床板の下で鳴り始めた音に、誰もすぐには動けなかった。
ぐうん、ぐうん。小屋の中心から、古い機械が息をしているような低い振動が上がってくる。だが床は揺れていない。音だけが、木材の隙間を伝って足裏へまとわりついていた。
ミンソが最初に我に返った。ロープを握ったまま、ヘジュンの肩を軽く押して中へ入らせる。
「入口をふさがないで。全員、中へ。声は低く」
「ここに入るんですか」
ソユンは扉の外と内側を見比べた。外の霧は、もう小屋の戸口ぎりぎりまで寄っていた。白い壁というより、濡れた布を何枚も重ねて押しつけたように、厚く、重かった。
ヘジュンは妹の背中へ手を添えようとして、また止めた。
「少しだけだ。中を見て、危なくなければ夜明けまで待つ場所にできるか確認する」
「危なくないように見える?」
返す言葉がなかった。
それでも外よりはましだった。霧の中には崖があり、見えない手が目印を引いていく。小屋の中には、少なくとも床があり、壁があった。ヘジュンはそう自分に言い聞かせ、最後に入って扉を閉めた。蝶番がきしみ、外の白さが細い線になって消える。
閉めた瞬間、温かさがはっきりした。
ストーブを焚いている部屋のような熱ではない。人が大勢いて、長く息を吐き続けたあとのぬるさだった。湿った木と古い布の匂い、その奥に薬品の鋭さが混ざっている。
「電気、来てませんよね」
ドユンがカメラのライトを点けた。赤い録画ランプだけが小さく光る。彼の声はいつもの軽さを保とうとしていたが、語尾がかすれていた。
ジェヒは壁際を照らし、すぐに首を振った。
「配線は古いです。ブレーカーも落ちている。少なくとも今、この建物に通電している様子はありません」
「じゃあ、この温かさは?」
ソユンが腕を抱いた。
誰も答えなかった。
ミンソは答えの代わりに動いた。まず正面の窓へ行き、新聞紙のように見えたものを端だけ持ち上げる。紙ではなく、古い地図と作業票を何枚も重ね、釘で打ちつけたものだった。隙間からヘッドランプを外へ向ける。
光はほとんど進まなかった。霧がガラスのすぐ前に張りつき、白い膜になっている。窓の外に空間があるのか、それとも霧そのものが壁なのか、判別できない。
「開けません」
ミンソは短く言った。
「割れば?」
ドユンが言うと、彼女は一度だけ振り返った。
「外が中へ入ります」
それだけで十分だった。
ミンソは次に裏口を探した。小屋は一部屋だけに見えたが、ストーブの奥、棚と積まれた木箱の影に低い戸があった。彼女は手袋越しに取っ手を押し、引き、蝶番を確かめる。鍵はない。だが戸板は外から土か何かで押さえつけられているように、びくともしなかった。
「裏口は使えません。無理に開けないほうがいい」
「一時避難、できそうですか」
ヘジュンが聞くと、ミンソは室内を一周見た。窓、裏口、扉、床、天井。救助隊員だったころの目が、出口と危険を順に拾っていく。
「安全とは言いません。けれど、外で霧の中を歩くよりはましです。扉を内側から固定できれば、短時間なら」
その言葉に、ヘジュンはわずかに息を吐いた。短時間。自分が何度も使ってきた逃げ道のような言葉だったが、今はそれにすがるしかなかった。
「ドローン、軒にあるんですけど」
ドユンが窓のほうを見た。小屋の正面側、小さなガラスの向こうに、ぼやけた黒い影が見える。たしかに軒下のドローンだった。手を伸ばせば届きそうな位置にある。外からなら。
ヘジュンも見た。窓の外の霧は、ガラス一枚を隔ててこちらをのぞき込んでいるようだった。さっき閉めた扉をもう一度開ける想像をしただけで、喉が締まる。
「今は取らない」
「ヘジュンさん」
「開けない。機体より、誰も欠けないようにするほうが先だ」
ドユンは不満そうに口を開いたが、ミンソの視線を受けて黙った。代わりにカメラを構え直し、室内を撮り始める。
ライトが寝袋の輪をなぞった。
古い寝袋は、数えていくほど多かった。十では済まない。二十、三十。色も形もばらばらで、登山用の高価なものから、量販店の薄いものまで混ざっていた。すべてが中央を向き、ファスナーを開いたまま、円を作っている。
「何なんですか、これ。集団キャンプ? 儀式?」
ドユンは軽く言おうとしたが、誰も笑わなかった。
ソユンが寝袋の一つをつま先で押した。中身は空だった。けれど布は完全には潰れず、人の体温を覚えているようにゆるく膨らんで戻る。
「触らないほうがいい」
ヘジュンが言うと、ソユンはすぐ足を引いた。
「命令しないで。わかってる」
彼女の声は刺さったが、いつもより弱かった。小屋の温かさが、怒る力まで湿らせているようだった。
ジェヒは床にしゃがみ、寝袋の端に付いた黒ずみをライトで照らした。泥にも見える。古い血にも見える。彼女は手袋をはめた指で近くの床板を軽くこすり、匂いを確かめる。
「消毒液の匂いが強い。ここで何か処置をしたか、洗ったか」
「処置?」
ソユンが顔を上げた。
その時、ドユンのライトが壁のあちこちで止まった。
「ちょっと、壁。穴だらけです」
木の壁には、無数の小さな黒い点があった。釘跡だった。何かを貼り、外し、また貼った跡。高さは一定ではない。低い位置から、人の目線の高さまで、壁一面に散っている。いくつかの跡の部分だけ、木の色が浅く、四角く跡が残っていた。
「写真か、紙を貼っていた跡ですね」
ジェヒが言った。
「こんな山奥の小屋で?」
ドユンはカメラを寄せた。録画時間は進んでいる。今度は逆に減っていない。だがヘジュンには、その赤い数字がいつまた削られ始めるのか気になってしかたなかった。
ミンソは部屋の隅へ向かった。そこには小型の発電機が置かれていた。音の正体であってほしかったものだ。だが近づくほど、それが違うとわかった。
外装は赤茶色に錆び、燃料キャップは固着している。コードは途中で切れ、プラグの金属部分には白い粉のような腐食が浮いていた。排気口には古い蜘蛛の巣が張り、埃が厚く積もっている。何年も、いや何十年も動いていない鉄くずだった。
それでも音は鳴っている。
ぐうん、ぐうん。
今も床板の下から、規則正しく。
「止まってます」
ミンソは発電機を確認し、低く言った。
「じゃあ床下に別のがあるとか」
ドユンの声が少し上ずった。
「この音量なら振動が出ます。床に出ていない」
ジェヒが床へ手を当てた。すぐ顔をしかめる。
「温かいのに、熱源がない。薬品臭は下からも来ています」
ヘジュンは工具ナイフを握り直した。床板をはがすべきかと思ったが、ミンソが先に首を横に振った。
「今は開けない。出口の確認が先です」
その時、棚の下で何かがかすかに滑る音がした。
全員が固まった。ジェヒだけが、ライトを低くして棚の隙間をのぞいた。壊れた鍋、空の缶、破れたロープ。その奥に、白い金属箱が半分隠れていた。
「救急箱です」
彼女は慎重に引き出した。
箱の表面には赤い十字がかすれて残っていた。角はへこみ、留め金には乾いた黒いものがこびりついている。ジェヒが開けると、中から古い包帯、割れたアンプル、黄ばんだ紙の束が出てきた。
ソユンが一歩下がる。
「それ、血?」
留め金の内側と包帯の端に、茶色く乾いた染みがあった。新しくはない。だが古すぎて安心できる色でもなかった。
ジェヒは紙を一枚広げた。薬品名、投与量、負傷部位、搬送時刻。手書き欄の横に、印刷された枠がある。彼女がミンソへ差し出すと、ミンソの表情が変わった。
「どうしたんですか」
ヘジュンが聞く。
ミンソは紙を持つ指に力を入れた。
「山岳救助隊の救護記録です。今の様式じゃない。かなり古い」
「どれくらい?」
「少なくとも二、三十年前。私が入った頃には、もう使われていませんでした」
小屋の温かさが、急に別の意味を持った。誰かがここで長く過ごしたのではない。何十年も前から、ここに人が運び込まれていたのかもしれない。
ドユンが無言でカメラを寄せる。レンズの反射が、紙の上の古い文字を白く光らせた。
「名前、あります?」
ジェヒはページをめくった。何枚かは湿気で張りつき、無理に剥がせば破れそうだった。記録欄の名前はにじんで読めない。だが薬品リストの下、備考欄に同じ判が押されていた。
静寂稜線、臨時救護所。
ヘジュンはその文字を見た瞬間、口の中が乾いた。キャンプ場の施設図には、こんな臨時救護所はなかった。記事にも、管理棟にも、誰もそんな場所を示していなかった。
「ここ、昔は救助隊が使っていたんですか」
「わかりません」
ミンソの答えは硬かった。
「でも、正式な保管なら、こんなふうに放置しません」
ソユンはストーブのそばに立っていた。黒く錆びた筒型のストーブは冷えている。灰受けには灰も炭もない。ただ、横に置かれた錆びた無線機だけが、奇妙に目を引いた。
古い携帯型の無線機だった。アンテナは途中で折れ、電源つまみは白く粉を吹いている。前面のスピーカーには細かい埃が詰まり、赤い電源ランプは当然のように消えていた。
「これも救助隊の?」
ソユンが拾い上げた。
「待って」
ミンソの声が飛んだ。
その瞬間だった。
電源ランプは点いていない。つまみも動いていない。電池蓋は半分外れ、中には何も入っていないように見えた。
それなのに、スピーカーの奥で、ひゅ、と短い音がした。
小屋の全員が息を止めた。ノイズは一秒にも満たなかった。だがただの雑音ではなかった。誰かが暗い筒の向こうで、こちらの息をまねて吸い込んだような音だった。
ソユンの指から無線機が落ちかける。ヘジュンが駆け寄って受け止めようとしたが、触れる寸前で止まった。錆びたスピーカーの奥から、もう一度、ほんのかすかな呼吸がかすめた。
そして今度は、吸う音の最後に、ソユンがまだ声にしていないはずの震えが混ざっていた。
外から自分の声が聞こえても答えるな
10話 壁に刻まれた声の警告
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