ミンソの手が、ドユンの肩でさらに固まった。
スマートフォンの画面に浮かんだ一文は、誰の指にも触れられないまま、薄い光で小屋の中を照らしていた。
『じゃあ、俺が代わりに答えてやろうか』
ドユンはそれを見た瞬間、息の仕方を忘れたように目を見開いた。外の自分が言ったのか、画面の文字が言ったのか、それとも自分の頭の底で囁かれたのか、もう区別できない顔だった。
ヘジュンは手を伸ばし、スマートフォンを床へ伏せさせようとした。だがドユンは反射的にそれを胸へ抱き込んだ。大切な機材を守るときの動きだった。いつもの浅い自尊心と、いまにも砕けそうな恐怖が、同じ腕の中でぶつかっていた。
扉の外のドユンが、くすりと笑った。
「なあ、本当に黙ってるつもりか? カメラの前ではあんなにしゃべれるのに。おまえ、黙ったら何も残らないだろ」
ドユンの頬がひきつった。
その言葉は、刃物より浅く、だが正確に彼のいちばん薄い皮膚を切った。撮影者。配信者。人より早く怖がり、人より大きく驚き、それを言葉にして売ってきた男。危険を面白がり、失踪の噂まで企画名に変えようとした男。
黙れ、と言いたいのが喉元まで上がってきた。
ミンソはそれを見抜いた。声を出さず、肩をつかむ力をさらに強める。目は同じ命令を繰り返していた。
言うな。
ジェヒもメモ帳を突き出した。
『挑発です。返事にされます』
ドユンは読んだ。読んで、唇を噛んだ。血がにじんだ。だが外の声は、待たなかった。
「ほら、また人に止められてる。ヘジュンさんを脅して機材を取りに行かせたときは強かったのにな。再生数のためなら人を押せるのに、自分の声ひとつ守れないのか?」
スマートフォンの入力欄で、カーソルだけが点滅していた。それがまるで、ドユンの返答を待つ舌の先に見えた。
ドユンの呼吸が荒くなる。胸のカメラが上下に揺れ、赤いランプが細かくまたたいた。彼は一度、ミンソを見た。次にヘジュンを見た。最後に、扉を見た。
目の奥に、くだらない意地が灯った。
怖い。だがこのまま床に押さえつけられ、妹に泣かれ、知らない女たちに守られながら震えるだけの姿を、自分自身に認めることもできない。外の声は、その小さな虚栄まで自分のもののように知っていた。
ヘジュンが首を横に振った。
ドユンは、わずかに笑った。笑おうとしただけの、歪んだ表情だった。
「うるせえ」
それは小さな声だった。けれど、小屋の中では銃声のように響いた。
ミンソが息を呑み、ドユンの口を塞ごうとした。間に合わなかった。恐怖で震えた舌が、一度走り始めると止まらなかった。
「黙ってろ、この偽物が! 俺の声で勝手にしゃべるな!」
言葉の最後が扉へ叩きつけられた瞬間、小屋の空気が一斉に崩れ落ちた。
音が消えたのではなかった。音を支えていたものが抜けた。床下の機械音、救急箱の中のノイズ、誰かの呼吸、外の霧が木戸を撫でる気配まで、すべてが下へ落ちたように沈んだ。耳の奥が真空になり、ヘジュンは自分の心臓の音さえ一瞬見失った。
ドユンの顔から、表情が抜けた。
彼は口を開いたまま固まっていた。怒鳴った姿勢のまま、舌だけが動かなくなっている。次に、両手が喉へ飛んだ。指が皮膚に食い込み、爪が白くなった。
「……っ、……!」
何も出なかった。
ドユンは目をむき、もう一度叫ぼうとした。首に筋が浮き、口が大きく開く。だが漏れたのは、乾いた息のかすれだけだった。声ではない。空気が破れた布を通るような、弱々しい摩擦音だった。
彼はよろめき、膝から床へ落ちた。古い床板が鈍く鳴る。スマートフォンが手から滑り、液晶を上にして転がった。そこにはもう勝手な文字はなく、白い入力欄だけが空っぽに光っていた。
ソユンが悲鳴を上げかけた。ヘジュンは振り向き、反射的に妹の口元へ手を伸ばした。ソユン自身も両手で口を塞ぎ、喉の奥に出かけた音を必死に押し殺す。目だけが大きく開き、床のドユンと扉を交互に見ていた。
ミンソはドユンのそばへ膝をつき、彼の顎を持ち上げて呼吸を見た。救助の手つきは速かった。気道を確かめ、首を触り、唇の色を見る。肺は動いている。空気は入っている。だが声だけが、どこにもなかった。
ドユンはミンソの腕をつかみ、必死に何かを訴えた。口を大きく動かす。助けてくれ。戻してくれ。そう読める形が何度も作られる。だが音は一粒も出なかった。
その沈黙の中で、扉の外から笑い声がした。
ドユンの声だった。
さっきまで小屋の中で震えていたものではない。喉を痛めたような擦れも、恐怖でつまずく調子もない。自然で、明瞭で、動画の冒頭で聞き慣れた軽さを取り戻した声だった。
「うるせえ、だってさ」
外のドユンは、楽しそうにその言葉をなぞった。
「黙ってろ、この偽物が。俺の声で勝手にしゃべるな。いやあ、いいね。ちゃんと拾えた。今の荒れ方、かなり使いやすい」
床のドユンが凍りついた。
彼は口を開け、外へ向かって怒鳴ろうとした。何度も、何度も。首が赤くなるほど力を込めた。それでも出るのは、かすれた息だけだった。自分の声が、扉の向こうで自分を笑っている。小屋の中の本人は、その笑いに反論するための一音すら持っていない。
ヘジュンの背筋に、壁の刻字が焼きついた。
『外から自分の声が聞こえても、答えるな。』
警告は比喩ではなかった。迷信でも、心を乱すための言葉でもなかった。答えた瞬間、声は奪われる。奪われた声は外へ移り、次の餌としてしゃべり始める。その仕組みが、いま目の前で成立した。
ジェヒは震える手でメモ帳へ書いた。
『声帯ではなく、声そのものが取られています』
ミンソは短くうなずいた。だがドユンに見せる余裕はなかった。彼は床を爪で掻き、何かを書こうとして失敗し、スマートフォンへ手を伸ばした。指が震え、画面ロックを何度も打ち間違える。焦りで呼吸が乱れ、また声にならない悲鳴が喉を擦った。
外のドユンが、今度は甘く呼んだ。
「ソユン」
ソユンの体が跳ねた。
ヘジュンは即座に妹を抱き寄せた。ソユンは自分の耳を両手で塞いだが、声は隙間から入り込むように聞こえ続けた。
「ソユン、見てるんだろ。怖いよな。さっき泣いてたもんな。俺、もうしゃべれないからさ。代わりに聞いてくれよ」
ごん。
扉が鳴った。
ノックではなかった。硬い額を木に打ちつける、鈍く湿った音だった。
「ソユン」
ごん。
「ソユン」
ごん。
外のドユンは、名前を呼ぶたびに額を扉へ打ちつけているようだった。ロープが震え、柱に食い込んだカラビナが細く鳴る。木戸の板には、内側から見てもわかるほど浅いへこみがひとつ、またひとつと増えていった。
ソユンは悲鳴を呑み込んだ。喉が上下し、涙が手の甲を濡らす。耳を塞いでも、名前は骨を通って届くようだった。ヘジュンは彼女の頭を胸へ押しつけ、声を出さずに小屋の隅へ後退した。
ミンソもドユンの腕を引いて、扉から遠ざけようとした。ドユンは抵抗した。外へ飛びかかるためではない。床に落ちた自分の声へ、どうにか手を伸ばそうとするように、扉へ向かって身を乗り出す。ミンソは歯を食いしばり、首を横に振った。
ジェヒは救急箱を足で押し、壁際へ寄せた。箱の中の無線機は沈黙している。必要がなくなったのだ。扉の外には、もっと新しく、もっと鮮明な送信口が立っていた。
「ソユン、返事しなくていいからさ」
外の声は、笑いながら優しくなった。
「耳、塞いでも無駄だよ。俺の声、もう中にあるから」
ごん。
今度の音は、扉の中央より少し低かった。額だけではない。顔をこすりつけ、こちらを探っているような音だった。
ヘジュンはソユンを抱えたまま、壁際の暗い隅へしゃがみ込んだ。妹の両手の上から、自分の手でさらに耳を塞いだ。ソユンは目を閉じ、声を漏らさないよう唇を噛んでいた。血の赤が薄く浮かぶ。
床では、ドユンがようやくスマートフォンのメモを開いていた。彼は震える指で文字を打つ。最初は打ち間違え、次に消し、また打つ。やがて画面をヘジュンたちへ向けた。
『声が出ない』
その一文は、あまりにも幼く、あまりにも遅かった。
外のドユンが同じ言葉を、完璧な声で読んだ。
「声が出ない」
そして、扉の向こうで愉快そうに息を吸った。
「じゃあ次は、誰の声で呼ぼうか」
外から自分の声が聞こえても答えるな
17話 床下に潜むもう一つの口
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