その震えが止まったあとも、道潤はしばらく壁に映る名前を見ていた。
アルマン・ベケトフ。
赤い枠は消え、ケララの湿った空気も、赤土の匂いも、遠ざかっていった。けれど左手首の奥には、あの短い震えだけが残った。呉明植の病室で触れた曲がった指。地下測定室の画面に開いた原本アクセス。すべてがその名へ集まり、まだ開いていない革の内側を叩いているようだった。
二日後、道潤と恩彩はカザフスタン、アルマティ郊外の訓練場にいた。
雪は音を吸っていた。低い建物の屋根にも、金網の外にも、灰色の空から落ちた雪が固く積もっている。訓練場の中だけが暖かく、分厚いマットと古い汗の匂い、壁に掛かったサンボジャケットの群れが、外の白さを拒んでいた。
恩彩は道潤の右膝に巻いたテープを確かめ、低く言った。
「今日の相手は、あなたの新しい経路を見ている」
「分かってる」
「それだけじゃない。呉明植の名前で、あなたがどう動くかも見ている」
道潤は返事をしなかった。返事をすれば、喉の奥に溜まったものが一緒に出そうだった。
黒手袋の進行係がマット脇に立ち、端末を掲げる。表示は簡潔だった。第六路。制限時間なし。勝敗判定は制圧または継続不能。対戦者、アルマン・ベケトフ。
奥の扉が開いた。
入ってきた男は、巨体ではなかった。だが肩幅と首の太さが、厚い冬用のジャケットの下でも隠れていない。短く刈った黒髪、広い額、淡い色の瞳。歩幅は大きくないのに、一歩ごとにマットが先に沈むように見えた。
アルマンは中央へ進み、道潤と向かい合った。礼は深くも浅くもない。格闘家同士の距離を測るだけの動きだった。
道潤は先に問いかけるつもりだった。
館長に何をした。
その言葉を、何度も機内で噛み潰してきた。だがアルマンは、道潤が口を開くより早く言った。
「呉明植を倒したのは、私だ」
恩彩の息が止まった。黒手袋の端末が、微かに角度を変える。
道潤の足裏が固まった。
アルマンの声は、体格に似合わないほど落ち着いていた。挑発でも、誇示でもなかった。事実を置く声だった。
「だが、闇討ちではない。彼が先に求めた試験だ。場所も条件も、彼は知っていた」
「黙れ」
声が低く割れた。
アルマンは表情を変えなかった。
「彼は強かった。最後まで立ち上がろうとした。私の腕を壊せる位置もあったが、壊さなかった」
「黙れと言った」
道潤の左手が震えた。リストバンドではない。自分の指だった。
呉明植が血まみれで戻った搬入口。青い唇。病室の白い照明。人差し指がかすかに曲がった感触。そこへ、アルマンの平静な声が重なった。
試験。
求めた。
最後まで立ち上がろうとした。
それは、道潤が聞きたかった真相ではなかった。館長を倒した相手が悪意ある敵で、殴り伏せれば答えになる。そうでなければ、怒りの置き場がなくなる。
「館長は、そんなものを望まない」
道潤は踏み出していた。
恩彩が叫ぶ。
「道潤、待って!」
届かなかった。
道潤は李偉の近距離の圧を思い出すより早く、身体を前へ投げた。右膝を守る短い中心。アーラヴの爪先の終点へ干渉した新しい経路。それらを順番に置く余裕はない。ただ、アルマンの襟を取る。腕を折る。マットへ叩きつける。
その一念だけが視界を狭めた。
アルマンは下がらなかった。むしろ半歩、入った。
道潤の指がジャケットの襟へ触れる。次の瞬間、そこにあったはずの胸が消えた。アルマンの左前腕が道潤の右肘の内側へ入り、右手が背中の布を短くつかむ。サンボの組み手。だが力任せではない。道潤の腰が前へ流れる場所を、最初からそこに壁があるように塞いだ。
道潤は李偉の詠春拳で内側へ圧を返そうとした。肘を締め、中心線を取り戻す。だがアルマンの額が顎の下へ軽く入っただけで、視界が上へずれた。
拍子が奪われる。
道潤はメキシコの観客戦術を使うように、相手の視線の始まりを探した。だがアルマンの目は動かない。観客はいない。歓声もない。使える波は一つもない。
ならば足だ。
アーラヴの爪先の軌道。終点だけを読む。道潤はアルマンの右足を見る。そこへ手を掛ける前に、アルマンの膝が道潤の腿の外側へ触れた。
触れただけだった。
だがその接触で、右膝を守る逃げ道が消えた。道潤は反射で骨盤を戻そうとする。そこへアルマンの腰が、低く、固く差し込まれた。
「遅い」
短い言葉が耳元に落ちた。
道潤は怒りで力を足した。襟を引き、肩を押し、相手の重心を崩そうとする。エミルの油のように滑るわけではない。ンディアイのように膝を潰しに来るわけでもない。アルマンはただ密着し、必要な場所だけを閉じた。
腕が動かない。腰が回らない。足裏に圧を置く前に、圧そのものが相手の胸へ吸われる。
道潤は肘を抜いて外へ回ろうとした。そこが出口に見えた。
アルマンの手が背中から腰帯へ滑る。
道潤はその瞬間、間違えたと悟った。出口ではない。投げられるために開けられた空白だった。
世界が横へ倒れた。
マットが背中へ来る。受け身を取る。館長に何千回も叩き込まれた反射が、かろうじて顎を引かせた。肩を丸め、腕を打つ。衝撃は流れた。だが、完全には逃げられなかった。
肺の中の空気が、一気に潰れた。
道潤は咳き込みながら横を向いた。天井の蛍光灯がにじむ。雪で白くなった窓。マット脇の黒手袋。恩彩が駆け寄ろうとして、進行係に手で止められている。
アルマンは道潤の上に乗らず、少し離れて立っていた。
「立てるか」
その声に、道潤の奥歯が鳴った。
立つ。立って殴る。もう一度、襟を取る。今度は壊してでも倒す。
そう思ったのに、身体は動かなかった。背中の痛みではない。投げられた瞬間、足裏の順番が完全に消えていた。怒りだけが前へ出て、中心がどこにも残っていない。
アルマンは淡い瞳で道潤を見下ろした。
「今の君は、あの日の呉明植とはまるで違う」
道潤の呼吸が止まった。
「彼は私へ向かって来る時、怒ってはいなかった」
言葉は、投げより深く胸へ刺さった。
道潤はマットに片手をついた。立ち上がろうとしているのか、ただ倒れたままではいられないのか、自分でも分からなかった。呉明植の名前を奪い返すために来たはずなのに、今の自分は、その名から一番遠い場所にいる。
アルマンが一歩、近づいた。
「続けるなら、君ではなく、君の怒りを投げる」
道潤の指がマットをつかんだ。恩彩の制止も、進行係の端末音も遠い。胸の奥で、怒りより鋭い何かが軋み始めていた。
それでも彼は顔を上げた。
自分が次に立つ一歩が、復讐になるのか、館長の教えに戻る一歩になるのか。
その答えを出す前に、アルマンの影が再び道潤の上へ落ちた。