二度目の黄色い灯りが近づいた瞬間、ドユンの顔から笑みが消えた。
だが、それはほんの一拍だけだった。次の瞬間には、彼は操縦機の画面をこちらへ向け、無理に明るい声を出した。
「見ましたよね? 今の。これ、絶対撮るべきです」
「やめてください」
ミンソが即座に言った。声は低く、さっきよりも硬かった。
ドユンは肩をすくめた。
「地面には入りませんって。上から見るだけです。むしろ安全確認ですよ」
「地形を把握していない稜線の上に飛ばすのは危険です。木の高さも風の流れも読めない。霧が出れば戻せません」
「戻せます。障害物センサーもありますし、GPSも……」
言いかけたドユンは、画面の左上を見て言葉を詰まらせた。GPSの表示は弱く、時々赤い警告に変わっている。それでも彼は見なかったふりをした。
ヘジュンは黄色い灯りが消えた森を見ていた。胸の奥で、昨夜の無音電話と同じ機械音がまた低く回る。ぐうん、ぐうん。耳の奥だけで鳴っているのか、本当に森から聞こえているのか、判断できなかった。
ソユンが横から言った。
「お兄ちゃん、止めなよ」
その声には、責めるより先に疲れがあった。兄がまた都合のいいほうへ流されると、もう知っている声だった。
ヘジュンはドユンを見た。ドユンは操縦機を抱えたまま、唇だけで笑った。
「ここで引くなら、今日の素材ほとんど死にますよ。ヘジュンさんの店の宣伝も、僕のチャンネルも。機材だって安くないんです。キャンセルできない予約までして来たんでしょう?」
言葉は軽いのに、そこに金の話が混じった瞬間、ヘジュンの足元が沈んだ。支払い、家賃、部品代。ソユンにまだ言っていない金額。全部が、夕方の冷えた空気の中で彼の背中を押した。
「……短時間だけだ。森の奥までは行かせない」
ヘジュンがそう言うと、ソユンの目が細くなった。
「またそれ?」
「撮って、すぐ戻す」
「約束、さっき使ったばかりだよ」
返す言葉はなかった。
ミンソはヘジュンを一瞬見たが、説得する相手を間違えたと判断したのか、すぐドユンの前に立った。
「高度を上げすぎないでください。稜線を越えたら戻す。画面が乱れたら即着陸。いいですね」
「はいはい、了解です。安全第一で」
「冗談ではありません」
その一言に、ドユンはようやく口を閉じた。だが指はもう離陸ボタンの上にあった。
ドローンのプロペラが回り始めた。乾いた草と砂が小さく舞い、Aサイトのランタン箱がかたかた鳴った。機体は低く浮き、少しよろめいたあと、管理棟の屋根を越えていく。操縦機の画面には、夕暮れのキャンプ場が灰色に映った。
上から見ると、静寂稜線キャンプ場は思ったより広かった。Aサイトの二張りのテントが小さく、炊事場の屋根は黒い染みのように見える。管理棟の裏から森へ伸びる立入禁止の赤い文字は、案内板の影に隠れて画面には映らない。
「ほら、いける」
ドユンが息を吐く。
ドローンはBサイトの上へ移った。番号札が点々と並び、B10の白い板に刻まれたX印が、画面越しでも不自然に濃く見えた。ミンソの喉が小さく動く。彼女は何も言わなかったが、手はいつでも操縦機を奪える位置にあった。
ジェヒは自分のスマートフォンと画面を交互に見ていた。地図アプリの青い点は、Aサイトにいるはずなのに管理棟へ跳び、次に入口へ戻り、さらに稜線の奥の空白へ飛んだ。
「位置が、またずれています」
「いまはドローンの映像を見てください」
ドユンは言い、機体をさらに奥へ押し出した。
「稜線を越えます」
ミンソの声が鋭くなった。
「少しだけです。小屋があるかどうかだけ」
「戻して」
ソユンが言った。
「もう遅い時間です。映像だけ保存して、すぐ戻してください」
ジェヒも抑えた声で続けた。だが視線は画面から離れない。彼女は何かを待っているようだった。
ドローンのカメラは森の上を滑った。霧が木々の間から湧き始めている。上空はまだ明るいのに、稜線の向こうだけは白い息に沈んでいた。倒れた木が何本も同じ方向へ折れ、幹の黒い断面が並ぶ。自然の倒木というより、何か大きなものに押し倒されたようだった。
「何だ、これ……」
ドユンの声が少し小さくなった。
画面の端に黄色い光が映った。一度、消える。次に灯ったとき、木々の奥、霧の底に四角い影が現れた。
屋根だった。
古びた木造の小屋が、地図にない稜線の内側に沈むように立っていた。屋根は半分苔に覆われ、壁板は雨で黒ずんでいる。周囲には道がない。獣道すら見えない。倒木の隙間にぽつんと置かれたその建物だけが、何十年も前からそこに待っていたようだった。
「これ……記事の写真の奥に写ってた屋根」
ジェヒがつぶやいた。
彼女は資料ケースからプリントした記事写真を引き抜き、画面と見比べた。霧の濃さも角度も違う。それでも屋根の傾き、片側だけ落ちた軒、背後の折れた木の形が一致していた。
「同じです」
「地図には?」
ヘジュンが聞くと、ジェヒは首を横に振った。
「載っていません。キャンプ場の施設図にも、県の公開地図にも」
「じゃあ、ただの古い作業小屋とか」
ドユンはそう言いながら、さらに機体を近づけた。
ミンソが操縦機へ手を伸ばす。
「それ以上はだめです」
「待って。位置を確認させてください」
ジェヒの声が、珍しく急いでいた。彼女はスマートフォンの地図へ何度も指を滑らせ、白い顔で小屋の方角を見た。
「この位置、私が追っていた土壌調査の疑惑地点と重なります」
ヘジュンは彼女を見た。
「疑惑地点?」
「まだ確証はありません。でも、昔の廃棄物処理に関する資料で、座標だけが欠けていた場所です。ここなら……」
ジェヒはそこで言葉を止めた。言いすぎたと気づいたのだろう。だが遅かった。ソユンの視線が彼女へ移り、ヘジュンの胸には別の重さが加わった。ここにいる全員が、何かを隠している。
「映像だけ保存して戻しましょう」
ヘジュンは言った。自分の声が少し上ずっていた。
「もう保存してます。もう少しだけ寄れば、入口も撮れる」
「戻して」
ミンソが低く言った。
ドユンは返事をせず、右のスティックを押した。画面の中で小屋が大きくなる。軒下は黒く、窓は板で塞がれていた。扉の表面には何か引っかいたような白い跡が何本も走っている。
そのとき、ドローンのマイクが拾うはずのない音が、操縦機のスピーカーから漏れた。
ぐうん、ぐうん。
古い発電機のような低い振動だった。
ヘジュンの指が冷たくなった。昨夜、保存していない番号からの電話越しに聞いた音と同じだった。思わず口を開きかけたが、ソユンの横顔を見て、また言葉を飲み込んだ。
「今の音、何ですか」
ミンソが聞いた。
「プロペラの共振じゃないですか」
ドユンはそう言ったが、目は笑っていなかった。
画面の中で、小屋の扉が揺れた。
風ではなかった。外側から押されたのではなく、内側から、ゆっくりと力を加えられたような動きだった。軋む音までは聞こえない。だが錆びた蝶番が、画面越しでも嫌なほど重そうに開きかける。
ソユンが息を呑んだ。
「中に、誰かいる」
「人がいるなら助けを呼ばないと」
ヘジュンは言いかけたが、携帯も無線も沈黙している現実がすぐに舌を止めた。
「戻してください。今すぐ」
ジェヒが強い声で言った。
ドユンも今度は逆らわなかった。機体を上昇させようとした、その瞬間だった。
操縦機が鋭い電子音を立てた。ピ、ピ、ピという警告が、すぐに連続した悲鳴のような音へ変わる。画面が激しく傾き、木々が上下逆さに流れた。
「何だよ、何だよ!」
ドユンがスティックを動かす。だがドローンは言うことを聞かなかった。高度表示が一気に落ちていく。バッテリーは残っている。風も画面では読めない。それなのに機体は、見えない手で下へ引きずられるように急降下していた。
「操作を離して!」
ミンソが叫んだ。
「離したら落ちる!」
「もう落ちています!」
画面いっぱいに小屋の屋根が迫った。次に軒先の腐った板。黒い窓。折れた枝。映像は何度も乱れ、白いノイズが走る。そのたびに、低い発電機音だけが近くなる。
ぐうん、ぐうん。
最後に、カメラは軒下を映した。
そこは夕方の暗さとは違っていた。光が届かないのではなく、光そのものを吸い込むような闇だった。その奥で、何かが動いた。
人の形に見えた。だが輪郭は薄く、服も顔も判然としない。ただ、頭にあたる部分がゆっくり上がり、落ちてくるドローンではなく、画面のこちら側にいる五人を知っているように、真正面からカメラを見上げた。
通信が切れた。
操縦機の画面は黒くなり、電子音だけがしばらく耳に刺さった。ドユンの口が半開きのまま固まる。ヘジュンは自分の心臓の音を聞いていた。ソユンは何かを言おうとして、結局声を出さなかった。
やがてドユンの手元で、録画ファイルの保存完了を示す小さな通知が光った。
ジェヒが震える指で再生を押した。最後に自動保存された一枚のフレームが、画面いっぱいに開く。
小屋の軒下の闇。その闇の中から、黒い影がこちらを見上げていた。顔はないはずなのに、見られていると全員がわかった。
そして影の右手のようなものが、まるで招くように、ゆっくり持ち上がっていた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
6話 禁じられた稜線の入口
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