赤い通知は、培養開始の青い文字を押しのけるように点滅していた。
イソは端末を閉じず、ハリンの後を追って医療室へ向かった。通路の空気は薄く、走るたびに肺が小さく痛んだ。背後ではセユンが培養器の監視を続け、ミンジェが二つの現場を行き来できるよう工具箱を抱え直していた。飢えのための一基を動かした数分後に、まだ生まれていない命のための計算が始まる。その順番の残酷さを、イソは振り払えなかった。
医療室の奥には隔離カーテンが下ろされていた。薄い白の向こうで、酸素補助装置が規則正しく湿った音を立てている。オ・ジアンは簡易寝台に半身を起こしていた。頬に血の気は薄いが、目は眠っていなかった。手首には採血の跡があり、鼻元のカニューレから細い酸素が流れている。
ハリンはカーテンの内側へ入り、ミナに再検査キットを渡した。
「まず事実だけ話します。血中hCG陽性。再検査でも陽性。推定週数はごく初期です。着陸前に成立していた可能性が高い」
ジアンは瞬きを一度しただけだった。
「間違い、ではないんですね」
「現時点では、間違いとして扱えません」
ハリンの声は短く、やわらげるための言葉を使わなかった。だからこそ、イソにはその一つ一つが重く聞こえた。
「着陸衝撃、放射線曝露、低栄養、低酸素、睡眠不足。全部、初期妊娠には悪い条件です。それでも反応は維持されています。奇跡に近い。ただし、その奇跡を作った条件が、そのまま危険要因でもあります」
「私が、危ないということですか」
「あなたも、胎児もです。今すぐ何かが起きているという意味ではありません。けれど通常の妊娠管理とは違います。出血、感染、低体温、栄養不良、どれも監視対象になります」
イソはカーテンの外に立ち、医療室の在庫表示を開いた。酸素補助の流量、鎮吐剤、抗菌薬、葉酸剤、放射線被曝の追加検査、血液検査の消耗品。数字はどれも細かった。妊娠という文字は温かいものではなく、いまの入植地では酸素と薬品と電力の新しい消費欄として現れた。
『この欄を隠した瞬間、また誰かが先に削られる』
イソはそう思い、指を止めた。公開すればジアンを群衆の前へ置く。隠せば、配給表の裏で別の誰かが薄くなる。どちらも正しい形ではなかった。
通信室側の扉が開き、ラオンが端末を抱えて入ってきた。赤い目はさらに赤く、声だけを整えていた。
「地球管制の自動応答が来ました。片道遅延分を除けば、プロトコルが走ってから最初の定型返答です」
ドヒョンもその後ろにいた。短く刈った髪に赤い砂が残り、顎の筋肉が固く動いている。彼はカーテンの前で止まり、医療室全体を見渡した。
「読み上げろ」
ラオンは一瞬だけイソを見た。イソはうなずくしかなかった。ここで伏せれば、赤い通知を見た全員がもっと悪い形で推測する。
「地球管制医療緊急プロトコル応答。低重力環境下における妊娠継続および出産は禁止。妊婦は次回帰還船の医療優先搭乗対象として隔離管理。現地医療班は母体安定、曝露記録、胎児反応記録を暗号化し、地球管制医療監査局へ単独送信」
ラオンの声が少し詰まった。
「関連医療記録は全面封印。本人、非認可現地職員、入植者公開端末への閲覧を禁ずる。現地判断による妊娠継続支援、出生登録、法的地位付与は未承認行為として扱う。以上です」
カーテンの内側で、酸素装置の音だけが残った。
ハリンは端末を持つ手に力を込めた。
「本人にも見せるな、ということですか」
ラオンは口の端を引き結んだ。
「文面上は、そう読めます」
「医療記録を患者本人から隠す指示には従いません」
「ソ・ハリン」
ドヒョンの低い声が落ちた。
「これは医療安全プロトコルだ。低重力出産は規程で禁止されている。妊婦を帰還船へ乗せる。記録は封印する。命令は明確だ」
「帰還船はまだありますが、搭乗計画も燃料も再計算中です。地球へ着くまでの母体リスクも計算されていません」
「地球には設備がある。ここにはない」
ドヒョンはイソへ視線を移した。
「ハン・イソ。君も分かっているはずだ。今の基地に妊婦用の遮蔽区画も、長期酸素余裕も、栄養もない。菌糸農場は一基動いただけだ。生産量ゼロに近い。妊娠を支えるために資源を割けば、他の患者と作業者から取ることになる」
その言葉は脅しであると同時に、事実でもあった。イソは反射的に反論できなかった。酸素流量の数字が、彼の言葉に冷たい裏付けを与えていた。
カーテンが小さく揺れた。ジアンが自分の指で布を開けた。寝台から立とうとして、ハリンに止められる。
「立たないで」
「このまま言います」
ジアンの声は低かった。弱っているのに、遠くまで届いた。
「私は、地球へ戻りません」
医療室の空気がさらに薄くなったようだった。ミナが息を飲み、ラオンが端末を胸に抱え直す。
ドヒョンの目が細くなる。
「自分が何を言っているか理解しているのか」
「理解しています」
「低重力出産は禁止だ。妊婦優先帰還は救命手順だ。拒否は命令不服従になる」
「命令に従えば、私は救われるんですか」
ジアンは鼻の酸素管を外さずに、ゆっくり息を吸った。
「地球へ戻れば、私は患者ではなくなります。最初の火星妊婦です。着陸衝撃を受けて、放射線を浴びて、飢えた入植地で妊娠を維持した標本です。子どもも同じです。医療室と聴聞会、研究室と記者会見のあいだを、一生歩かされる」
「それは推測だ」
「では、記録封印は何のためですか」
ジアンの問いに、誰もすぐ答えなかった。
イソは、アレス03の最終報告にあった封印権限を思い出した。地下塩水層、生体反応陽性。封印処理。言葉は違っても、手順の匂いは同じだった。最初に隠されるのは危険ではなく、誰が何を決めたかだった。
ドヒョンは一歩近づいた。
「恐怖で判断するな。ここに残れば、君と胎児は医療的に危険な状態へ置かれる。地球には法と設備がある」
「その法は、火星で生まれる子を知りません」
ジアンは静かに言った。
「設備はあります。でも、名前を決めるのは設備ではありません」
ハリンがわずかに目を伏せた。ラオンは端末の画面を見たまま固まっている。イソは、ジアンの言葉が単なる拒否ではないことを理解した。彼女は死にたいのではない。選ばれる場所へ戻りたくないのだ。母体、胎児、資料、任務失敗、生命反応。地球の文書はそれらを別々の棚に分類するだろう。だが火星の医療室では、一人の女が酸素管をつけて座り、その腹の中でまだ小さすぎる命が分類される前に存在していた。
「指揮官」
イソはようやく口を開いた。
「少なくとも本人の医療記録は本人に開示します。酸素、薬品、遮蔽、栄養の必要量も公開台帳に項目を作ります。隠して支えることはできません」
「残留を前提にするな」
ドヒョンの声は硬かった。
「命令不服従は容認できない。特例を認めれば、以後の医療搬送も帰還手順も崩れる。全員が自分の恐怖で規程を選ぶようになる」
「規程に、この場所が書かれていません」
「だからこそ規程に戻す」
「戻る先が、本人を封印する命令です」
二人の間で、医療室の照明がかすかに揺れた。電力の細い変動だった。イソはその揺れまで計算に入れそうになり、自分が何をしているのか分からなくなった。胎児の心拍もまだ確認できない段階で、彼女はもう消費量を見ている。だが見なければ、誰かが見えないところで削られる。
ジアンが腹に手を置いた。まだ膨らみなどない。防寒服の上から触れても、そこには何の形も見えなかった。それでも彼女の手つきは、誰かをかばう形をしていた。
「ハン・イソさん」
呼ばれて、イソは顔を上げた。
「私は、ここに残ります。地球の法律が私をどう呼んでも、任務規定がこの子をどう分類しても、私はこの子を火星で隠しません」
その目は、助けを求めていた。だが同時に、決めた者の目でもあった。
イソの端末が再び震えた。地球管制の自動処理が、封印ファイルの下に新しい入力欄を開いていた。
《胎児識別番号:未割当》
《出生予定地:地球帰還後登録》
《現地出生:規程外》
そして最後に、灰色の未処理項目が一つ残った。
《保護責任主体:未定》
医療室の誰もが、その四文字を見た。地球の法律にも、任務規定にも、夜明け号の配給表にも、答えはまだなかった。
ジアンは腹に置いた手を離さず、イソを見つめたまま言った。
「ここで生まれたら、この子は誰の子なんですか」