画面の端に浮かんだ灰色の文字は、まばたきのあいだに消えた。
最後の目的地まで、あと四十二キロ。
ジェヒはすぐに画面を拡大し直したが、青い経路は何事もなかったようにキャンプ場入口で止まっていた。ドユンが「今の撮れたかな」と胸のカメラをいじる横で、ソユンはヘジュンを見た。
「ねえ。何か隠してないよね」
ヘジュンの喉が詰まった。昨夜の無音電話と、備考欄の一文が舌の奥まで上がってきた。だがサービスエリアのざわめきの中でそれを出せば、この場で引き返す流れになる。店の臨時休業の紙、未払いの部品代、空になりかけた口座が頭をよぎった。
「地図アプリの不具合だろう。山だとよくある」
言った瞬間、ソユンの目が細くなった。完全な嘘ではない。だが、彼女が嫌う種類の逃げ方だった。
ミンソは席を立ち、短く告げた。
「日が落ちる前に着きましょう。山道は、遅くなるほど悪くなる」
それで話は切れた。五人は再びバンに乗り込んだ。
高速を降りてからの道は、予想よりずっと細かった。舗装はされていたが、山肌から落ちた小石がところどころに散り、ガードレールの外はすぐ暗い谷になっていた。ヘジュンはハンドルを握る手に力を込めた。カーブを一つ越えるたびに、市街地の音が後ろへ遠ざかり、代わりにエンジン音とタイヤの砂を踏む音だけが車内を満たした。
ドユンは最初こそ窓の外へカメラを向けていたが、同じような杉林が続くと退屈そうに背もたれへ沈んだ。ソユンは黙ってスマートフォンを見ていた。圏外と表示されている画面を閉じては開き、また閉じる。ミンソは助手席で地形図を広げ、曲がり角の数を数えているようだった。ジェヒだけが、ときどき窓を少し下げ、湿った風の匂いを確かめていた。
一時間以上登ったころ、道路脇に古い木の看板が現れた。
静寂稜線キャンプ場。
白い文字は雨に削られ、最後の一字だけが薄くなっていた。看板の下には黄色いロープが垂れ、支柱には色褪せた営業終了のお知らせが貼られている。だが予約者はこちら、という矢印はまだ外されていなかった。
「着いた……って感じ、しないですね」
ドユンがカメラを回しながらつぶやいた。
バンが砂利を踏んで入口へ入ると、小さなチケット売り場が見えた。ガラス窓の内側に人影はない。料金表は貼られているが、端がめくれ、紙の下に虫の死骸がたまっていた。窓口のトレーには、乾いた葉が一枚だけ乗っている。
「営業中、なんだよな」
ヘジュンは自分に言い聞かせるように言った。予約確認書を印刷した紙を取り出し、チケット売り場の窓を軽く叩く。
返事はなかった。
「管理棟じゃないですか。最後の客を歓迎するサプライズとか」
ドユンの軽口は、広い敷地に吸われるように薄くなった。
管理棟は入口から少し奥、炊事場の手前にあった。平屋の木造で、屋根のトタンは黒く濡れている。扉には南京錠がぶら下がっていたが、施錠されていなかった。輪が外れたまま、風に押されるたびに扉が細く開き、ぎい、と低くきしんだ。
ヘジュンが扉を開けようとすると、ミンソが彼を制して前に立ち、取っ手へ手をかけた。
「待ってください。まずは中に人がいるか確認します」
彼女は少しだけ開いた扉の隙間から声をかけた。返事はない。二度目も同じだった。ミンソは肩で扉を押し開けた。
管理棟の中は薄暗く、古い紙と湿った木の匂いがした。受付カウンターの上にはチェックイン名簿が置かれている。最後の記入欄は空白のままだった。壁の時計は二時十七分で止まっている。ヘジュンはカウンターの呼び鈴を鳴らしたが、軽い金属音が一度響いただけで、奥の事務室から誰かが出てくる気配はなかった。
「予約、入ってますよね。カン・ヘジュン、五名。撮影許可も申請済みです」
誰に向けたのかわからない説明をしながら、ヘジュンは確認書を握りしめた。紙が汗で柔らかくなる。
ソユンがカウンターの横から奥をのぞいた。
「誰もいないのに、どうやって営業してるの」
「たまたま席を外してるだけだ」
「お兄ちゃん、それ何回目の『たまたま』?」
ヘジュンは答えられなかった。
ジェヒは受付カウンターの周りではなく、少し離れた床の隅にしゃがんでいた。指先で土埃をすくい、鼻に近づけると、眉がわずかに寄った。
「普通のかび臭さだけじゃありません」
「何の匂いですか」
ミンソが聞いた。
「薬品に近いです。溶剤か、処理剤か……まだ断定できません」
ジェヒはリュックから小さな採取容器を出し、管理棟の床に入り込んだ土を慎重に入れた。透明な容器の底で、灰色がかった粒がかすかに光った。
ドユンが身を乗り出す。
「お、環境問題も乗るんですか。閉鎖キャンプ場の闇、みたいな」
「茶化さないでください」
ジェヒの声は静かだったが、硬かった。彼女は容器の蓋を閉じ、ラベルを貼る。
「この閉鎖、利用者減少だけが理由とは限りません」
その一言で、管理棟の温度が少し下がったように感じた。
ミンソは壁際の古い電気メーターを確認していた。透明なカバーの内側で円盤は止まっている。ブレーカー箱を開けても、主電源は落ちたままだった。
「電気は通っていません」
「水は?」
ヘジュンが炊事場へ向かうと、他の四人も続いた。屋根付きの流し台には黒ずんだ落ち葉が詰まり、蛇口の下に赤茶けた跡が残っていた。ヘジュンがハンドルを回す。ぎり、と金属が鳴っただけで、水は一滴も出ない。もう一つ、さらに奥の蛇口も同じだった。
「錆び水くらい出るかと思ったのに」
ドユンが言った。
ミンソは簡易無線の電源を入れ、チャンネルを変えた。ざ、という短いノイズすらない。無線機は沈黙したままだった。彼女は眉をひそめ、外へ出てアンテナを伸ばす。
「変です。山だから携帯が弱いのはわかります。でもこの距離なら、少なくとも管理用の無線はどこか拾うはずです」
「壊れてるんじゃないですか」
「出発前に確認しました」
ミンソの返答は短かった。
ヘジュンは管理棟の周りを歩き回った。裏口、倉庫、薪置き場。どこにも管理人はいない。駐車場には彼らのバン以外の車もなかった。予約確認書の紙だけが、場違いなほど整っている。
「管理事務所に電話します」
彼は携帯を出した。圏外。画面を高く掲げても変わらない。ソユンが無言で自分の画面を見せた。彼女のものも同じだった。
「引き返す?」
ソユンの声は低かった。怒りではなく、判断を求める声だった。
ヘジュンは入口のほうを見た。ここまで来るために使ったガソリン代、撮影の約束、店の今週の支払い。引き返すという言葉は、どれもまとめて谷底へ落とす響きを持っていた。
「管理人を探す。入口の案内板に連絡先か、場内図があるはずだ」
ソユンは何か言いかけたが、唇を結んだ。まだ帰らない、という選択が兄の都合でできていることを、彼女はわかっていた。
入口案内板は、最初に見た木の看板の裏手に立っていた。古い場内図には、Aサイト、Bサイト、炊事場、トイレ、管理棟が雑に色分けされている。稜線側は緑色の森として塗られているだけで、道も建物もなかった。
「記事の写真の小屋、このへんですよね」
ドユンが画面を見比べた。ジェヒも地図を出したが、アプリは今度は起動こそするものの、現在地を示す青い点が入口と管理棟のあいだで細かく震えていた。
「位置が安定しません」
「山だからだろ」
ヘジュンが言ったが、自分でも弱いと思った。
そのとき、ソユンが案内板の右端に手をかけた。
「これ、裏に何かある」
板の端から、赤い色がのぞいていた。案内板は支柱から少し浮いており、裏側へ回り込める隙間があった。ソユンが身を細くして回り込むと、すぐに息を呑む音がした。
「来て」
五人は案内板の裏へ回った。
そこには、古い注意書きを塗り潰すように赤いペンキが重ねられていた。乾ききった赤ではない。雨に打たれた表面の下で、まだ生々しい光沢を残している。太い刷毛で乱暴に書かれた文字は、何度も上からなぞられていた。
裏手の稜線、立入禁止。
ドユンのカメラの小さな作動音だけが聞こえた。ミンソは無言でしゃがみ、案内板の下の土を照らした。
足跡があった。
登山靴の跡。新しい。縁が崩れておらず、湿った土がまだ黒い。ひとつ、ふたつ、そこから森の奥へ続いている。だが戻ってきた跡は見当たらなかった。足跡はすべて、赤い文字の向こう、立入禁止区域の内側へだけ伸びていた。
ジェヒが顔を近づけ、低く言った。
「この匂い、ここがいちばん強い」
ヘジュンは息を止めた。風が案内板の表を揺らし、古い木がきしむ。その音に混じって、彼の耳の奥で、昨夜の電話と同じ低い機械音が一瞬だけ回った気がした。
ぐうん、ぐうん。
ミンソがはっと顔を上げた。
「今、何か聞こえましたか」
誰もすぐには答えなかった。答えたくなかった。森の奥では、立入禁止の赤い文字の先で、足跡が霧の中へ沈んでいた。
そしていちばん新しい靴跡の横に、まだ濡れている別の跡が一つだけあった。
裸足の、小さな足跡だった。
外から自分の声が聞こえても答えるな
4話 稜線の向こうに灯る影
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