黒いピンが地図へ沈み込んだころ、ヘナズ・ダイナーの厨房では最後の灯りが消える。
屋根裏に残る光は、ドギョムの手元の小さな懐中電灯だけだ。アルマは軍用寝袋の奥で浅く眠り、ヘナは下で冷凍機の音に紛れるように椅子を引いている。誰も大きく息をしない。木造の古い食堂は、夜になると壁の中まで耳になる。
ドギョムは床板の釘を一本ずつ外す。音が鳴らない角度を選び、ささくれた板を指先で持ち上げる。奥に押し込んでおいた薄いビニール包みが、埃の下から出てくる。
中には金属の認識票が二枚入っている。
薄い板が手のひらの上で触れ合い、冷たい音を立てる。ソ・ドギョムという名前。米陸軍憲兵隊時代の軍番号。血液型。宗教欄の短い文字。どれも、ほかの書類より正直に彼を指している。
彼はしばらくそれを見る。名を名乗らず、領収書に本名を書かず、よその町で現金だけを使ってきた男が、最後に捨てられないものだった。
階下から床板越しにヘナの声が低く届く。
「上、まだ動いてますか」
「すぐ終わる」
ドギョムは認識票を膝の横へ置き、床下から別の包みを取り出す。サンセット・モーター・インで受け取った名前のない領収書の切れ端。エリック・ホールの運転免許証コピーを写したメモ。夜間清掃班の仮入館カードを撮った荒い写真。班長が見た名札の控え。燃やし損ねれば、どれも一人ではなく複数をつなぐ。
本名がなくてもいい。借りた名前も、残れば刃になる。ヘナへ戻り、エリックへ戻り、ルーファスへ戻り、ミゲルの学校の放送室へまで戻る。ラウクは紙の端に残った油染みからでも線を引く男だ。
ドギョムは紙を短くそろえ、ナイフの背で折り目をつける。それから指で裂く。真っすぐではない。裁断機のような同じ幅にしない。文字が残らないよう、番号の桁をひとつずつ別の方向へ割り、写真の顔の影も縦横に細かく切る。
シャツの袖口から、乾いた血の薄い線が少しのぞく。峡谷の斜面、護送バン、地下の強化扉、廃棄物トラック。ブラスヒルに来てから残した傷は増えた。だが紙の上に自分が増えることのほうを、彼はまだ警戒している。
昔、軍の事務室で同じことを見た。
報告書の提出者欄から、メイソンの名が消えた。添付写真の管理番号が別の箱へ移され、証拠袋の封印破損だけが残った。事故報告書の中では、夜間運転の一行が人間を飲み込み、誰が何を知っていたかは署名欄ごと薄くなった。
消える名前は、一度に消えない。まず日付がずれる。次に部署名が変わる。最後に、本人の字ではない署名が残る。残った紙だけが真実の顔をして、消えた人間は最初からいなかったことになる。
その手順を、ドギョムは手のひらのたこのように覚えている。
だから紙を裂く指に迷いはない。自分の名前だけを守るためではない。この町が自分の足で動き出すためには、よそ者の名前が証拠の中心に立ってはいけない。主役が彼になれば、プライスは外部の暴力と呼ぶ。ラウクは逃走犯と呼ぶ。マローンは取引相手にすり替える。
ブラスヒルを壊すのは、ブラスヒルの中で奪われた名前でなければならない。
ドギョムは紙片を古い缶に入れ、梯子を下りる。厨房にはヘナがいた。カウンター側の灯りは落ち、コンロの火だけが青く低い。彼女の左手首の火傷跡が、その火を受けて暗く浮かぶ。
「燃やすんですね」
「匂いが出る。換気扇は回すな」
「回しません」
ヘナはそれ以上聞かない。彼女は鍋を一つずらし、古い鋳物のフライパンを火の上に置く。ドギョムは缶の紙片を少しずつ落とす。燃える紙は最初に端を丸め、次に文字を黒い穴へ変えていく。
エリックの住所が消える。仮入館カードの番号が消える。サンセットの紙の端に残っていた日付が消える。清掃班の写真の白い縁が縮み、黒い灰になる。
ヘナは灰が舞わないよう、金属のへらで静かに押さえる。
「認識票は」
ドギョムの手はシャツの内側に触れる。そこにはまだ二枚の金属がある。燃えないものだ。火では消えない。折ることはできる。捨てることもできる。だが今は違う。
「まだ燃やさない」
「燃えないでしょう」
「そういう意味じゃない」
ヘナは彼を見る。問いはある。だが飲み込む。彼の声が短すぎるときは、答えがないのではなく、答えを出すと余計なものまで出ると知っているからだ。
ドギョムは認識票を新しいビニール袋へ入れる。ひとつ目を閉じ、空気を抜く。さらに二つ目で包み、端を折って布テープで巻く。金属の鳴る音が消えるまで押し固め、シャツの内側、肋骨の下に作ったいちばん深い隙間へ押し込む。
冷たい重さが胸に戻る。
下の床板の陰で、無線受信機に接いだカセットが小さく回っている。ミゲルが学校から持ってきた古い機械だ。ボタンはすでに磨り減り、録音ランプは暗い赤で震えている。夜通し保安官事務所の周波数を拾わせていた。
最初に入ったのはノイズだった。次に若い代理の声が濁って割れる。
「……三号車、サンセットから戻り。老人、事務所へ。名簿一週間分なし」
別の声が重なる。
「解体屋方面、未舗装路を確認。写真の位置まで移動する。ルーファスの裏庭も見る」
ヘナのへらが止まる。
ドギョムは灰の缶から目を上げる。コンロの火はまだ小さい。紙はもう燃えきっている。残っているのは、焼けた匂いと、無線の中で近づいてくる足音だけだ。
カセットの中で、ラウクではない男が続ける。
「赤いフォード、ナンバー交換済み。だが土が新しい。ブーツ跡の横、まだ残ってるかもしれない」
ルーファスは車両登録につながらない廃トラックを貸した。ナンバープレートも替えた。古い赤のフォードは、すでに別の廃車の顔をしている。だが裏庭の土は顔を替えない。雨が弱かった夜の軍用ブーツの跡は、深く入る。ディーゼル油の染みと廃タイヤの影の間で、まだ呼吸しているかもしれない。
ヘナが低く言う。
「行くんですか」
「行く」
「ここから出れば、黒いピンの中です」
ドギョムは答えず、缶の灰に少量の水を落とす。灰は黒い泥になり、文字だったものの形を完全に失う。彼は缶を流しの奥へ置き、手を洗う。石鹸は使わない。匂いが残る。水だけで指の間をこすり、布で拭く。
屋根裏へ戻ると、アルマが目を開けていた。起きていたのか、無線で起きたのかはわからない。彼女は寝袋の端を握ったまま、声を出さずにドギョムを見る。
「ミゲルは」
「学校じゃない。今夜は別の場所にいる」
それだけ言うと、アルマは小さくうなずく。安心した顔ではない。ただ、次に恐れる相手を選び直した顔だ。
ドギョムはダッフルバッグの中身を確認する。布テープ、薄い手袋、予備のシャツ、折りたたみナイフ、救急包帯、古い帽子。銃はない。持たない。持てば、ラウクの紙に書きやすい。
彼は床板を戻し、釘を軽く押し込む。もうそこに本名はない。ジョアンのノートパソコン、識別番号の写し、封筒記録の一部は別の場所へ分けてある。紙を一か所へ集めないこと。人も一か所へ集めないこと。それが今夜の生存条件だった。
階下でヘナが裏口の鎖を外す音がする。食堂の前の通りには、まだパトカーの常駐はない。だが遠くで、水を踏むタイヤの音が一台ぶん増えている。
ドギョムは梯子に足をかけ、最後に胸元の認識票を指先で押さえる。金属はビニールの奥で黙っている。
無線がまた割れた。
「解体屋へ向かう。到着まで十分。裏庭の土を撮れ。ルーファスを外へ出すな」
ドギョムはダッフルバッグを肩へ担ぎ直す。残された時間は十分。十分あれば、土を殺し、足跡を嘘にできる。だが一歩遅れれば、ルーファスの名は今夜、書類の上でドギョムの隣に並ぶ。
ヘナが裏口を細く開ける。雨の匂いが入る。
ドギョムは何も言わず、闇へ出る。ラウクの黒いピンは、もう解体屋の裏庭で地面に触れようとしていた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
41話 雨の解体屋に残る足跡
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