脅され、なお彼女の手を握っていた。
安いチムジルバンの床。モーテルのドアの前の椅子。バスの後部座席で、何も言えないまま重なった指。希望法律センターで泣く被害者へ水を出す自分。眠れない夜に、ウジンの肩の熱を頼りにしていた自分。
愛していた。
その事実が、遅すぎるほど静かに胸へ落ちた。
捨てられたと思い込むことで切り捨ててきた記憶の底に、彼を愛していた自分が、まだ息をしていた。十年間、恨みで塞いでいた場所に、熱いものがじわじわ満ちていく。痛みではあった。だが、空っぽではなかった。
ナギョンは机の端をつかんだ。
「……私は、あなたを憎んでいたんじゃない」
声は誰にも届かないほど小さかった。
「憎まなきゃ、生きられなかっただけ」
その時、旧郵便局の方角からではなく、机の上の小さな黒い郵便受けから、重い消印の音が響いた。
ナギョンは息を止めた。
撤去作業で傷ついた金属の箱は、希望法律センターの資料室の隅に仮置きされていたはずだった。ミンソが証拠保全の名目で運び込ませた、あの黒い郵便受け。さっきまで沈黙していた投入口の奥で、紙が擦れる音がした。
ナギョンは立ち上がり、箱へ近づいた。
指先が震えた。過去から返事が来なければ、次の手紙は送れない。つまりこれは、二十三歳の自分がまた何かを決めたということだった。
小さな扉が開いた。
中から白い封筒が滑り出る。表の字は、乱れているのに懐かしかった。二十三歳のイ・ナギョンの筆跡。封を切ると、短い文が数行だけ並んでいた。
チョンノで追跡を振り切ったこと。
警察にはもう戻れないこと。
ウジンと一緒に、テソ先輩へ会いに行くと決めたこと。
ナギョンは一行ずつ読んだ。胸の奥に残っていた温かさが、紙の上の文字に触れるたび、少しずつ不安へ変わっていく。最後の行に近づくほど、黒く消された「はず」の線が、頭の中で濃くなった。
そして最後の一文を読んだ瞬間、心臓がひやりと沈んだ。
『テソ先輩に帳簿の写しを預ければ、私たち、安全になれるよね?』
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
31話 テソ先輩への冷たい疑念
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