紙束を握った男が雨の中へ出てきた時点で、ドギョムの足は停留所の角に止まっている。
午前五時を少し回ったブラスヒルは、眠った町の顔をしている。だが窓の奥は起きている。郵便局のブラインドが細く揺れ、薬局の軒下にいた影が引っ込む。誰も見ていないふりをしながら、誰もが見ている。
停留所前の広場には、バスを待つ人間が三人いる。
一人は腰の曲がった老人だ。膝に紙袋を抱え、帽子のつばから滴る雨を拭こうともしない。もう一人は若い作業員で、濡れたジャンパーの胸にある会社名を手で隠している。三人目は女だった。
昨日、広場のベンチに崩れ落ちた女。
トミー・グレンジャーの妻だ。
髪はまた雨に濡れ、頬に貼りついている。服も昨日と同じように見える。違うのは両手だ。彼女は胸の前で一枚の紙を支えている。紙は薄く、雨に打たれて端が丸まり、インクが水へ逃げ始めている。
ドギョムはそこに書かれた太い文字を読む。
面会申請書。
その下に、名前を書く欄がある。申請者。被面会者。施設名。日付。署名。どの欄も震える筆跡で埋められている。だが被面会者の欄だけ、雨でにじみ、トミーの名前が黒い染みになりかけている。
女は紙を守るように両手で挟む。雨を避ける屋根の下には入らない。そこへ入れば、老人と作業員の視線に近づくからだ。彼女は誰にも近づきたくない。だが広場を離れることもできない。
郡リハビリセンターのシャトルは、いつも始発バスより数分あとに来る。
ドギョムはそれを昨日の白いバンの動きから読む。時間の癖。恐怖の癖。この町は、どれも規則正しい。
胸元でミゲルの紙片が当たる。五桁の数字と日付だけの紙。名前を消す町の、小さな骨片。
『乗れ』
頭の中で短く命じる声がある。
ここにいる理由はない。保安官事務所は動き出した。ヘナの警告は事実だ。カール・ラウクはよそ者の顔を忘れない。バスに乗れば、少なくとも数時間は距離ができる。メンフィスでも、その先でもいい。名前を書かずに泊まれる部屋をまた探せばいい。
だが広場の反対側で、路地から三人の保安官代理が出てくる。
昨夜の二人ではない。
細身の薄笑いも、首の太い男もいない。代わりに、若い一人、中年の一人、顎に傷のある一人。三人ともカーキ色のシャツを着て、星形バッジを雨に濡らしている。拳銃は腰。無線機は右側。手袋は黒。
その手に紙がある。
雨よけの透明な袋に入った紙だ。三人はそれを見ながら、広場の人間を一人ずつ照らすように視線でなぞっていく。老人。作業員。女。停留所の屋根。自販機。郵便局の前。
顎に傷のある代理が、紙を少し傾ける。
距離はある。だがドギョムは読めるものだけ読む。
背が高い。黒髪。アジア系。軍用外套。古いダッフルバッグ。軍用ブーツ。
自分だ。
作業員が目を伏せる。老人は紙袋を抱き直す。トミーの妻だけは気づいていない。彼女は面会申請書のにじむ文字を、指で押さえている。押さえても、濡れたインクは戻らない。
停留所の向こうからエンジン音が近づく。
古い長距離バスが霧を割って入ってくる。前面の行き先表示は雨でにじみ、メンフィスの文字が黄色く揺れている。ブレーキが鳴り、車体が停留所の縁に寄る。ディーゼルの排気が広場へ広がり、雨と油の臭いを混ぜる。
扉が開く。
運転手が帽子を押さえ、眠そうな顔で外を見る。
「乗るなら早くしろ。長く止まれねえ」
老人が先に立つ。作業員も続く。トミーの妻は動かない。紙を見ている。シャトルを待つのか、バスに逃げるのか、そのどちらにも体が決められずにいる。
ドギョムはダッフルバッグのストラップを握り直す。
右足が一歩出る。
その一歩は停留所へ向かう。バスの扉は開いている。車内は薄暗く、後部座席には誰もいない。現金を渡せば乗れる。行き先を聞かれても、いつものように短く答えればいい。北へ。どこでも。安いところへ。
保安官代理の一人がこちらを向く前に、階段を二段上がれば終わる。
終わる、という言葉が、胸の紙片に触れて止まる。
「お願いします」
女の声がする。
誰へ向けた声でもない。紙へ言ったのかもしれない。雨へ言ったのかもしれない。トミーの名前がにじんでいくことを止めようとしている声だ。
「お願いします……面会だけでいいんです。署名も、もう一度します。だから、あの人に」
言葉は最後まで続かない。
女の指が滑る。
面会申請書が、濡れた手から落ちる。紙は足元の水たまりに触れ、ふっと軽く浮く。次の瞬間、女の膝が折れる。広場のタイルへ両手をつこうとして、片手が空を掴む。肩から崩れ、雨の中に座り込む。
老人が振り返る。作業員は見ないふりをしようとして失敗する。運転手が舌打ちする。
紙は水の上を滑る。
白い申請書は、排水溝へ向かわず、風に押されてドギョムの方へ流れてくる。にじんだトミーの名前が、黒い傷のように伸びている。
紙の端が、ドギョムの軍用ブーツのつま先に触れる。
彼は見下ろす。
面会申請書。署名。トミー・グレンジャー。郡リハビリセンター。受付印はない。却下の印もない。ただ、受け取られなかった紙だ。存在したことにされない紙。人間を連れ去るには十分な書類があり、会わせてくれと頼む書類だけが水に溶けている。
バスの扉は開いている。
保安官代理の紙には、彼の特徴が書かれている。
女は雨の中で、声も出せずに肩を震わせている。
ドギョムは、申請書を拾わない。
拾えば、手元に紙が残る。拾えば、彼女を助ける姿を誰かに見られる。拾えば、善良な通りすがりのふりが終わる。
彼は足を引く。
申請書がつま先から離れ、水の上でまた揺れる。ドギョムはバスの扉を見る。車内の暗い通路。逃げ道。まだ間に合う。運転手の手はレバーにかかっている。
「乗るのか、乗らねえのか」
運転手が苛立って言う。
ドギョムは答えない。
代わりに、体を停留所とは反対の方向へ向ける。
それは小さな動きだ。だが広場の中では大きすぎる。逃げる男はバスへ向かう。無関係な男は雨を避ける。残る男だけが、開いた扉に背を向ける。
若い保安官代理が気づく。
彼の視線がドギョムの肩からダッフルバッグへ落ち、軍用ブーツで止まる。次に、手元の紙へ戻る。背が高い。黒髪。軍用外套。ダッフルバッグ。
若い代理の口元が固まる。
「おい」
その一音で、残り二人も顔を上げる。
ドギョムは走らない。女のそばへも行かない。濡れた申請書をまたぐこともしない。広場の外周に沿って、保安官事務所と停留所のどちらにも近づかない角度を取る。
だが若い代理の右手は、すでに無線機へ伸びている。
ドギョムの目がその手を測る。親指が送信ボタンへ届くまで半秒。声が乗るまで一秒。三人が広場を閉じるまで五秒。バスの扉が閉まるまで、もう少し。
無線機が雨の中で短く鳴る。
「対象らしき男を確認。停留所前広場。軍用外套、ダッフルバッグ」
ドギョムはそこで初めて、足を止める。
背後でバスの扉が閉まる音がする。ディーゼルエンジンが唸り、メンフィス行きの車体がゆっくり広場を離れていく。
彼の前には、濡れた町がある。
そして三人の保安官代理が、紙を握ったまま、雨の中をこちらへ歩き出していた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
11話 雨の広場と仕組まれた袋
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