母が初めてハンビッ医院に入院した日だった。
その事実にたどり着いた瞬間、ナギョンは出勤の時間を忘れた。壁にもたれていた背中がずるりと滑り落ち、膝が床に触れた。携帯電話の画面にはまだ、二〇一三年十一月十五日、午後八時二分という時刻が残っている。額縁の中の若い自分は、何も知らない顔で笑っていた。
ロースクール合格の日。母の入院の日。ウジンが病院代を心配するなと書いた日。
三つの事実が同じ一点へ集まるほど、ナギョンの記憶は逆にほどけていった。母はあの日、急な検査のあとしばらく入院した。自分は合格発表の喜びよりも入院保証金の額に青ざめ、病院の廊下で何度も計算をした。そこまでは覚えている。
では、誰が払ったのか。
「……私が、払ったはず」
口に出した言葉は弱かった。払える金などなかった。奨学金はまだ振り込まれていない。アルバイト代は家賃と薬代でほとんど消えていた。親戚へ頭を下げた記憶もない。母は退院する時、会計窓口の前で、あなたは勉強だけしなさいと笑っていた。
その笑顔の前に、誰の手があったのか。
ナギョンは立ち上がり、ノートパソコンを開いた。事務所の始業時刻まで、もう一時間を切っていた。だが今日の調停予定も提出期限も、画面の端へ追いやられた。彼女はクラウドストレージ、古いメール、カレンダーのバックアップを順に開いた。検索欄に、ハンビッ医院、入院、会計、十一月十五日、と打ち込む。
結果はすぐに出た。
見覚えのないフォルダが増えていた。名前は『二〇一三_下半期』。昨日まではなかったはずだ。少なくとも、ナギョンが十年間一度も開いた記憶のない場所だった。
フォルダの中には、古い予定表のバックアップが並んでいた。ロースクール二次面接準備メモ。面接官想定質問。志望理由の修正版。そこまでは、ありえないわけではなかった。彼女は合格の直後から休む暇なく次の準備をしていた。
けれど、同じ日付の下に、別の予定がいくつも増えていた。
ハンビッ医院、十九時三十分、保護者面談。
ハンビッ医院、二十時、入院手続き完了。
翌週午前、精密検査予約。
ナギョンは画面に顔を近づけた。予定の作成者は自分だった。通知の繰り返し設定も、当時よく使っていた短いメモの癖も、間違いなく二十三歳の自分のものだった。
本来の記憶では、その時期はもっと孤独だった。ウジンは少しずつ連絡を減らし、ナギョンは母の病室と図書館を往復しながら、自分だけが取り残されていくと思っていた。誰にも頼れず、頼らないことが強さだと信じていた時間だった。
だが残された記録は、違う過去を語っていた。
予定の一つを開くと、メモ欄に短い文が残っていた。
『会計、済。確認だけ』
それだけだった。誰が済ませたのか、どの窓口で、いくら支払ったのかは書かれていない。ナギョンは検索条件を広げ、銀行アプリの古い取引明細へ入った。十年前のデータは一部しか残っていなかったが、少なくともその日の大きな出金はない。
母の名義の古い保険通知も探した。該当なし。医療費の控除資料を開く。ハンビッ医院の項目はある。金額もある。なのに領収書の画像欄だけが白紙だった。
真っ白なページ。
紙の端も、判も、印字もない。画像データが壊れたのではない。白い紙を撮影したように、均一な白だけが保存されていた。
「誰が、消したの」
ナギョンはマウスを握る手に力を入れた。病院側の記録保存の問題なら、白紙にはならない。自分で取り込んだ記録なら、なおさらだ。まるで誰かが、支払った人物の名前だけを隠すために、領収書そのものを抜き取ったようだった。
机の引き出しを開け、奥に押し込んでいた古い携帯電話を取り出した。長く使っていない機種は角が擦り切れ、背面のシールは半分剥がれている。充電器を差し込むと、しばらくして画面にひび割れたようなロゴが浮かんだ。
起動を待つ間、ナギョンは事務所へ短くメッセージを送った。
『午前中は外します。急ぎの件はチョ弁護士へ。私の予定は触らないで』
すぐに既読がつき、ミンソから『先生、体調が悪いんですか』と返ってきた。ナギョンは返信を打ちかけ、消した。説明できる言葉がなかった。
古い携帯がようやくホーム画面を開いた。通信契約はとっくに切れているが、保存された連絡先とメッセージの一部は残っていた。ナギョンは画面に表示されたチョン・ウジンの番号を、自分のスマートフォンに打ち込んだ。震える指で、発信ボタンを押した。
発信音は鳴らなかった。
機械的な案内だけが流れた。現在使われていない番号です。何度かけても同じだった。彼女はスマートフォンの通話を切り、古い携帯でメッセンジャーの保存データを開いた。退会済み。プロフィールなし。最新同期不可。薄い灰色の文字が、十年分の断絶を事務的に告げていた。
「逃げたのは、あなたじゃなかったの」
声は問いではなく、ひび割れた独り言だった。
ウジンが本当に捨てたのなら、病院代を心配する必要などなかった。合格の日に青い傘を置く必要もなかった。母の入院手続きが済んだというメモが、ナギョンのカレンダーに残るはずもなかった。
けれど、もし彼がそばにいたのなら。
なぜ来なかったのか。
旧郵便局の夜九時。必ず行くと言った男は、なぜ最後の場所だけを空白にしたのか。恨むために整えていた答えが、机の上で一枚ずつ裏返されていく。その裏側に、もっと悪い真実が隠れている気がした。
ナギョンはクラウドフォルダをもう一度確認した。白紙の領収書を拡大し、明度を下げ、影を強める。何も出てこない。完全な白だった。だがファイル名だけは残っていた。
『HB_20131115_receipt_02』
一枚目があるはずだった。receipt_01。検索しても出てこない。削除済みフォルダにも、バックアップの履歴にもない。最初から存在しなかったように消えていた。
ナギョンは椅子を蹴るように立った。考えているだけでは、また現実が変わる。昨夜、郵便受けは消印を押した。ならば返事があるかもしれない。二十三歳の自分が、何かを見たのかもしれない。
上着をつかみ、額縁の写真を鞄に入れた。古い携帯も、ノートパソコンも、印刷した白紙の領収書も放り込む。玄関を出る直前、もう一度だけ母の連絡先を見た。電話はしなかった。もし母の言葉にまで知らない記憶が含まれていたら、自分が立っていられない気がした。
ソンブク洞へ向かう道は、昨夜より明るかった。朝の車列は鈍く進み、窓の外の街はいつもどおり生活を始めている。誰も、過去が一晩で書き換わったことなど知らない。ナギョンだけが、自分の部屋に突然現れた写真と、白紙の領収書を抱えて、十年前へ引き戻されていた。
旧郵便局の前に着くと、仮囲いの向こうで作業員が二人、撤去準備の資材を運んでいた。取り壊し告知はまだ壁に貼られている。五月二十九日。残り三日だったはずの文字が、朝の光の中で妙に薄く見えた。
ナギョンは人目を避け、裏路地へ回った。非常口は昨夜と同じように、少し開いていた。中へ入ると、湿った埃の匂いが鼻を刺す。仕分け台、破れた郵袋、壁に残る古い区分表。すべてが夜よりも現実的で、そのぶん余計に異様だった。
黒い郵便受けは、仕分け台の端にあった。
扉は固く閉じていた。昨夜、口を開けていた小さな扉は、最初からそうだったようにぴたりと閉まり、古い金属の表面に乾いた錆だけを浮かべている。
ナギョンはその前に立った。喉が渇いていた。鞄からスクリーンショットを印刷した紙を出し、郵便受けの横へ置く。『病院代のことは心配するな』。その一文を見つめるほど、胸の奥で固めていたものが崩れそうになる。
「返事を、したの?」
過去の自分に向けたのか、郵便受けに向けたのか、自分でもわからなかった。
答えはなかった。作業場の外から資材を運ぶ音が遠く聞こえるだけだ。ナギョンは郵便受けの隙間に指をかけた。開かない。力を入れても動かなかった。昨夜、あれほど簡単に開いた口が、今は拒むように固い。
焦りが喉を締めた。
「お願い。何が起きたのか、見せて」
証拠のないものに願うなど、昨日までの自分なら軽蔑しただろう。だが今、ナギョンは知りたかった。ウジンを恨んでよかったのか。母の病院代を払ったのは誰だったのか。青い傘を持っていたのは本当に彼だったのか。
その時、郵便受けの奥で、紙がこすれる音がした。
ナギョンは息を止めた。固く閉じていたはずの小さな扉の隙間が、内側からわずかに押し広げられる。錆びた金属がきしむ音はしない。ただ、薄い白が闇の中から現れた。
封筒だった。
雨に濡れていない、張りのある白い封筒。埃もなく、角も折れていない。昨夜の葉書のように、今この場所へ置かれたばかりの清潔さを保っていた。それが誰の手にも触れられぬまま、郵便受けの口から静かに滑り出てくる。
ナギョンは反射的に受け止めた。指先に触れた紙は冷たかった。だが死んだ紙の冷たさではない。どこか遠い時間から、まだ体温を失わずに届いたもののようだった。
表には通常の宛名はなかった。
差出人も、切手も、消印もない。ただ中央に、宛名の代わりに二十三歳の自分の字で、はっきりと書かれていた。
『二十三歳のイ・ナギョン』
ナギョンの呼吸が止まった。
自分が過去へ送ったはずの警告に、過去の自分が返事を書いたのではない。これは、二十三歳のナギョンが、さらにその日の自分へ残した手紙だった。十年後のナギョンに読ませるためではなく、あの夜を迎える直前の自分に向けた、もう一通の警告。
封筒の裏を返した瞬間、封の合わせ目に黒いインクで小さな一文が足されているのが見えた。
『私がこれを読まなかったら、ウジンは消える』
受取人、10年前の私へ。どうか一人で消えようとする彼の手を離さないで
6話 崩れ落ちる恨みと規則
次の話