黒手袋の指が入力しかけた地名は、進行係が画面を伏せたせいで読めなかった。
道潤は踏み込もうとして、顎の奥に走った痛みで足を止めた。鼻から落ちた血が唇の端を伝い、シャツの胸へ黒く染みていく。処置室へ向かえという声だけが、倉庫の鉄骨に薄く反響していた。
倉庫脇の洗面台は、荷役作業員用の古いものだった。蛇口をひねると、最初に茶色い水が跳ね、そのあと冷たい水が細く落ちた。道潤は両手を受け皿にし、顔へ叩きつける。鼻血が薄く広がり、排水口へ赤い線になって吸い込まれていった。
鏡の中の自分はひどかった。鼻梁は腫れ、左頬は赤黒く、顎の下には膝の硬い跡が残っている。息を吸えば肋骨の下が痛んだ。
それでも、鏡の顔より鮮明に残っているものがあった。
『君が探している者は、ここにはいない』
李偉の声だった。
道潤は濡れた手を洗面台についた。勝った。判定員はそう言った。第一路は通過した。カードも受け取った。
だが、勝ち方を思い出すたび、胸の奥が重く沈んだ。
呉明植が一番禁じてきたものを、自分はそのままなぞった。怒りに任せて喉へ手を伸ばし、問いを力でこじ開けようとした。パクから盗んだ拍子も、李偉の拳も、合気道の制圧さえ、怒りの中では壊すための手になっていた。
救ったのは、それではなかった。
顎を打ち上げられて宙に浮いた瞬間、身体を拾ったのは模倣ではない。春川の畳で転がされ続けた受け身だった。頭を守れ。落ちる線を読め。倒れる力を返せ。呉の声が、怒りで焼けた神経の底に残っていたから、道潤は首から落ちなかった。
つまり、盗んだ手が勝ったのではない。
盗む前から叩き込まれていたものが、ぎりぎりで彼を生かしただけだった。
道潤はもう一度水をすくい、顔を洗った。痛みで視界が白くにじむ。血が止まりきらない鼻を押さえ、鏡を睨む。そこに映る目だけは、まだ怒っていた。相手へではない。答えを引き出すためなら、自分の中心まで捨てようとした自分へ向いていた。
背後で、金属扉が二度叩かれた。
道潤は蛇口を閉めた。水音が止まると、倉庫のざわめきが戻る。賭けの精算を急ぐ声、ケースを閉じる音、靴底がコンクリートを擦る音。
「入るよ」
李偉の声だった。
道潤は振り返った。細身の男は右手首から肘にかけて白い包帯を巻き、扉のそばに立っていた。顔色は青白いが、歩幅は試合前と変わらず小さい。床を撫でるような足裏の運びだけで、重さの位置が見えなくなる。
「まだ何かあるのか」
道潤の声は低く掠れた。
李偉は洗面台の横まで来ず、距離を残して止まった。負けた相手への礼儀か、まだ観測が続いている場所で不用意に近づかないためか、道潤には判断できなかった。
「ひとつ、言い忘れた」
「館長のことか」
「それを言うほど、私は知らない」
道潤の指が反射的に動いた。手首を取る形を作りかけ、すぐに止める。李偉はその小さな変化を見逃さなかったが、挑発はしなかった。
「詠春拳は、手を真似る拳じゃない」
李偉は包帯の上から自分の前腕を軽く押さえた。
「中心線を守り、相手の中心線を取る。腕の形は、その結果にすぎない。君は形を見るのが速い。驚くほど速い。だが、速い目が拾ったものを、身体の原理が受け止めていない」
道潤は唇を結んだ。
言い返す言葉はいくつも浮かんだ。勝ったのはこちらだ。最後に膝をつかせたのはこちらだ。壊さず制圧したのだから、空っぽではない。
だが、そのどれも喉を越えなかった。
李偉が言っているのは、勝敗の話ではなかった。鼻を折られ、顎を蹴り上げられ、怒りで視野を狭めた自分の身体の話だった。何を見たかではなく、見たものをどこへ置いたか。道潤の腰は、そこに答えを持っていなかった。
「君の目は速い。けれど身体の中は、まだ空いている」
その言葉に、道潤は歯を噛んだ。
空っぽ。
呉にも似たことを言われた。拾ったものを全部使えば、いつか自分の中心がなくなる。あの時は、才能を認めない古い叱責だと思った。今は違う。鏡に映った自分の肩は、誰かの動きを探す時だけ鋭くなり、自分の足裏の位置を問われると途端に鈍った。
「だから何だ」
ようやく出た声は、反論ではなく確認に近かった。
李偉はわずかに目を伏せた。
「次では、私の手を使うな。使うなら、なぜその手が中心を守るのかを先に知れ。知らないまま真似れば、君は次の相手に自分から壊れに行く」
「次の相手を知っているのか」
「知らない。だが、ここはそういう場所だ。勝った者の弱いところを、次の者が知っている場所だ」
倉庫の奥で、台車の車輪が鳴った。李偉はその音へ一瞬だけ視線を向けた。包帯の端から赤い点がにじんでいる。道潤はそれを見て、最後の制圧が本当にぎりぎりだったことを知った。あと一寸、怒りが戻っていれば、骨を壊していたかもしれない。
「君の師は、倒れる寸前まで自分を保っていた」
李偉は静かに続けた。
「私はそれを少しだけ見た。だから、君に腹が立った。あの人の弟子が、あの人の一番嫌った形で突っ込んできたから」
道潤は目を伏せなかった。伏せれば逃げになる気がした。李偉の言葉は刃ではなく、床だった。そこへ立てるかどうかを試されている。
「……覚えておく」
短い返事だった。李偉はそれ以上何も求めなかった。礼の形だけ小さく頭を下げ、扉へ向かう。
その時、扉の外から黒手袋の進行係が入ってきた。男は李偉に一瞥もくれず、道潤の前へ立つ。片手には薄い金属板のようなカード。第一路で渡された紙片とは違い、表面に十二個の鉄環が浅く刻まれていた。
「韓道潤」
進行係は感情のない声で名を呼んだ。
「第二の関門への出場権だ。所持していなければ、次の港で区画に入れない」
道潤はカードを見た。地名はまだ刻まれていない。ただ鉄環のうち一つだけが黒く塗られ、隣の環が薄く点滅していた。まるで、彼が踏み越えた場所と、まだ踏んでいない場所を数えているようだった。
「次の港はどこだ」
「指定時刻の六時間前に通知される」
「呉明植の記録は」
道潤が一歩近づくと、進行係の黒い手袋がわずかにカードを引いた。拒絶ではない。餌を見せる角度だった。
「呉明植の最後の試合記録が知りたければ、次の港まで生きて来なさい」
洗面台の蛍光灯が低く唸った。
道潤の胸の内側で、何かが冷たく締まった。最後の試合記録。試合。呉が倒れた出来事を、彼らはそう呼んだ。襲撃でも事故でもなく、記録として保管している。
怒りが喉まで上がったが、李偉の言葉がその手前で壁になった。
あの人の一番嫌った形で突っ込むな。
道潤は拳を開いた。血の固まった指先が痛む。進行係の顔ではなく、差し出されたカードだけを見る。
「渡せ」
「受領をもって、継続意思ありとみなす」
「渡せ」
同じ言葉を、道潤は低く繰り返した。進行係はわずかに口角を動かした。笑ったのかもしれない。カードが道潤の手に落ちる。
冷たかった。
その瞬間、左手首の革環が初めて別の重さを持った。これまでも硬い部分があることは知っていた。春川の事務室で触れ、裂くなと決めた。だが今、カードの鉄環紋と革の内側の硬さが、同じ線でつながった気がした。
ただの留め具ではない。
呉が最後まで離さなかったもの。黒いスーツの男が奪おうとしたもの。観測されると告げられた瞬間から、手首に巻かれていたもの。
道潤は親指で革の内側を押さえた。硬い板状の何かは沈まず、むしろ骨へ押し返してくる。冷たいはずの革の奥で、ほんの一瞬だけ熱が生まれたような錯覚が走った。
進行係はもう背を向けていた。李偉も扉の外へ消えている。倉庫の灯りは一つずつ落ち、港の夜風だけが洗面所へ流れ込んだ。
道潤は第二の出場権を握りしめたまま、手首を見下ろした。
革の内側の硬い部分が、まるで中から返事をするように、一度だけ彼の脈を押し返した。
崩れざる模倣者は闇の格闘巡礼で世界の達人技を喰らい尽くす
10話 呉明植の本当の記録
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